
「取締役として、出向を命ず」 「首切り屋」経営コンサルタント理沙の奮闘! 9
9
9月になった。
昼間の太陽は、8月までと変わらない強い輝きを見せていたが、降り注ぐカロリーは少なくなり、夕暮れごろから翌朝まではずいぶんしのぎやすくなってきていた。そしてときには、今日のような半袖の上着では自転車を漕いでいるときに肌寒さを感じさせるようになっていた。
――冬に自転車はちときついかしら。でも、いまさら車もね。
理沙は、ペーパー・ドライバーだった。学生時代に自動車運転免許を取得してはいたが、学生時代からこの前まで都心で生活していた彼女にとって、車なんて、皮下脂肪のように無駄で邪魔っ気なものでしかないと考えていた。
いざというときには必要なのかもしれないけれど、そんなときがやって来そうもなかった。
しかし、NNPでは会社に近接する独身寮に住んでいる者を除けば、ほとんどの従業員が自家用車通勤をしていた。
寒風吹く中、コート姿でマウンテンバイクにまたがるのもどうかな、と理沙は思っていた。
会社に到着した。門前で自転車を降り、守衛に挨拶をした。
事務所を見上げて、今日は谷と打ち合わせをする日だ、ということを理沙は改めて思い出した。
「本当にご一緒しなくてもいいんですか?」
片山が心配そうに理沙に訊いてきた。
「大丈夫よ。取って食われる訳じゃないんだから。それにあなたは、いない方がいいんじゃないのかしら」
「それは、まあ」
理沙に痛い所を突かれて、片山は少し躊躇した。
「まあ、いいから片山さん。あなたにはお願いしている資料作成があるでしょ。下半期収支計画のローリング、抄紙機導入のための資金計画、それから導入後の原価改善計画……いっぱいあるわよ」
「それは、そうですが」
不安そうな表情になって片山は返事をした。しかし、理沙はその姿にNNPの将来を予見するようで、少し不安になった。持ちあげかけた書類をデスクに置くと、両手を腰にやって胸を張った。
「大丈夫、その仕事は絶対に無駄にならないわよ。信じて、片山さん」
理沙は言い放った。片山は、いつもと変わらぬ理沙の自信あふれる態度に喜びつつも、正直参ったなと思い、頭を掻いた。
――これが、再建イメージのプレゼン資料。
『改善へのシナリオもなしでベアゼロは駄目だよ』
『ともかく、改善シナリオ作りをやりましょう』
――ファイルは2部。予備資料は……こっちね。
谷や大村が投げかけてきた言葉が、今も理沙の脳裏でこだましていた。
作ることを怠っていた2人が急にその必要性を訴えてきたのは、自らの無能を訴えているのと同じ行為だと思った。しかし、それを嘆いているだけでは会社は変化しない。
――これまでの原価データは……こっち、か。
渡辺や大塚、片山たち。そして口にこそ出さないが、熱心に働いてくれている高原たち総務部のメンバーのことを思うと、被害者意識で自分を慰めていてはいけないという気持ちになった。
あの雨中の武勇伝も、会社を守りたい一心から来たものではなかったか。理沙は、この半年足らずに経験したことを思い返した。
――時間は……もういいかしらね。
そして、健吾の手厳しいアドバイス……とにかく、今自分がやらねば誰もやらないだろう。と言うより、自分しかやれないのである。
理沙は資料を脇に抱えた。その瞬間、全身が震えた。
――そう、私がやるしかないのよ。
NNP500名の社員を支えているんだという気持ちで、自分を奮い立たせた。理沙はデスクを離れた。
「今日はずいぶんと涼しいですね」
技術部内の応接室に入って理沙は席に着いた。資料をテーブルに置き、そう言った。
「そろそろ涼しくなってもらわんとたまりませんわ。いや本当に」
谷は肥満した体を窮屈そうに動かしながら、椅子に腰を下ろした。作業服の前ボタンをすべてはずしているが、せり出した腹部のせいで止められなかった。かと言って、ボタンが止められる大きなサイズを着用すると、上背のない彼には丈が長すぎて不格好になるのだった。
谷の、理沙に対する敵愾心はこのところ表面には見えなくなっていたが、心中でマグマのように煮えたぎっているはずだと理沙は思っていた。
「会社の経営も涼しいようではいけませんがね。では、お願いしましょうか。さて、今日は?」
「今日は、中期経営計画の素案のご説明です」
理沙はそう言って、用意してきた資料の1部を谷の前に置いた。
パワーポイントで作成した資料の表紙には『中期経営計画(案) 第1号抄紙機導入に伴う紙化計画』と書かれてあった。
「抄紙機導入……」
谷は資料を取り上げ、小声で呟いた。目つきが変わっていた。
理沙はプレゼン内容について、おそらく通常の倍の時間をかけ、丁寧に説明した。
内容は中央チップ製造の土地を買収し、そこに抄紙機を設置し、紙化を推進する、というものであった。
そのために実施すべきこととして、原価ダウンの断行、パルプ生産量の増加、付帯すべき工場設備の強化、なども盛り込んでいた。できる限り具体的な数字を散りばめておいたが、相変わらず「IF」は多かった。しかし、すべての「IF」が実行可能との目論みのもと、エンドマークを打っていた。
数字についての説明は、特に分かりやすく行った。
これまで理沙が役員会等で見てきたところによる谷の数値認識能力は、かなり高いものであると理解していた。今回まとめた数字なら、それほど詳細に説明をするまでもなく理解してくれるだろう、と信じていた。
技術屋ではあるが、経営を担っている訳であり、PLやBSの理論いついても十分理解しているし、赴任以来、理沙が機会ある毎に説いてきた経営分析的アプローチについても、的を違えることなく理解していた。
――「地頭」はいい人。
専門馬鹿に陥らず、それ以外の知識についても有しているという点は、技術馬鹿である工場長の坂本よりも遥かに上であったし、会社経営という点では、谷には坂本に及ばない、部下を寄せ付ける「求心力」というものを持っている、と理沙は感じていた。
理沙は彼を「経営の分からないエゴイスト」というオルタナティブな認識からモノを言うつもりはなかった。経営者としての能力は、合格点をとるに十分なレベルだと思っていた。そして、戦術にも巧みなものがあった。
あの大雨のときは、油断であったと言わざるを得ないが、理沙への対抗心というものが邪魔していただけで、本来なら気づいていたはずだった。
――惜しむらくは「プレゼント・プッシュ」的なその発想ね。
発想に奥行きがなく、「知らないモノ」は「存在しないモノ」と判断を下す、新発見前夜の科学アカデミーを牛耳っているストーン・ヘッドのような考え方の持ち主だった。「将来どうありたいか」「どうなって行くのか」「どうせざるを得ないのか」、そういうフューチャーにおける目標設定ができないため、そこから引っ張っていくという発想ができなかった。手の届く範囲にあるものだけを組み上げて、昨日よりも今日、そして今日よりも明日、という運営しかできなかった。
一見、誠実、実直なように見えるが、それは、今の時代の経営者としては、知恵のないやり方だった。
ベクトルがほんのわずかずれているだけでも、長い時間が経つと遥かな懸隔を呈してしまうのだ。実直にやることから来る「刷り込み」と「強化」、「安定」そして「(ずれた)矜持」がNNPを歪めてしまった。
そして、それらはNNP全体に蔓延していた。赴任直後に高原や片山と行ったミーティングで、それがNNPの宿痾だということに理沙は気付いた。それは、かなりな部分を谷からもたらされたのかもしれなかった。
――と言うのか、日本的な経営のなせる技ね。
理沙は「ボトム・アップ」という言葉のもつ、まやかしに美化された旧来の経営様式を嫌っていた。というより憎んでいた。仕事は部下がするもの、上司はチェックするもの、そう思っている上司というモノがどれほど多いか、理沙はコンサルタントを続けるにつれ、それを嫌というほど見せ付けられた。
「部下がいい加減なので、なかなか計画が立てられませんわ」
理沙は、ある大手産業機械メーカーでモラール・サーベイを行ったとき、ある営業担当の部長からそんな話を聞いたことがあった。そのあと、その「いい加減な部下」にインタビューをしたら、何のことはない、「上位から方針が降りてこないのです」と言い返されてしまった。その営業部長は赴任してきたばかりで、実態が分からない部長でもあった。しかし、部下から言わせれば、「分かろうとする耳を持っていない」存在だった。
「このまま計画を提出したら、文字の修正だけで終わってしまいますよ」
神経質そうな係長の1人が答えた。「僕たちの気づかない何かを教えて欲しいんです」彼は続けてそう言った。
――管理者受難の時代ね。
部下の気持ちが分からなくもないが、現代の企業ではかなり経験を積んだスペシャリストでないと仕事の全体を理解できる管理者にはなれな苦なっている。
業務内容や関連知識のボリュームやクオリティは、膨大かつ高度になっていた。以前ならば日陰に追いやられていた「専門職」社員は、ハイ・パフォーマーな「エキスパート」あるいは「スペシャリスト」と呼び名を変え、称えられるようになった。
そのキャリアのラダーは、いつの間にやら雲の上――取締役――にまで掛かるようになっていた。
そして今や、それくらいカリスマ化した者でないとデキる管理者として部下から尊敬され、部門を回していくことができなくなっているのだ。
自分が嫌々担いでいる「絶対忠誠」という名の神輿の上に乗っている上司を眺めながら、歯を食いしばってゼネラリストとしての生き方を追求してきた過去の世代にとって、自己実現という実は世迷いごとでしかないものに目をキラキラさせながら会社生活を送っている部下という存在は、もはや異質な生き物だった。そこからこだましてくる「トップ・ダウン」要求のシュプレヒコールに対しては身を竦めて定年までの年数を数えることしかできなかった。
静かに約1時間が流れ去った。理沙は明瞭な言葉で説明を終えた。
その間、谷はただじっと黙って聞いていた。理沙が1人で説明を行いたいと言ってきたときから、谷は今回は茶化す訳にはいくまい、と思っていたのだった。
「なるほど、佐野部長。よくまとまっています」
理沙が説明を終えてからも紙面上に視線を走らせ、谷はそう言った。理沙はこれで谷が納得したとは思えなかった。このプレゼン資料には声に出して説明こそしなかったが、「原料供給ソースの変更による原価改善」の項目に「商社経由による輸入チップの導入」という文字を書き加えてあったからだった。
――これを見逃すはずはないわね。
理沙は覚悟していた。が、喧嘩腰では進まない。理沙は謙虚な気持ちを忘れなかった。
「これはあくまでも素案ですから、谷さんにも十分揉んでいただいて修正したいと考えています。そしてもちろん、最後には取締役会での承認も得なければなりません」
「もちろんそうですとも。ただ、私が言いたいのは『よくまとまっている』ということだけであって、NNPにとっていいかどうかという点になると、これはもう別問題です」谷は続けた。「まあはっきり言えば、無理なお話ですね。理想論です」
谷はプレゼン資料を投げ捨てるようにテーブルに置いた。あからさまな反対姿勢の表明だった。理沙は頭の中が沸騰しそうになったが、大塚や片山や健吾の顔を思い浮かべ、心を鎮めた。
「理想、そうでしょうね。理想論です。1つの未来を描いて見せたまでの話です。理想とおっしゃられても構いませんわ。ただ、違った未来があればそれでもいいのでしょうが、ウチの保有能力、これから起こせる力を読んだ上で描いた未来となると、この理想論はベストな現実論だと考えます」
理沙は理屈っぽく言ったが、谷には通じなかった。
「未来を描く構想力は必要です。それがウチの弱いところのひとつです。かといって、実現の可能性のない未来をベストな現実論だと言って勝手に描かれては困る」
「そうですか。それではこのどれが実現の可能性がないとおっしゃられるのでしょうか。ひとつずつ検証してみませんか?」
理沙はかけていたメガネをはずした。そして、これからがゲームの始まりだと思った。
「抄紙技術は高度なものであり、密閉容器内で原料と薬品を混ぜて熱を加えたらパルプになる、というような単純なものではない。導入するといっても、とにかくウチには技術がないじゃないですか」
「抄紙技術が高度であることは、学ばせていただきました。それに、化学プラントの技術の高さも存じ上げています。抄紙技術は当社にないですが、技術というものは移植が可能です。TPPさんの協力を得ればいいことです。TPPさんも、今や生産品種拡大の時代を終え、今や一部収斂の動きに出ています。その品種の一部をこちらに展開させてもらおうと思っています。出向による応援をいただき、設備建設から竣工、そして安定操業までの技術指導もお願いするつもりです」
理沙はTPPの工場見学を思い出していた。特殊紙マシンは上質紙マシンよりも小ぶりである。それでも、技術の粋である抄紙機がNNPに置かれ、最終製品として紙を作ることで、社内に「誇り」が醸成されるのではないか、と感じていた。
「生産品種の収斂、それは私も聞いています。しかし、当然TPPサイドとはまだ何の打ち合わせも行っていない訳でしょう。本当に特殊紙をNNPに回してくれるのですか。ロットは少ないけれども、負荷価値がかなり高い利益製品、いわゆる『Cash Cow』ですよ」
「当社にとっては『Star』です。もちろん、まだ打診のひとつも行っていません。しかし、TPPの動きを見ていれば、あながちそれは誤りではなく、望まれていることだと考えます」
谷は、テーブルに投げ出したままの資料に視線をやり、再び手にしてページを繰った。今日の谷は慎重だった。「IF」の多い話だったが、その「IF」が現実化することの蓋然性について、とりあえずは留保の姿勢でいてくれていた。
――いつもなら、もう投げ出しているはずなのに。
理沙は不思議に思った。彼も変わろうとしているのではないか、とふと思った。
それからしばらく、谷からの質問に対して理沙が回答するということが続いた。
抄紙機を置くスペースとして想定している土地買収の可能性に対して、谷から「昔の経緯からも難しいのではないか」と問われた。すでに調査済みの内容であり、それはこちらの出方次第で簡単に解決がつくことを理沙は説明した。
「しかし、あそこは以前ウチが売った土地だ。昔の経緯を知っていますか? 感情的なしこりがまだ残っていると考えられないですか?」
谷が不愉快な表情を見せてそう言った。理沙は「壁」を思い浮かべた。
「谷さん、そのことも調査済みですわ。たとえ感情的なしこりを持っている方がいらっしゃったとしても、そこは意を尽くさなければなりません。そうすれば、来たるべき戦力になります」
「戦力?」
「その中の2人が中央製紙に出向しており、現在特殊紙製造ラインの主任をしているそうです。この2人を譲り受けたいと考えています」
理沙は元NNP社員の動向については、その後高原のコネクションを使って調査を進めていた。特に単身赴任の長い2人が「戻れるものなら戻りたい」と口を揃えて言ったことを確認していた。
「後藤と堀ですね」
谷は名を告げた。理沙は、どうして知っているのかと訝った。
「あの原木の『壁』をこしらえた張本人たちですよ。まあ、当時はそういう連中はたくさんいたのですが。しかし、彼らのうち大部分はすでにいなくなっているのに、『壁』だけが残っておる。おかしなものだ」
「谷さん、言っていいことと悪いことがあります」理沙は声を荒げた。「土地と一緒に売却されていった従業員の悲しみ、ということについて考えたことがありますか?」
「悲しみ、か」
「ええ、そうです。永年貢献してきた人たちの気持ちも考えずに、『不測の事態』などという、本人たちにとっては理由にならない理由で従業員を手放すという行為が許されるものなのでしょうか? 『不測の事態』ではなく、『経営者の無能』によるものだったんじゃないのですか?」
「……」
理沙は口を閉ざした。答えを求めようとしたが、それは堪えた。
しかし、谷は反応しなかった。いったん目を瞑り、開いた。
「佐野さん」
静かな声だった。意外なリアクションに理沙は思わず「はい」と返事をした。
「答えにならないでしょうが、それは親父たちのやったことであり、私はあずかり知らぬことなのです。しかし……」
谷は黙った。
「しかし?」
「いや、もはや古い話です」
そう言った後、谷は口を閉ざした。
理沙と谷のやりとりは続いた。
購入資金の手当てはどうするのか、という問いについては、理沙にも自信ある主張ができなかった。
「中期経営計画の中身に理解を示していただければ、JFSBさんも協力をしてくれると思います」
「根拠薄弱ですな」
谷は言い放った。
「ええ、そもそも素案ですから、そう言われても仕方ありませんわ」
理沙はそう言って微笑んだ。私も強気ね、と思った。
そのあとでその他の設備増強計画についての確認が行われた。というより、こちらは理沙から問いかけたものだった。
この内容は、渡辺たち若手の数名に書かせたものだったが、最後に大塚を初めとするベテランオペレーターたちの意見を取り入れて仕上げたものであり、彼らの思いのたけが詰まっている、言わば「実弾」であった。これを無視されてしまうと、渡辺たちの努力に報いることができない、と理沙は感じていた。
「設備計画については、どうでしょう。谷さんの率直なご意見をいただきたいのですが」
そこには、パルプ増産に伴う既存設備の改造、老朽化した設備のスクラップ・アンド・ビルド、新技術導入に伴う既存設備の合理化工事、といったものが盛り込まれていた。
新技術の導入についても、以前からやりたかったもののほとんどすべてが盛り込まれており、環境を守るという、NNPのミル・マネジメントの新しい方向性もはっきり示されていた。
パルプ専門製造工場から、自家製造パルプによる特殊紙メーカーとして、ニッチ製品のシェアホルダーを目指すという未来像が描かれていた。
かなり専門的な観点から書かれていたため、谷は技術屋ではない理沙にここまでの内容が書けるはずはないとすぐに感じた。
しかし、彼の見る範囲では矛盾も破綻もない内容であり、正直なところ意外だった。それ以上に、最新の製紙理論や技術に裏打ちされた設備計画については、反対意見を言おうにも、谷にその知識がなかった。
「意見ではないですが、これは佐野さんが考えられたのですか?」
理沙は「いろいろな人に協力をいただくことができましたので」とだけ言って微笑んだ。
谷は黙った。この報告書をNNPの社員が考えたということに軽い驚きを覚えた。その理由のひとつは、これだけの技術知識がある社員がいるということであり、そしてもうひとつは、理沙に味方する社員がいるのだということに。
理沙と谷とのゲームは理沙の思う方向に進んでいった。
谷は、自分のエゴだけでひっくり返す訳にはいかないところまできていることを感じた。収支状況のひどさは想像以上のものであり、月々の役員会で理沙が提出するデータを見るにつけ、このままではNNPも「自分」も危険な状態になることを理解し始めてはいた。
どこかで歯止めをせねば、と考えていたが、自分の力だけでは難しいところまできていることを感じ始めていた。その対応策として期待をかけていた片山では合ったが、彼1人の力ではどうしようもできないことも分かっていた。
理沙に任せてみるか、という気持ちになりつつあった。
しかし、残るひとつの問題を綺麗に解決しないことにはそれは認められなかった。
「北里山チップを、あそこをどうするつもりですか?」
谷は静かに切り出してきた。最後の門が開いた、と理沙は思った。
「どうしましょう? 谷さん次第です」
理沙はそう言って、静かに大きく息を吸って、ゆっくり吐き出した。
「私次第ですか」
「そうです。北里山チップの代表者は谷さんの叔父様でいらっしゃいます。すなわち、谷さんにとっては身内でいらっしゃる訳ですね。経営努力をお約束していただければ、一方的な外材導入による国内材の締め出しは不要なのではないでしょうか?」
「……」
「パルプ生産量の増加分は、外材当てます。それも国内材を継続購入しながらです。その代わりコストダウンを要求します」
「どうやって? 林業保護の大前提のため、国内材の値はもう下げようもない」
谷は答えを出してほしいという懇願にも似た表情になっていた。
「北里山チップの内部留保と株主配当を、減らしていただけませんか?」
「それは……」
「難しいようなら、TPPとのアライアンスで商社経由、またはTPP手配によってNNPの原料すべてを外材に切り変えることも考えざるを得ません」
「JFSBとTPPが本当にうんと言わないだろう」
谷が語気を強めたが、声が震えていた。理沙は表情を緩めて言った。
「本当にそう思われますか? ここまでの説明を聞かれた上で本当にそう思われますか?」
そう言われて谷は力無く視線を落とし、資料に目をやった。
理沙はすべての説明を終えた。そして、ゲームは終わったと感じた。
理沙はこの報告の前から、谷一族の私利私欲にもとづく不適切な経営行為について暴露しなければならない、という流れにはしたくなかった。谷に対して、理沙がそのことを知っている、ということを知らしめるだけにとどめたかった。
理沙は谷の苦渋に満ちた表情から彼がそのことを理解したようだ、と察し、安堵した。
「北里山チップの一層の経営努力をお願いします。ちなみに、TPPはコストダウン計画に対して、数値目標は『何パーセントではなく、何割で設定せよ』と言っているそうです。どうか、立派なコミットメントをお願いします」
理沙はひと言だけ付け足した。言いながら理沙は、ひと言余計だったかしら、と思った。
「分かっています」
谷はそう言って腕組みをし、大きく頷いた。そして、再び口を開いた。窓から秋の涼風が入りこんできた。
「これを、次の経営会議に上程してください。こっちも準備を進めますので」
谷は理沙を見つめた。理沙は思わず頭を下げた。
彼女の目が急に潤んできたことを悟られないように。
経営会議は、次の火曜日だった。
土曜日の午後、理沙は休日出勤してシナリオの訂正作業を行っていた。谷との打ち合わせのときに細かなミスや検討漏れに気づいたので微修正の必要があった。
9月半ば、土曜日の事務所に他の社員は誰もおらず、理沙は1人PCに向かっていた。
ふと目を上げると、事務所の壁の端から端まで連続した窓の向こうに、おろしたてのインディゴ・ブルーの空が広がっていた。
事務所はル・コルビュジエが理想とした「水平連続窓」を設えており、明るい9月の青色の可視光線が薄暗い事務所に差し込んできていた。そう言えば、「サヴォア邸」の2階部分が4つ重なってできたものが、この事務所だと考えられなくもなかった。
――ファサードも地味だし、いかにも仕事をする場所といえるわね。
理沙は、どこかの建屋から湧き上がり、ゆっくり流れて行く蒸気のぶ厚い白色のかたまりに目をやりながらそう思った。その色は、オキーフの花を思わせたり、ユトリロの教会を思わせた。
――ル・コルビュジエも、理論武装が好きだったわね。
理沙は過去に読んだル・コルビュジエについての評論を思い出した。
火曜日、いや、その先に控えているJFSBやTPPに対する説明のためにも、今以上の理論武装が自分にも必要だと考えていた。
修正は、思ったほどの時間がかからず、早々に完了した。保存し、印刷のアイコンをクリックした。
理沙は席を立ち、プリンターまで歩いた。今日の理沙は黄色のポロシャツにジーンズというカジュアルないでたちだった。アディダスのスタン・スミスがリノリウムのタイルで小気味よい音を立てた。
プリンターに近寄り、吐き出されていくシートを見つめながら理沙は、谷のことを思い、片山や大塚や渡辺のことを思った。そして、健吾の浅黒い顔を思い浮かべ、新幹線の赤いテールライトを思い浮かべた。
プリンターが最後のシートを吐き出した。理沙は現実に戻り、まだ熱を持っているシートの束を取り上げて1枚ずつ丹念に内容を確認していった。
その中身は次のとおりだった。
「中期経営計画(案)―第1号抄紙機導入による紙化計画および紙化における既存設備の全面的改良についての計画―」
1.中央チップ製造株式会社の買収
先方保有のチッパー等製造設備ならびに事務所等はスクラップし、敷地は抄紙機建屋建設用地とする。
原料チップの手当において北里山チップ経由の国内材購入量は変えず、紙化による増加分を商社ならびにTPP経由の輸入材で賄うものとする。
2.特殊紙専抄抄紙機の設置、パルプ製造専門メーカーから脱却
抄紙機はTPP第12号マシンを移設する。特殊紙月産50トン生産を当面の目標とする。
設計、施工、試運転、安定操業までTPP工務部の応援を受ける。オペレーターは、既存設備から若手を選抜し、TPPで研修を受けてから配置するものとする。
安定操業のため、TPPからオペレーターを出向受け入れする(最大20名)。2年以内に主任・次席をNNPプロパーより育成し、受入者は全員帰任させる。
3.パルプ製造設備効率化による生産量の50パーセント増加
設備の更新は行わず、合理化改造を実施する。なお、この機会に環境対策として現在の塩素漂白は酸素漂白に全面切り替えする。人員の増強は当面不要。
将来的にはスクラップ・アンド・ビルドも視野に入れる。
4.リカバリー・ボイラー(RB)、用水・排水処理設備の処理能力強化。
パルプ製造能力の増大に合わせてスラッジ処理能力を強化する。RBは改造を行い、現状処理能力を20パーセント高める。活性汚泥処理増強のため、沈殿槽1機増設。なお、用水確保は行政に打診済み。
5.中央チップ製造社員(20名)のうち、希望者全員を受入
高齢者が多いため、大部分は工場間接部門に配属する。ただし、抄紙部門経験者はTPPで短期研修ののち直接部門要員として配置する。
6.「抄紙部」新設
翌年4月に「抄紙部」を新設する。今年下期に「紙化プロジェクト」を発足する。
7.総投資額2000億円
初年度は中央チップ製造株式会社の買収、ならびに設備撤去・整地作業費用として30億円、RB、用水・排水処理設備強化を目的に850億円。次年度は建屋建設、抄紙機据付等1000億円。その他抄紙部事務所新設等付帯設備に100億円。受け入れ人件費等、その他間接費20億円。
メインバンクであるJFS銀行を中心としたシンジケートによる融資を依頼する。
8.財務内容
初年度/売上高130億円、経常利益5000万円
次年度/売上高145億円、経常利益7億円
……。
――2000億円。どうやって出させましょうかねえ。
理沙は腕組みをし、少し首を捻った。そのとき、右肩に錐で突かれたような痛みが走った。肩が凝っているようだった。
——TPPとJFSBで仲よくやってもらうしかないわよね。
理沙は肩を押さえながらそう呟き、デスクに戻った。戻りながらまた窓の外に目をやった。白いマッスはまた姿を変えていた。
――これで雇用調整はやらなくて済みそうよ、健吾。
白いかたまりが健吾の顔に似ている、と理沙は思った。
役員会で理沙の提案した「再建シナリオ」は、すんなり決裁を得た。
「しかし、難問山積ですな。TPPさん、JFSBさんが何とおっしゃられるか。お隣も、本当に売ってくれますか」
大村が不安そうな顔つきで言った。理沙は前もって説明しておいたときは賛成していたのに今ごろ蒸し返して、と大村の優柔不断さに不快になった。
実のところ、大村としては、今回の件について何も言い出すすべがなかった。佐野の考えに対して、谷が理解を示したから了承したにすぎなかった。それについて誰が反対なんてできようか、という気持ちだった。
「再建シナリオ」の早い完成はうれしくはあったが、正直いうと重荷を背負わされ、少しばかり迷惑だ、という気持ちもあった。
「とにかく、このままでは何も始まりません。提案するくらい構わないでしょう」
理沙はそう答えた。そう答えた理沙にも、不安がない訳ではなかった。
それは、TPPやJFSBの出方というものにもあったが、それよりも気にかかるのは、今日の谷のだんまりだった。訊かれたことには答えていたが、それ以外、お得意の皮肉も言わずとにかく黙ったままだった。
――まさか、最後にひっくり返したりすることはないでしょうね。
理沙は、目を瞑ってじっとしている谷の姿に視線をやりながらそう思った。
「さて、2000億円……佐野さん何とか工面してくださいよ」
大村が諦め顔で言った。理沙は「分かっております」と言って、大きく頷いた。
――次は、TPPとJFSBね。その前に……。
理沙は永井と健吾の顔を思い浮かべ、この3月まで通った新宿の高層ビルのファサードを思い出していた。