
【ほどく時間 #14】学校が悪いわけでも、家庭が悪いわけでもない…
面談が終わったあと。
帰り道で、
なんとも言えない疲れが残ることがある。
うまくいったはずなのに、
どこかに引っかかりがある。
学校が悪い、とは思っていない。
先生たちも、本気だとわかっている。
家庭が悪い、とも思っていない。
親も、必死だと知っている。
それでも、
なぜか、しんどい。
誰も悪くないのに、
うまく噛み合わない場面がある。
学校には、学校の役割がある。
全体を見る責任。
公平であること。
制度の中で判断すること。
家庭には、家庭の役割がある。
その子一人を見る責任。
その子の背景を抱えること。
感情の揺れに付き合うこと。
どちらも、間違っていない。
でも、
見ている範囲が違う。
守ろうとしている単位が違う。
だから、ときどき
言葉がすれ違う。
「合理的配慮を検討します」
という言葉と、
「この子はどう感じるだろう」
という問いは、
同じ場所に向かっているようで、
立っている位置が違う。
そこに優劣はない。
ただ、
構造があるだけ。
学校が悪いわけでもない。
家庭が悪いわけでもない。
けれど、
構造が、
人を疲れさせることはある。
制度が、
個人の揺れを吸収しきれないこともある。
そのとき、
誰かを責めると、
一瞬だけ楽になる。
でも、
本質はほどけない。
「どこが悪いか」ではなく、
「どこでズレているか」。
その問いに変わると、
少しだけ、空気が変わる。
対立構造から、
立ち位置の違いへ。
善悪から、
構造へ。
僕も、教師だった頃は、
「家庭の理解」が足りないと
思ったことがある。
父になってからは、
「学校はわかっていない」と
思ったこともある。
どちらの顔も、
僕の中にある。
だからこそ、
簡単にどちらかを断罪したくない。
学校が悪いわけでもない。
家庭が悪いわけでもない。
ただ、
立ち位置が違う。
見える景色が違う。
それだけかもしれない。
それを知っているだけで、
言葉は、
少し柔らかくなる。
ジャッジが、
少し遅くなる。
そして、
子どもが
板挟みになる構造を、
ほんの少しだけ、ほどけるかもしれない。