
「取締役として、出向を命ず」 「首切り屋」経営コンサルタント理沙の奮闘! 10
10
秋晴れにそびえる富士山を目にしたころから、理沙はコンサルタントとしての自分に戻っていた。
のぞみの車中で、理沙はプレゼン資料をバッグから取り出した。そして、コンサルタントとしての目で再び読み返してみた。呼吸を整え、静かに文字を追っていった。
読み終えたとき、細かな点にも考察を加えており、漏れもなく、よい企画であると感じた。
――でも、気持ちが入りすぎているのかもしれない。
雇用に手をつけず、設備投資を行うことで窮地を打開する、という考えは、リスクを後回しにしているだけの単純な策であるように思えた。感情が上滑りしている企画が、古巣のJFS総研コンサルティングの猛者連中にすんなり受け入れられるとも思えず、理沙はやや不安になった。
「説得したと言うが、本当に先方は納得しているのか」
携帯電話の向こうから、健吾の沈んだ声が聞こえてきた。
「再建シナリオ」が完成し、理沙は健吾の意見を訊きたかった。資料を添付し、感想を寄越してもらうようメールしておいたら、翌日の夜、携帯に電話がかかってきた。
「それは大丈夫だと信じているわ。それができなければ、NNPは潰れるということを理解してもらったから。それともうひとつ、会社を変えたいと思う人たちがいるんだっていうことも理解してもらったわ」
彼には、谷が承認したことが信じられないようだった。
それからしばらく、意見の応酬が続いた。健吾はいつもに増して執拗だった。理沙は現場に入り、従業員からの「聞こえない声」に耳を澄ませ続けたことを伝えた。
「会社を思う人たちの総意よ。だから、絶対大丈夫」
返事はなかった。が、すぐに明るい声が聞こえてきた。
「団交みたいだな。分かったよ、あとはJFSB攻略に全力を尽くせ」
ようやく健吾は理沙の言うことを信じ、携帯を切った。
理沙はほっとしたが、その瞬間、このしつこさは「やり通す気があるのか」という意志の確認と、それに対するエールだったのかもしれない、と感じた。
NNP社内で決裁を得た「再建シナリオ」だったが、内容があまりにも大掛かりである以上、親会社=筆頭株主である、TPPの承認が必要であった。それから同じく株主であるJFSBからも、了承を得ることが必要だった。
とは言うものの、どちらかといえば、TPPの承認よりもJFSBの承認の方が重要だった。メインバンクであるJFSBには、資金融資というこのシナリオ遂行における最重要な役割を担ってもらわなければならなかったからだ。
――そのためには、私を派遣した本社に行かなければ。
理沙は、今回がそのタイミングだと考えていた。出向以来約半年が経過し、内情調査も終了した時点であり、中間報告は当然すべきであった。しかしそれは、中間というよりも「初めの始まり」であったが。
理沙には気になることがあった。
TPPにしろ、JFSBにしろ、本音のところでNNPをどうしたいのか、ということが読み切れていない点だった。このままではいけない、というのは誰の目にもはっきりしていた。
「何とかしなければ」の「何とか」ということをポジティブに取るべきなのか、ネガティブに取るべきなのかが不明なままだった。つまり、立て直すのか、処分するのか、はっきりしないまま理沙はNNPに放りこまれていたのである。
――考えたら、いいかげんなオーダーよね。
静岡県と神奈川県の県境付近のトンネルが続くちょっとした山並みを抜けながら理沙はそう思った。
恐らく、ネガティブな結論を期待していたのではないか、と理沙は考えていた。「首切り屋」とあだ名される理沙を送り込んだからであったが、出向という形が理沙の思考様式を変えてしまった。
トップ・マネジメントのひどさを知り、「現場へ、人の中へ」という健吾の指導に従い、場内を歩き回った結果、理沙はNNPを支える人たちの苦しみや希望を見つけ出した。一部の株主、経営者の勝手で従業員が犠牲になってはならない、ということに理沙は気がついた。
それは健吾のコンサルテーションのモットーと同じことだ、ということに理沙は気づいた。
「ただいまって言うのかしら」
「こっちも、いらっしゃいませ、とは言わないよなあ」
新宿副都心の高層ビル群の一角に理沙の通っていた「株式会社JFS総研コンサルティング」の東京本社があった。
金融機関系のコンサルティング会社各社は、親会社である銀行の引き続く合併につられて、合併や消滅を経験していた。コンサルティング会社自体は、合併しなくてもやっていける収支状況にあるため、従業員であるコンサルタントたちは合併に対して大いに不満を持っていた。しかし、経営知識や指導能力におけるエリート中のエリートである彼らであっても、親会社の意向を無視することは不可能だった。
「コンサル能力皆無の奴らに、何ができる」
コンサルティング事業の部長職、本部長職に赴任してくる親会社の元銀行員――地方の支店長経験などとっくに済ませて本部の出世コースに乗っていたメンバーだったが――に対して、一匹狼的なコンサルタントたちはそう思い、白い目で見ていた。
本体の合併により、営業先が増えたコンサルティング会社もあれば、テリトリー制が敷かれ、例えば西日本の展開が中心であった銀行のコンサルティング会社と合併した所では、西半分はそちらの管轄となったため、合併以降は担当から外れた会社もあった。
従来からのクライアントでリピートオーダーを受けている場合は、継続して担当していたが、親会社の銀行の店舗営業との関係から将来的には切り離されることが決まっていた。
JFS総研コンサルティングも同じ状況にあった。ちなみに、TPPは本社が東京であるため、理沙たち東京本社の人間が対応していた。その関係で、傘下であるNNPも東京本社が担当することになっていた。
理沙は古巣の事務所に戻り、資料の入ったバッグを自分の席に置いて、同僚の男性社員に挨拶をした。
理沙の席はまだ残っていた。そして、まだJFS総研コンサルティングから名刺の支給も受けていた。肩書きは「研究員」というものだった。こうしておけば、書籍の発刊や講演のとき、関係者を安心させることができるという配慮からだった。
――さすがに、みんないないわねえ。
広々としたオフィスにわずかに在社している社員はほぼアシスタントだった。別の階の企業調査を担当する部門はもう少し社員がいるのだろうが、コンサルティング部隊のここはいつもこういう状態だった。
事務所にいずっぱりのコンサルタントは、優秀なコンサルタントとは言えない。受け持っているクライアントの経営指導だけではなく、親会社の銀行支店からの同行依頼を受けるなどの新規顧客開拓営業もあり、席を温めている暇はなかった。
――健吾の席って、どこなのかしら。
健吾がいることを期待していたのだが、当てが外れたようだった。理沙は視線を同僚の方に向けなおした。
「ところで永井さんと村上さん、もう来てるかなあ」
理沙は訊いた。男性はネクタイを抜き、襟の垢じみたワイシャツ姿でPCに向かっていた。徹夜したのかな、と理沙は思った。
「来てるよ。さっき2人で上に行ったように思ったけど」
「あら、そう。じゃ、行ってくるわね」
理沙は手を振って、席を立った。
階段を上がり、打ち合わせコーナーに入った。コーナーといっても、パーテーションで仕切られた4人掛けコーナーセットの集まっているフロアだった。2人がどこにいるのか探していると、奥から声がかかった。
「佐野君、こっちだ」
TPPを担当している村上が、奥の応接室から半身を出して、理沙に手招きしていた。理沙は、「あ、はい」と返事し、そちらに駆けていった。
入室すると、応接室には村上の他に専務の永井が着席していた。
「久しぶりだね、佐野君。ご苦労さん」
永井が笑顔で声をかけてきた。永井は銀行から天下ってきた役員ではなく、コンサルタント上がりであるため、コンサルタント業務のハードさをよく理解している数少ない役員の1人だった。だから、他の役員よりも彼から労いの言葉をかけてもらうことが彼女には心底うれしいことだった。
「ありがとうございます。よい機会を頂戴できたと思っております」
「NNPには難物がいるから、大変だっただろう」
村上が白髪混じりの髪を掻きあげながら言った。長いあいだTPPを担当している村上は、さすがにNNPの事情にも明るかった。村上は、体格にぴったり合ったスーツとシャツを着こなしており、隙のない雰囲気を醸し出していた。
「よい勉強でした」
理沙はそう答えて、満点の微笑を送った。永井たちは、その笑顔につい引きこまれそうになった。
「企画内容はよく練られていて、よいできだと思う。強み弱みもきちんと押さえている。出向という立場が生かされてる」
企画書を前にして永井がそう言った。企画書自体は、今日のアポイントを取ったとき永井、村上宛に一方通行ではあったが、メールで送付していた。だから、この場でいちいち説明する必要はなく、すぐに内容を判断してもらうことができた。「出向の経験が生かされている」とは、永井自身、実は余分な言葉だと思っていたが、苦労したと思しき理沙のために付け加えた。
「問題は2000億円かかるということ。それで、TPPはどう考えているのかね」
永井は村上に水を向けた。村上は小難しそうな表情を崩していなかった。TPPが「ポジティブ」なのか「ネガティブ」なのか、ここで理沙は確認しておきたかった。
「佐野君にしては意外な……いやいや、失言。『何とか』しちゃったようだね」
そう言って、村上は苦笑いした。
TPPのスタンスは、JFS総研コンサルティングに、ひいてはJFSBに任せる、との判断であった。
再建の手段がTPPにとって意義のあるものであれば、技術面における協力も人的な協力も惜しまないという考えにあるようだった。
「先方には報告済みだ」村上は言った。「企画書はこのままTPP関連事業第1部に送られて、検討してもらった。TPPの抄紙機を移設し、NNPに抄紙機能を持たせることは、何とか承認できそうだとのことだ。借入額の大きさとパルプの原価コストダウンが難点だったが、ここにあるとおりにコストが下がれば、TPPでやるよりも余程メリットがある訳だから進めてみたい、ということだそうだ。以前から進めたい案件だったらしいが、実際にそれを言い出す人がいなかったので動けなかったんだよ……難物がいるから大村さんや坂本さんにはまず無理だ」
この村上の言葉に理沙はこれまでのことを思い返した。まさに彼の言う通りだった。
「やがては、抄紙機能を充実させ、中部地区の生産拠点としてNNPを生かすことができる。TPPはNNP買収後の10年間、悩み続けていたんだが、ようやく取っ掛かりを掴めそうだ」
「ありがとうございました。雇用調整抜きの積極投資策ですから、かなり反対が予想されるかと思いましたが、そう言っていただけて、よかったです」
理沙は上ずった声で返事をした。村上の言葉はこれまでの苦労を帳消しにするほどの効果があった。
「ただ、徹底してやり抜いてほしい。今回の企画が出たので中断したが、TPPはNNPを清算することを考えていたくらいだからな」
村上が目つきを変えて言った。
「分かりました。断固やり抜きますから」
理沙はそう答えた。
「佐野君、村上君ありがとう。じゃあ、この線でJFSB融資部に持ち込むよ。ところで、佐野君は2、3日はこっちにいられるか」
「JFSBの説得までが今回の出張テーマです。承認がいただけるまで帰りませんわ」
理沙はそう答えた。永井は「分かった」と言って立ち上がった。村上、佐野も立ち上がり、応接室を出た。そのとき、村上が理沙に声をかけた。
「関山さんが喜んでたよ。君が見かけによらずハードな仕事をする人だって。会ったことあるのか?」
「ええ、先月のグループ経営懇談会で」
「ああ、あれ。飯島君が講演した」
「そうです」
理沙は、健吾と関山が並んで目の前に立っていたシーンを思い浮かべた。
――ハードな仕事をさせたのは誰よ。
理沙はちょっと不愉快になった。
「関山さんはあんまり改革を好まれない方なのですね」
理沙は村上に言った。すると、村上は立ち止まった。
「あの方はグループ会社のコントロール役だ。自分から派手なことはやれまい。それよりもTPPもこの10年間は大変だったということを理解してやれ。TPP自体、合併が続いていたんだからな。ある面では、NNP以上に苦労しているはずだ。ウチも同じだけどな」
村上はそう言って苦笑した。
「ところで、その飯島。今回頑張ってくれたぞ」
「え」
理沙は首を傾げた。
「TPPに説明に行ったのは、彼だ。講演もそうだが、今回の件も留学帰りで暇そうなあいつに頼んでおいたんだ」村上は続けた。「パルプのコストダウンについては、特に熱弁したらしい。飯島のためにも絶対にやれよ、あのシナリオどおりにな」
村上はそう言って歩き出した。
「はい、頑張ります」
理沙は立ち止まったまま、村上の後姿に頭を下げた。心の中は村上、そして健吾への感謝の思いでいっぱいだった。
――ついにここまでこぎつけたのね。
席に戻り、彼女はそう思った。健吾の姿を見つけようと、それからも何度かオフィス内を見回してみたのだが、目にすることはできなかった。
「仙台のクライアントのところに行っています。出社は来週ですね」
アシスタントを見つけて訊いてみたら、そう告げられた。今日中に会って感謝の気持ちを伝えたいと思っていたのに、と理沙は残念がった。
――JFSBから融資を取りつけたら、改めてお礼を言おう。
理沙はそう思った。
しかし、その考えはJFSB融資部で見事に打ち砕かれることとなった。
「永井さん、佐野さん。非常識ですな」
JFSB融資部の担当課長野田は吐き捨てるように言った。
そのとき理沙は、顔から血の気が引いていくのを感じた。交渉の際、意見が合わなくて紛糾した場合には、却って燃え上がるくらいの彼女である。その彼女が、一瞬にして自信を喪失してしまうことなど滅多になかった。ここまできたのに、という落胆のせいで余計に彼女から気持ちの張りを失わせてしまった。
「そうは申されましても、TPPも了解の方向でいるのです。何とか考えていただけませんか」
永井も必死に抗弁した。
永井、村上と打ち合わせをした日の2日後、大手町のJFSB本店応接室で理沙は、永井とともに野田と対峙していた。
「2000億円が必要な企画であることは、先日来ウチで検討させていただいて、決してオーバーな数字ではない、と理解はしました。しかしそれよりも、それだけの投資が今必要だということについて、首を傾げざるを得ませんでした」
野田の言うことは、ある面ではもっともな考えだった。回収に時間のかかる設備産業であるパルプ工場に2000億円もの大金をつぎ込むのはかなりリスクのある話であることは間違いなかった。理沙も、「再建シナリオ」策定に際してもっとも懸念していたことだった。
「事業を縮小させるか、リストラして人件費を下げるくらいの企画であるべきじゃないですか。身内のおたくらからこんな企画を出されては困ります」
野田が厳しい表情で理沙を見つめた。理沙には不快感が募った。
「野田さん、NNPは生き残りを賭けているのです。『事業縮小』も『リストラ』もありません。TPPの協力を得て、積極的に打って出るのです」
理沙は言った。
「いや、だから、そんな策を取らない方がよいのではないですか、と言っているのです」
「これ以外の策では、最終的に誰も喜びません。今になって従業員を放り出すなどという下策を取る訳にはいきません。可能性がある以上、挑戦していきたいのです。身内であるとかどうとかは、この際関係ないと思います」
理沙はまくし立てた。野田は言葉を返すことなく、渋面になって黙った。もちろん、納得した訳ではなかった。
「TPPの保証は付くのでしょうな」
野田が口を開いた。これ以上付き合っても仕方がない、という感じもした。JFSBは確実な債務保証を要求していた。当然、TPPとしてもJFSBから融資を受ける以上、そう要求されることは当然だ、と思っていたため、すでに了解していた。
しかし、JFSBが2000億円全額出してもらえる訳ではないだろうから、メインとしての姿勢を見せてもらうことを1番に確認した買ったのである。そのメインの出方次第で、シンジケートを組む他行の出方も決まってくると考えていた。
「ええ、JFSBさんから融資をいただく以上、それは可能です」
「分かりました。それではTPPさん、いやNNPさんは、いくらぐらいをウチに任せようと言われているのですか?」
渋面のまま野田が訊いた。
「半分の1000億円をお願いしたいと考えております」
永井が言った。そのパーセンテージは、NNP全借入額のうちJFSBの負担額が占めている割合とほぼ同じだった。しかし、野田は難色を示した。
「これまでのTPPさんとのお付き合いも考えれば、無碍にお断りすることはできません。しかし、1000億円の融資はまず無理だと思います。他行さんの割り当てを増やすような調整をしてから、おいでになった方がよろしいですな」
野田は静かな口調で言った。永井も理沙も従わざるを得なかった。ともかく、融資額を調整することが必要だった。
――あそこまで詰めた企画なのに、いまさら調整はできないわ。
理沙は視線を落とした。
「それから」
野田は再び口を開いた。
「なぜ、TPPさんはここに顔を出さないのです。NNPさんだけの話じゃないでしょう、もっとも、佐野さんだってJFS総研コンサルティングの方だし、NNPとTPP両社の当事者は何をしているのですか?」
そう言って野田は立ち上がった。
「は、申し訳ありません。次回は必ず……」
永井は申し訳なくそう言って頭を下げた。
その夜、理沙は初台のマンションに寄らず、新宿のホテルに宿を取った。マンションに帰ったところが、食べるものが何もない上、戻れば片づけやら何やらで気が散ってしまうと思ったからだった。理沙としては、今日のJFSBとの交渉について、じっくり考えたいと思っていた。
――でも、戻って体を動かしていた方がよかったかも知れない。
副都心の夜景を見ながら理沙は思った。1人で考えても暗くなるだけだと感じていたのだった。
理沙は目を凝らした。初台は私鉄で新宿のすぐ次である。今見ている方向に理沙の住むマンションがある。
初台で生活していたころ、散歩がてら近所の東京オペラシティにふらっと寄ることがあった。アートギャラリーの3階と4階のコリドーに展示してある若手新進作家による抽象表現絵画を観るのが好きだった。その斬新なデザインに囲まれていること自体が好きだった。
――たった半年なのに、ずいぶん久しぶりのような気がする。
理沙は東京オペラシティのシルエットを見つめながらそう思った。
この企画が流れることになれば、NNPが将来像を描けなくなることは必至だった。JFSBで野田との面談を終えて事務所に戻り、村上も交えて理沙と永井は今後の動きについて検討した。ひとまずは、TPPの意思確認が必要だった。
「この前、言ったはずだが、TPPはこの企画が流れればNNPを清算する 動きに出る可能性があるんだ。この前は、飯島がTPPで企画の成功を訴えてくれたので、反対する者の意見を抑えることができたのだが、融資部にそっぽ向かれたんでは、お話にならない」
「1番危惧しておきながら、そっちの詰めが甘かったか」
永井は腕を組み、唸った。
「明日にでも、TPP本社に行ってきます。融資条件について譲歩できる線をもう少し先まで出してもらいます」
「そうしてくれ。それから次の交渉のテーブルに着かせる当事者の手配も頼む」
「それも結構厄介ですね。NNPのためにわざわざTPP本体が出張ってくるかどうかです。一転して清算話になるかもしれませんね」
村上も考え込んだ。理沙には、これ以上どうすることもできなかった。NNP内部でやるべきことはやり尽くしているのだ。もはや、NNP内部で片のつく話ではなくなっていた。何らかな形でTPPが誠意を見せてくれない限り、話は進みようがなかった。
「NNPからも、誰かを来させることはできるだろうな、佐野君」
「ええ、大村社長に来てもらうしかないでしょう。連絡を入れるつもりでいますから」
それを聞いて、永井は頷いた。
結局、この場では逆転できるほどの妙案は出ず、明日の午後TPP、NNP両社の動きを確認してから再度打ち合わせすることになり、解散した。
「今夜は、祝杯を挙げられないな」
永井はそう言って、席を立った。
彼らと別れたあと、理沙は大村に電話を入れた。大村は、理沙の長い説明を聞き終えた後、労いの言葉をかけた。そして、次回の交渉のときは必ず同席する、と約束した。
「あとはそちらとTPPに任せるしかない」
電話を切る前に、大村は力を込めてそう言った。
理沙はカーテンを閉じた。ベッドサイドのデジタル時計を見ると23:10という青い数字が輝いていた。理沙はシャワーを浴びて、もう寝てしまおうと思った。
スカートを下ろし、キャミソールも脱いだ。ソファに腰を下ろしてパンティストッキングをゆっくりと脱ぎ、クリアブルーの下着だけになった。それからベッドに背中ごと倒れこんだ。天井を見つめながら、割り切れない不快感を排出しようと、大きく深呼吸をひとつした。そして、健吾の顔を思い浮かべた。
そのとき、携帯電話が鳴った。理沙は慌てて起きあがり、ハンドバッグの中から泣き止まないやんちゃ坊主のような携帯電話を取り出した。健吾からかもしれない、と思った。
「はい、佐野ですが」
「佐野君か。すまない、遅くに」
永井の声だった。ちょっと慌てて喋っているので一瞬誰だか分からなかった。と言うよりも、永井専務から自分の携帯にかかってきたのは、初めてのことかもしれない、と思った。
「専務ですか」
顔にかかっていた髪を掻き上げながら、気の抜けた声で理沙は言った。
「ああ、まだ起きていてよかった……、明日の午後の打ち合わせは中止になった」
「中止?」
「ああ、その代わり、朝9時にJFSB本店にもう1度集合だ」
理沙は訳が分からなかった。
「ああ、私と君とでもう1度融資部を訪問することになった」
「突然、何があったのですか?」
理沙はなんだか夢を見ている気分になった。
「野田さんからたった今電話があった。融資部の沖田部長が話を訊きたいと言ってきたそうだ」
「沖田部長」
それから理沙は、待ち合わせ場所を確認して電話を切った。何が起こったのか理沙にはさっぱり分からなかった。永井に理由を訊いたが、「分からない。とにかく急に会いたいと言ってきたんだ」と言った。
理沙は携帯を切り、デスクに置いた。机の前の壁に設えてある鏡に、呆然とした表情の下着だけの理沙自身が映っていた。メグ・ライアンを気取って短めに揃えた髪が、くしゃくしゃだった。
――でも、悪いことのあとの変なことは、「よいこと」なのかもしれない。
理沙は鏡に映る道化師のような自分を見つめながら、そう考えた。そして、鏡の自分に向かって、片目をつぶって思いっきり舌を出してみせた。
理沙の想像は当たっていた。
「永井さん。昨日は申し訳なかったですね。情報が交錯しておりまして、こちらの対応が間に合わなかったようでした」
夏ではあるが、皺ひとつないヘリンボーン柄のスーツをきちんと着こなした沖田は、恐縮した表情の野田を従え、永井に弁解めいた発言をして笑った。
「と言いますと?」
永井は身を乗り出して訊ねた。まだその笑顔の真意が分からないといった表情だった。
「融資の件です。改めてお話をお伺いしたいのですよ」
「は、そうですか」
永井はよく分からなかったが、理沙を促し、資料をもとに説明を始めた。
説明は10分程度で終了した。終了するなり、沖田は資料をテーブルのシガレットセットの横に置いて、大きく頷きながら「よく分かりました」と言った。
「ありがとうございます」
理沙は礼を述べたが、本当に理解しているのかどうかは分からない感じだった。しかし、結論はすでに出ているといった表情になっていた。そして、沖田は口を開いた。
「ご都合しましょう」
沖田はあっさり言った。あまりにあっさりしたその物言いに、理沙も永井も唖然としてしまっていた。
「よろしいんですか? 昨日は野田さんから難しいようなことをお伺いしたのですが」
「いや、その件につきましては面目ない。情報が遅れて入ってきましたので、入れ違いになってしまったのです」
「情報?」
永井は訊いた。すると、ずっと笑顔だった沖田の顔が少し固い表情になった。
「TPPの広尾社長と中央製紙の河本社長のお2人から、ウチの頭取に電話が入りましてね。広尾さんは、『全面的に債務保証するし、必要とあらば、TPPへの直接融資でも構わない。TPPからNNPに融資する』と言われ、河本さんは『中央チップ製造の売却は、中央製紙合理化に大きな意味を持つ。従業員の受け入れをNNPが快く全面協力してくれている以上、当事者であるこっちも無視する訳にはいかない。とにかくTPPへの融資に協力してもらいたい』と、言われたのです」
「広尾社長、河本社長自らですか」
「ええ、特に広尾社長は『何が何でもNNPは潰せない』と強くおっしゃられたようです」
永井と理沙は訳が分からないままだった。なぜ急にTPPが全面的にバックを引き受けると言い出してきたのか。また、中央製紙まで……まったく謎だった。
謎のままだったが、とにかくJFSBは1000億円の融資を約束し、なおかつ他行とのシンジケートの調整に積極的に動いてくれる、という誠意も見せてくれた。
「何があったんでしょうね」
タクシーの中で理沙は永井に訊いた。JFSBの事務所を出てからずっと、2人は言葉を交わさなかった。と言うよりも、何を話せばいいのか頭の中が整理できない状態にあった。
「村上君から訊いてみるか」
「ええ」
間の抜けた会話をした2人は、また口を閉ざした。
「NNPがK市に相談したようです」
会社に戻ると、待ち構えていたように村上が2人を応接室に連れこんだ。JFSBの結果が分かっていたらしく、村上は珍しく得意げな顔で説明し始めた。
「TPPはNNP運営のために、用水の権利確保や公害防止協定などで、過去ずいぶん世話になりっ放しだったんですね。K市としても、雇用の場としてNNPを重視していた訳で、ギブ・アンド・テイクの関係が続いていたのですが、ここでTPPがNNP再建を諦め、清算するという話になったら、これまで苦労してきたことが無駄になるばかりでなく、大量の失業者が出ることにもなり、市としては放っておけなくなったという訳です」
「それでTPPに何とかせよ、と」
理沙は言った。
「そう。K市はさし当たって、JFSBへの金融支援依頼についてTPPとして誠意を見せるよう要請した訳です。水と環境問題で行政に睨まれている以上、聞かざるを得なかったということですね」村上はひと息入れ、続けた。「中央製紙の河本社長は多分、広尾さんからの依頼なんじゃないでしょうかね。NNPに買ってもらえないと大変な訳だし。三方がうまくいく訳です」
「なるほど」
永井は大きく頷き、ソファに深く持たれた。謎が解けた途端、疲労感が体を包んだ。
「しかし、佐野君。製紙業界2強のトップまで担ぎ出すとは、ますますもって凄い企画だったね、驚いたよ」
村上が感心した顔で言った。理沙は誇らしいやら恥ずかしいやらで頬を赤らめた。しかし、理沙は疑問を抱いていた。
「でも、そんな寝技を誰がやったのかしら。大村さん?」
村上が苦笑いして言った。
「おたくの『難物』だよ。ずいぶん力を持ってるみたいだな。昨日の夕方のうちに市役所と議会に乗り込んで行って、市長に助役、それから市議会議長に持ちかけたらしいよ。ま、自分の利権も絡んでいることだから頑張ったんだろうねえ」
それを聞いて、理沙は嘆息した
――谷さん……ありがとうございます。
理沙はソファに身体をゆっくりと預けた。
「それから佐野君。飯島から『メールを見るように』って伝言を受けたから、よろしく」
打ち合わせを終え、応接室を出た。理沙はこの足でNNPに戻ろうとしていたが、村上からそう言われて驚きを隠せなかった。
「え、まだ仙台じゃなかったんですか?」
「ああ、今朝早く戻ってきたが、ひと仕事してまた発った。今度は高松だ」
村上はそう言って席を離れた。
理沙は急いで席に戻り、メールをチェックした。伝言のとおり、健吾からメールが入っていた。
「おめでとう。お疲れさん」
たったそれだけだった。しかし、ことの重大さを理解し、それが成功したことを知ってすぐに反応してくれた健吾の優しさが、理沙にはうれしかった。