
本屋は出版社のためにある。
子供の頃から不思議だった。
読みたい小説を、タイトルと著者までばっちりメモして本屋に向かったのに、気がついた頃には文庫本コーナーの棚の狭間で途方に暮れている。
「タイトル」、「著者」に並び、メモしなくてはいけなかった情報をひとつ忘れていたからだ。そう、それは「出版社」。
「ひ」の欄を辿っていっても東野圭吾の『流星の絆』はあっても、なぜか同じく東野圭吾著の『容疑者Xの献身』は見当たらない。『容疑者Xの献身』を刊行しているのは『流星の絆』を刊行している講談社ではなく文春だからだ。
しかしそんなこと露ほども知らないいたいけな私は再び次の棚、「KADOKAWA」の「ひ」の欄を辿っていく。運がよければこれを2回ぐらい繰り返すと、お目当ての本にたどり着くことができる。運が悪いと文庫コーナーの端から端まで「ひ」行を確認する羽目になる。
これを不毛と言わずして何と言おう。
子供の頃に感じた憤りも「なぜ?」も、社会のルールという名の不条理に徐々に慣らされ大人になったころには、水から茹でられるカエルのごとく抵抗する間もなく「そういうもの」として受け入れてしまう。
が、私は違う。幼少期に感じたこの不条理を、大人になった今でも糾弾したい。
講談社だろうと文春だろうと光文社だろうとKADOKAWAだろうと幻冬舎だろうとハヤカワだろうと、読者には一ミリも関係ない。どこの出版社から出ているかなど興味はない、私はただ東野圭吾の『容疑者Xの献身』を買いに来ただけだ!!!!早くよこせ!!!
(重度の本オタクたちは「出版社も見るけどw」とかほざくだろうが、今はお前たちの出番ではない、森へ帰れ)
スーパーに例えればその異常さがよくわかる。
お菓子コーナーに行ってみてほしい。お菓子は「チョコレート」、「グミ」、「クッキー」ごとに分かれているはずだ。決して「明治」、「ロッテ」、「ブルボン」などではなく。
なぜだ、なぜそれが本屋の文庫になった途端に許される???
本屋は、私たち客のために、あらゆる特集を組み、フェアを開催し、イベントを企画し、趣向を凝らして少しでも読書人口を増加させるために創意工夫している。
私もそうした涙ぐましい努力に乗っかる客のひとりだ。こないだのジュンク堂池袋本店で行われていたフェア「書棚緑化計画」では、自然や植物に関する興味深い本と出会わせてもらっていくつか買い求めた。
本屋が提供してくれるそうした場は、通常自分では見つけられない予想外の本との出会いのきっかけになるため感謝している。本屋が客のために行っている努力について疑いようはない。
それでも尚、文庫本の棚が著者毎ではなく出版社毎に並んでいる限り、「本屋は読者ではなく、出版社のためにある」、私はこの論説を撤回しない。
私もかつては出版社勤務だったため、本屋、(取次)、出版社の力関係については承知している。なのでこれは、本屋と言うより出版社に向かって言っている。
本屋の文庫本コーナーが出版社毎にまとまっているのはひとえに、各出版社の営業担当が各書店の自社商品を見て回りやすいようにするためじゃないか。
出版社は、即刻本屋を解放せよ。本屋は、旧態依然とした出版社の植民地支配から脱却せよ。
単行本でできていることを文庫本でもやれ。
夏フェアは、出版社を横断して合同でやれ。
業界全体が沈みゆく船なのだ。互いに潰しあうな。
以上、読書文化が途絶えてしまっては困る、いち読書好きより。
↓オブラートに包みました。