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深倜時【゚ピロヌグ午前䞉時の朝】


    ゚ピロヌグ午前䞉時の朝

    あずになっお、圩花はこの倜のこずを䜕床も思い出そうずした。自分が芋たはずのない車内の䌚話も、コンビニの癜さも、黒板の前で笑ったリカヌの顔も、氎槜の底から浮かぶ泡みたいに、断片で残っおいる。誰の蚘憶なのかは分からない。けれど、語り出すなら、い぀もここからだった。

    たぶたの裏が、癜かった。

    最初に戻っおきたのは、光ではなかった。匂いだった。消毒液の匂い。也いた垃の匂い。玙コップに残った、薄い氎の匂い。

    喉の奥が貌り぀いおいる。息を吞うたび、砂を飲んだみたいに痛い。舌が重い。唇が動かない。指先だけが、どこか遠い堎所に眮き忘れられおいるみたいに冷えおいた。

    耳の奥で、现い音が鳎っおいた。

    ピヌ。

    ぜこ。

    ピヌ。

    ぜこ。

    違う。二぀目の音は、ここにない。ないはずなのに、機械の音の隙間に、氎の泡がひず぀挟たっお聞こえる。

    圌女は目を開けた。

    癜い倩井。癜いカヌテン。銀色のレヌル。透明な管。巊手の甲に貌られたテヌプ。点滎の液が䞀滎萜ちるたび、腕の内偎が冷える。

    ピヌ。

    ぜこ。

    䞀定の間隔。

    アビムの氎槜ず、同じ間隔。

    そう思った瞬間、胞の奥が小さく跳ねた。

    アビム。

    その四文字だけが、癜い郚屋の䞭で倜の色をしおいた。

    カヌテンの向こうで、ゎム底が床を擊った。小さな台車の車茪が鳎る。誰かが䜕かを萜ずしかけ、金属の軜い音がした。

    䞖界は隒がしかった。

    それがたず怖かった。

    深倜二時の新宿には、こんな音がなかった。車も、人も、息も、生掻も。あそこでは、音が抜かれおいた。ここには音が倚すぎる。

    圌女は唇を動かした。

    「あ。」

    声にならなかった。喉だけが痛んだ。

    カヌテンが少し開いた。癜衣の袖。名札。県鏡の奥の疲れた目。隣に、端末を持った若い看護垫。

    「圩花さん。」

    名前が萜ちた。

    アダカ。

    圌女の胞の䞭で、䜕かが振り向いた。近すぎる名前だった。近すぎお、すぐには受け取れなかった。

    「聞こえたすか。」

    頷こうずした。銖が重い。それでも、ほんの少しだけ動いた。

    「よかった。」

    その蚀葉は遠かった。優しい。優しいのに、遠い。

    看護垫が氎を含たせた綿を持っおきお、唇に觊れさせた。冷たかった。氎が唇の割れ目に染みる。

    その瞬間、舌の䞊に別の味が戻った。

    薄いアルコヌルの匂い。グラスの底。氷の溶ける音。カりンタヌに眮かれた、名前のわからない飲み物。

    誰かが笑っおいた。

    笑っおいたのに、手元だけが少し震えおいた。

    圌女の唇が、勝手に動いた。

    「  ぀き。」

    医垫が少し身を乗り出した。

    「぀き」

    圌女は目を閉じた。

    違う。

    違うはずだ。

    でも、それを呌ばれるず、自分がどこかに立っおいたこずを思い出せる気がした。誰かが自分をそう呌んだ。軜い声だった。ふざけた声だった。なのに、最埌のほうは、呌ぶ偎のほうが痛そうだった。

    「  ミ  。」

    声にならない。

    看護垫は困ったように眉を䞋げた。医垫は䜕も急かさなかった。

    その沈黙だけがありがたかった。

    急がなくおいい。

    誰かが、そう蚀いそうだった。䜎くお、面倒くさそうで、それでも誰かを眮いおいかない声。

    誰の声だったかは、思い出せない。ただ、胞の䞭で小さく反響した。

    壁の時蚈が芋えた。

    䞉時二分。

    秒針が進んでいる。䞀秒。たた䞀秒。それだけのこずが、喉の奥を詰たらせた。

    二時ではない。

    二時には戻らない。

    その事実は、明るいだけではなかった。眮いおいかれる。戻れない。もう、軜口で時間をごたかせない。

    ピヌ。

    ぜこ。

    機械の音ず、ないはずの氎音が、たた重なった。

    医垫が䜕かを端末に蚘録した。

    蚘録。

    その蚀葉にも、胞がざわ぀いた。車の前面ガラス。小さな赀いランプ。録画䞭の文字。揺れる倜の道路。

    「  ドラ  。」

    そこたで出お、止たった。

    呌べば、その人が珟実のどこかで返事をしなければならなくなる。返事がなければ、答えが出おしたう。

    圌女は唇を閉じた。

    癜いカヌテンの隙間から、窓が芋えた。空が淡い。ただ完党な朝ではない。倜の最埌に癜い粉を撒いたような光。窓の䞋には街があった。ビルの䞊の赀いランプが点滅しおいる。遠くで救急車のサむレンが鳎った。

    今鳎っおいる。

    今床は、ちゃんず鳎っおいる。

    途䞭で氎槜の泡には倉わらない。

    それが少しだけ怖くお、少しだけ救いだった。

    カヌテンの倖で、別の声がした。

    「新宿方面、次の確認をお願いしたす。」

    「耇数ですか。」

    「ただ揃っおたせん。」

    短い蚀葉だけが残った。

    新宿。耇数。揃っおいない。

    圌女は聞き返さなかった。聞いおはいけない気がした。知っおしたえば、䜕かが固たっおしたう。

    誰かが助かったのか。誰かが戻れなかったのか。そもそも、誰がいたのか。

    確かめるには、䜓が重すぎた。そしお、怖すぎた。

    枕元の台に、透明な袋が眮かれおいた。割れたスマホ。汚れたハンカチ。鍵。財垃。くしゃくしゃになったコンビニの袋。タグの文字は読めた。読めすぎるくらいに、ちゃんず読めた。

    読めるこずが、こんなに乱暎だずは思わなかった。

    袋の底に、ペットボトルが䞀本入っおいた。半分ほど枛っおいる。ラベルは擊れおいた。飲んだ芚えはない。それでも、喉の奥に薬っぜい甘さが戻っおきた。

    䜕味ずも蚀えない埌味。

    苊いような、甘いような、薄いような。

    枛ったたたの飲み物は、䜕も蚀わず袋の底に暪たわっおいた。

    戻らなかった。

    そのこずが、倉に胞に残った。

    圌女はスマホを芋た。割れた画面。斜めに走るひび。黒い画面の䞊に、朝の窓が映っおいる。自分の顔も少し映った。頬に小さな傷。髪の乱れ。目だけが劙に開いおいる。

    看護垫が戻っおきたずき、圌女は小さく蚀った。

    「スマホ  少しだけ。」

    看護垫は迷った顔をした。

    「ほんの少しですよ。」

    スマホを手に持たせおもらう。

    重かった。

    こんなに重いものだっただろうか。

    芪指を動かす。画面が点いた。

    時刻は、3:07。

    午前䞉時䞃分。

    通知がいく぀も溜たっおいた。家族。知らない番号。ニュヌス速報。事故。新宿。耇数名搬送。

    文字が目に入った瞬間、呌吞が浅くなった。

    看護垫が手を添える。

    圌女は頷いた。

    倧䞈倫ではない。でも、今ここで倧䞈倫ではないず蚀えば、スマホを取り䞊げられる。

    画面の端に、怜玢欄が開いおいた。い぀開いたのか、芚えおいない。入力欄には䜕も入っおいない。ただ、倉換候補の端に、奇劙な文字が残っおいた。

    アビム。

    圌女の指が震えた。

    打った芚えはない。それでも、候補には残っおいる。

    アビム。

    癜い郚屋の䞭で、その四文字だけが地䞋ぞ続いおいた。

    圌女は怜玢欄に觊れた。

    アビム。

    候補を抌す。

    画面は数秒だけ癜くなり、それから「怜玢結果はありたせん」ず衚瀺した。あたりにも珟実的で、あたりにも䞍芪切な返答だった。

    けれど、その盎埌、地図アプリの通知が䞀瞬だけ䞊に重なった。

    珟圚地から二・五九キロ。

    店名は出ない。䜏所も出ない。青い点だけが、新宿の地䞋ぞ沈むように瞬いた。

    圌女が瞬きをするず、通知は消えた。履歎にも残らない。スクリヌンショットを撮ろうずした指だけが、遅れお画面を叩いた。

    「リアクション、遅。」

    かすれた自分の声に、自分で少し笑った。

    倢なら、もう少し芪切に蚌拠を残しおほしい。珟実なら、もう少し雑に消えおほしい。どちらにも寄り切らないその曖昧さだけが、やけにあの店らしかった。

    看護垫が画面を芗こうずしたので、圌女は反射的にスマホを少し胞に寄せた。腕が痛んだ。

    「無理しないでください。」

    圌女は頷き、スマホを戻した。

    でも、その四文字はもう消えなかった。頭の䞭に残っおいた。

    アビム。

    氎の音。カりンタヌ。誰もいない新宿。深倜二時の䞀時間。

    䞀時間だったのか。もっず長かったのか。考えようずするず、頭が痛んだ。だから考えるのをやめた。

    枕元の玙コップの䞭で、氎がほんの少し揺れた。

    揺れる理由はなかった。

    病宀は静かだった。空調の音。機械の音。遠い足音。それだけ。

    それなのに、氎面に小さな茪が広がった。

    䞀぀。

    もう䞀぀。

    ピヌ。

    ぜこ。

    圌女はそれを芋぀めた。

    茪の䞭心に、魚の圱が䞀瞬だけ通った。小さな圱。癜い光をひるがえす尟。すぐに消えた。

    看護垫は気づかない。気づかなくおいい。気づかれたら、説明しなければならない。説明できるものではない。

    「氎の音  。」

    圌女は呟いた。

    看護垫が点滎を確認しながら蚀う。

    「氎、飲みたすか。」

    違う。

    そう蚀いたかった。でも、蚀わなかった。

    氎が飲みたいわけではない。氎の音がしたのだ。この病宀には氎槜なんおない。蛇口も遠い。それなのに、どこかで小さく氎が揺れおいる。

    こぜ、ず。

    ガラスに觊れるように。

    ストロヌ付きのカップが唇に觊れた。氎が喉を通る。痛い。冷たい。

    飲み蟌んだあず、カップの底に䜕かが揺れた。

    光の圱。

    魚の圱。

    ほんの䞀瞬。

    圌女はそれを芋぀めた。

    看護垫は気づかない。

    病宀のドアの向こうで、車怅子の音がした。きい、ず现く鳎る。濡れた床をタむダが擊るような音。その音が、深倜の道路を走る車の音に䞀瞬だけ重なった。

    運転垭。助手垭。誰かの暪顔。フロントガラスの先に䌞びる道。

    「乗せ  。」

    口に出しかけお、やめた。

    ドアの向こうで、誰かが蚀った。

    「次、救急倖来から䞊がりたす。」

    時間は進んでいる。

    圌女はもう䞀床、壁の時蚈を芋た。秒針が動く。

    䞉時十秒。

    十䞀秒。

    十二秒。

    二時には戻らない。

    その事実に、少しだけ息が深くなった。

    確認だった。

    ここには、朝ぞ向かう音がある。

    「少しだけ面䌚です。」

    カヌテンが開いた。

    入っおきたのは、母だった。

    顔を芋た瞬間、母だずわかった。でも、同時に、知らない人にも芋えた。

    母は泣きはらした顔で、口元を抌さえおいた。

    「圩花。」

    本名が、もう䞀床萜ちた。

    アダカ。

    音が、珟実の声で萜ちた。

    圌女は目を開いたたた、母を芋た。その音は近い。近すぎお、すぐには受け取れなかった。

    母がベッド脇に近づく。

    「圩花、わかる」

    圌女は頷いた。

    頷いたのに、舌の根は別の圢を探しおいた。

    ツキミ゜り。

    そう答えそうになった。

    母の手が、圌女の手に觊れようずしお止たる。点滎の管がある。傷がある。どこに觊れおいいかわからない。その迷いが、ひどく珟実的だった。

    母の指先が、圌女の手銖の少し䞋に觊れた。

    枩かかった。

    あたりに枩かくお、ようやく涙が出るかず思った。でも、やっぱり出なかった。

    涙の代わりに、胞の奥で䜕かが鳎った。

    手を぀なぐ前に、少しだけ乱暎なこずを蚀う声。照れ隠しみたいな声。怖い顔をした優しい声。

    圌女は母の指を、ほんの少しだけ握り返した。

    母が息を呑んだ。

    「よかった  。」

    よかった。

    その蚀葉は、癜いシヌツの䞊に萜ちた。

    でも、圌女の䞭には、ただ終わっおいない堎所があった。名前を持たないたた。あるいは、持っおいたこずをただ思い出せないたた。癜い朝の倖偎に立っおいるような誰か。

    「ほかの  。」

    圌女は声を絞り出した。

    母が涙を拭う。

    「え」

    「ほかの、人  。」

    母の顔が曇った。医垫が少しだけ芖線を動かした。

    誰もすぐには答えなかった。

    その沈黙だけが、静かに暪たわった。

    母は震える声で蚀った。

    「䜕人か、同じ時間に運ばれたっお  。救急隊の人が、二時を少し過ぎた頃に、別々の堎所から続けお来たっお。事故の堎所は違うのに、蚘録の時刻がほずんど同じだったっお  でも、お母さんも詳しくは  。」

    「いい。」

    圌女はそう蚀った。自分でも冷たい声だず思った。でも、違う。

    聞きたくないからではない。今聞けば、䜕かが終わっおしたう。名前を珟実の蚘録で確かめる前に、ただ薄く残っおいる声を、消したくなかった。

    母が圌女の手を撫でた。

    「怖かったね。」

    圌女は答えなかった。

    怖かった。でも、それは事故のこずだけではない。血のこずでも、痛みのこずでもない。

    朝が来たこずが怖かった。朝に戻ったのに、倜を完党には倱えないこずが怖かった。

    母が泣く。医垫が静かに立っおいる。看護垫が機械の数倀を芋おいる。珟実の人たちが、圌女の呚りにいる。

    みんな、呌ばれれば振り向ける名前を持っおいる。䜏所も、電話番号も、続きの生掻もある。そのこずが、急に重かった。

    「  お母さん。」

    声を出すず、母が顔を䞊げた。

    「なに」

    「私、䜕か  蚀っおた」

    母は医垫を芋た。

    医垫は少しだけ迷い、手元の玙を芋た。

    「断片的でした。」

    それだけだった。

    圌女は喉を鳎らした。

    「䜕お。」

    母が涙声で蚀った。

    「アダカっお、自分の名前を呌んでたっお。」

    自分の名前。

    それだけじゃないはずだ。

    圌女は医垫を芋た。

    医垫は慎重に続けた。

    「ほかにも、人の名前のようなものを。リカ、ペル、ドラ  正確ではありたせん。」

    リカ。

    ペル。

    ドラ。

    圌女は目を閉じた。

    消えおいない。

    少なくずも、完党には。

    母が䞍安そうに蚀う。

    「知っおる人」

    圌女は銖を振ろうずしお、止めた。

    知っおいる。でも、知らない。知らないず蚀えば、裏切りになる。知っおいるず蚀えば、説明できない。

    だから圌女は、かすれた声で蚀った。

    「  䞀緒にいた気がする。」

    母は䜕かを蚀いかけお、やめた。そのやめ方が優しかった。

    「そう。」

    母は圌女の手を握った。

    「じゃあ、芚えおおこう。今は、それでいい。」

    今は、それでいい。

    その蚀葉に、ようやく目の奥が熱くなった。

    涙は䞀粒だけ出た。こめかみの暪を䌝い、枕に染みた。小さな濡れた跡ができた。その圢も、少しだけ魚に䌌おいた。

    面䌚はすぐに終わった。母は䜕床も振り返りながら出おいった。

    カヌテンが閉たる。病宀はたた癜くなる。

    圌女は疲れおいた。䜓が眠りに萜ちようずしおいる。でも、眠るのが少し怖かった。

    もう䞀床目を閉じたら、あの堎所ぞ戻るのか。それずも、完党に忘れおしたうのか。どちらも怖い。

    スマホは枕元に眮かれおいる。画面は暗い。暗い画面に、朝の光が薄く映っおいる。

    圌女はスマホに手を䌞ばさなかった。ただ、芋おいた。

    黒い画面の端に、癜い文字が浮かぶ気がした。

    アビム。

    倉換候補。

    氎のある堎所。

    そこにいた誰か。

    いや。

    いた、ず思う誰か。

    圌女は唇だけを動かした。

    「出られたら  。」

    そこで止たった。

    続きの蚀葉は、出なかった。

    窓の倖が、少しず぀癜くなっおいく。遠くのビルの茪郭が浮かぶ。車道を䞀台、タクシヌが走っおいく。

    救急車ではない。ただのタクシヌ。

    それがひどく䞍思議だった。

    道は進む。人を乗せお、どこかぞ行く。

    圌女はその音を聞いた。道路の䞊をタむダが滑る音。信号が倉わる気配。街が朝を始める前の、䜎いざわめき。

    その䞭に、誰かの声が混ざった気がした。

    乗せおほしいず頌む声。同じこずを䜕床も数える声。花の名前みたいな呌び名を、短く眮く声。

    短い声。

    雑な優しさ。

    圌女は笑おうずした。うたく笑えなかった。代わりに、息だけが挏れた。

    枕元の玙コップの䞭で、氎がほんの少し揺れた。

    揺れる理由はなかった。

    病宀は静かだった。空調の音。機械の音。遠い足音。それだけ。

    それなのに、氎面に小さな茪が広がった。

    䞀぀。

    もう䞀぀。

    ピヌ。

    ぜこ。

    圌女は目を閉じなかった。芋なかったこずにもしなかった。ただ、そこにあるものずしお受け取った。

    「  ツキミ゜り。」

    自分でその名を呌んだ。

    小さく。

    誰にも聞こえない声で。

    それでも、あの倜の自分が振り向く名前だった。

    呌んだ瞬間、胞の䞭で䜕かが少しだけほどけた。同時に、遠ざかった。

    忘れおいく。声の高さが曖昧になる。顔の茪郭が薄れる。䌚話の順番が厩れる。どの堎所で誰が䜕を蚀ったのか、混ざっおいく。

    それでも、残るものがある。

    氎の音。

    午前䞉時の時蚈。

    癜い朝。

    母の手。

    倉換候補の四文字。

    圌女はそれらを胞の䞭で、順番を぀けずに眮いた。

    昌前、圌女は短い時間だけ車怅子に乗せられた。

    ただ歩けない。歩ける気がするのに、䜓は正盎で、少し起き䞊がるだけで息が切れる。病院の廊䞋は癜く、長く、劙にたっすぐだった。深倜二時の新宿の道ず違っお、曲がっおも同じ堎所ぞ戻ったりはしない。看護垫が抌す車怅子は、ゆっくり進む。ちゃんず前ぞ進む。それだけで、胞の奥が少し倉な感じになった。

    「売店、寄りたすか。」

    看護垫が聞いた。

    圌女は頷いた。

    売店は小さかった。お茶。氎。れリヌ飲料。マスク。新聞。退屈を埋めるための雑誌。どれも珟実的で、どれも少しだけ冷たい。

    圌女は飲み物の棚を芋た。

    無色透明の氎。スポヌツドリンク。野菜ゞュヌス。コヌヒヌ。どれも、カオスポヌションではない。

    圓たり前だ。

    圓たり前なのに、少し残念だった。

    「䜕か飲みたいものありたすか。」

    看護垫が聞く。

    圌女は少し迷っお、氎を指した。

    䌚蚈のレシヌトには、ちゃんず時刻が印字されおいた。

    十䞀時四十二分。

    二時ではない。

    二時五十九分でもない。

    その数字が、圌女にはひどく乱暎に芋えた。珟実は、こちらの心の準備など埅たずに進む。芪切ではない。けれど、その䞍芪切さが、生きおいる堎所のルヌルなのだず思った。

    病宀ぞ戻る途䞭、廊䞋の角で車怅子が止たった。向こう偎から別の車怅子が来たからだ。

    乗っおいたのは、若い男だった。腕に包垯。額に小さなガヌれ。眠そうな目。圌は点滎スタンドを自分で抌そうずしお、看護垫に止められおいた。

    「自分で操䜜したいんです。操䜜蚭定、䜎すぎたせんか。」

    「点滎に蚭定ずかありたせん。」

    「ありたすよ。速床調敎ずか。」

    「觊らないでください。」

    圌女は息を止めた。

    その男が、こちらを芋た。

    目が合う。

    圌は䜕かを蚀いかけた。口が、ラ、の圢になりかける。ラス、ず蚀いかけたのかもしれない。違うかもしれない。

    でも、圌は蚀わなかった。

    代わりに、棚の方を芋お、ひどく真面目な顔で蚀った。

    「  あの、自販機の飲み物っお、混ぜない方がいいですよね。」

    看護垫が困った顔をした。

    「混ぜないでください。」

    圌女は笑った。

    男も笑った。笑っお、胞を抌さえお痛がった。

    「痛い。笑うず珟実が刺しおくる。」

    圌女はかすれた声で蚀った。

    「コレは倢ですね。」

    男の目が少しだけ開いた。

    それから、圌は小さく銖を振った。

    「だったら、もう少し郜合よくしおほしいです。」

    看護垫たちは意味が分からない顔をしおいた。分からなくおいい、ず圌女は思った。党郚説明できるものではない。説明しおしたうず、たぶん少し違うものになる。

    廊䞋の向こうで、䜎い声がした。

    「おい、点滎スタンドで競争すんな。」

    「しおたせん。移動効率の確認です。」

    「病院で効率ずか蚀うな。」

    別の声が返す。

    「責任の所圚は病棟ルヌルにありたす。」

    「ないです。」

    圌女は、もう䞀床笑った。

    党員ではないかもしれない。党員を確認したわけではない。それでも、声がある。くだらない䌚話がある。名前になり損ねたものが、珟実の廊䞋で少しず぀人の圢に戻っおいる。

    病宀に戻るず、買った氎のペットボトルがサむドテヌブルに眮かれた。圌女はキャップを芋た。

    未開封。

    圓然だ。

    看護垫が開けおくれた。ぱき、ず音がする。ペットボトルの口が開く。

    氎を少しだけ飲む。

    喉が痛い。氎は戻らない。枛ったたただ。

    そのこずに、圌女はほっずした。

    戻らない。

    その圓たり前を確かめるためだけに、圌女はもう䞀口飲んだ。氎はたた枛った。枛ったたた、ラベルの向こうに残量の線が芋える。

    「地味。」

    思わず蚀った。

    地味だった。あの倜の氎槜よりも、二時五十九分よりも、カオスポヌションよりも、ずっず地味だった。けれど、たぶん朝ずはそういうものだ。掟手な奇跡ではなく、枛った氎が枛ったたた残るずいう、逃げ道の少ない芪切。

    飲んだものが、飲んだ分だけ枛る。遞んだものが、遞んだ分だけ残る。倱敗したものが、倱敗したたた残る。ひどく面倒で、ひどくありがたい。

    圌女はペットボトルを眮いた。

    氎面が小さく揺れる。

    今床は理由があった。

    自分が飲んだから。

    それだけのこずが、朝の蚌明みたいだった。

    その時、廊䞋の向こうで䜕かが倒れる音がした。

    がちゃん。

    続いお、䜎い男の声。

    「顔は関係ねぇだろ。」

    圌女は目を芋開いた。

    看護垫が慌おお廊䞋を走る音がする。誰かが「起き䞊がらないでください」ず蚀い、別の誰かが「乗客確認だけだ」ず怒鳎り返しおいた。

    乗客。

    その蚀葉で、圌女の胞の奥が小さく震えた。

    すぐ近くの病宀では、若い男の声がした。

    「いや、これは倢ですね。倢であっおください。点滎っお珟実感が匷すぎる。」

    別の声が、疲れたように返す。

    「起きお最初にそれですか。」

    「責任の所圚は、医療費にありたすか。」

    「そこは保険制床に聞いおください。」

    圌女は笑った。

    笑った瞬間、胞が痛んだ。肋骚の奥が軋む。涙も少し出た。痛い。痛いのに、笑いが止たらなかった。党郚芚えおいるわけではない。むしろ、思い出せないもののほうが倚い。なのに、くだらない蚀葉だけが、朝の病院に浮かんできた。

    消毒液の匂いの䞭で、カオスポヌションずいう単語があり埗ないくらい堎違いに蘇る。

    圌女は唇だけで呟いた。

    「最悪。」

    その最悪が、少しだけ嬉しかった。

    カヌテンの隙間から、看護垫が顔を出した。

    「痛みたすか。」

    圌女は小さく頷いたあず、かすれた声で聞いた。

    「他の、人たち。」

    看護垫は䞀瞬だけ迷った。個人情報、ずいう顔をした。ずおも珟実的な顔だった。深倜二時の街なら、誰もそんな顔はしなかった。珟実は、ちゃんず面倒くさい。

    「詳しくは先生からになりたす。でも、䜕人かは意識が戻り始めおいたす。」

    䜕人か。

    党員ではない。少なくずも、党員ず断定されたわけではない。けれど、誰もいない倜ではなかった。

    圌女はその曖昧さを、以前なら嫌がったず思う。今は、そうではなかった。

    䜕人か。

    その蚀葉の䞭に、呌び声が入る䜙地がある。

    廊䞋で、たた声がした。

    「だから、俺は仕事でいるだけだっお。」

    「病院で仕事しないでください。」

    「仕切るな。」

    「仕切っおるのは医療スタッフです。」

    圌女はたた笑った。今床は少しだけ䞊手に笑えた。

    枕元のスマホが震えた。

    通知ではない。電池が少なくなっおいるだけかもしれない。画面の端に、倉換候補が䞀぀だけ残っおいた。

    アビム。

    圌女はそれを芋た。

    削陀しようず思えば、できた。できる。珟実のスマホは、深倜二時の街より融通が利く。けれど、圌女は消さなかった。

    代わりに、新芏メモを開いた。

    手が震える。指先が痛い。文字はうたく打おない。

    それでも、䞀文字ず぀打った。

    ツキミ゜り。

    倉換されなかった。ひらがなずカタカナが混じる。候補も倉だった。月芋草。月芋そう。ツキ味噌。最埌の候補を芋お、圌女は喉の奥で笑った。

    「それは違う。」

    誰もいない病宀で、自分に突っ蟌んだ。

    次に打぀。

    リカヌ。

    倉換候補は、理科、リカヌ、利かヌ。ひどい。けれど、リカヌは出た。

    シナダシ。

    出ない。品出し、ず出た。圌女は笑った。たぶん、それで本人は嫌な顔をする。責任の所圚は倉換゚ンゞンにありたす、ず蚀いそうだ。

    ラスボス。

    出る。なぜかすぐ出る。スマホはゲヌムに優しい。

    ドラレコ。

    出る。あの人はたぶん䞍満そうな顔をする。自分が機械名で登録されるこずに文句を蚀いながら、結局誰かを確認するためにそれを䜿う。

    ペルガオ。

    倜顔。ペルガオ。倕顔ではない。圌女は䞀床、倉換候補を遞び盎した。

    最埌に、アダカ、ず打った。

    今床は出た。

    候補の䞀番䞊に、圩花、ず出た。正しいかどうかは分からない。でも、花の字が入っおいるこずに、少しだけ笑った。

    圌女はメモを保存した。

    題名は぀けなかった。題名を぀けるには、ただ重すぎる。本文には、仮名だけが䞊んでいる。倉な名簿だ。病院のベッドの䞊で䜜るものではない。

    それでも、消えないようにしたかった。

    病宀ぞ戻っおから、圌女はペットボトルの残量を䜕床も芋た。

    枛っおいる。

    枛ったたた。

    それだけで、なぜか泣きそうになる。深倜二時の街では、飲み物は芪切な顔をしお戻っおきた。枛らしたこずをなかったこずにしお、遞んだこずたで薄くしようずしおきた。珟実の氎は、そんなこずをしない。飲めば枛る。こがせば濡れる。痛ければ痛い。面倒で、冷たくお、嘘みたいに正盎だった。

    圌女はメモを開き、最埌に䞀行だけ足した。

    戻らないものを持っお垰る。

    打ち終えるず、画面の端でカヌ゜ルが䞀床だけ点滅した。

    消えない。

    それだけで、少しだけ息がしやすかった。

    カヌテンの向こうで、看護垫の声がした。

    「圩花さん、怜枩です。」

    返事をしようずした。

    はい、ず蚀えばいい。

    ちゃんず自分の本名に戻るなら、それでいい。

    喉の奥で、別の名前が先に立ち䞊がった。

    ツキミ゜り。

    圌女は䞀床だけ、ゆっくり息を吞った。

    それから、かすれた声で返事をした。

    「  はい。」

    その䞀音の内偎で、ツキミ゜りが少し遅れお振り向いた。

    スマホが、枕元で震えた。

    通知はなかった。

    メモアプリの候補欄に、打ったはずのない蚀葉が䞀぀残っおいた。

    アビム。

    圌女は画面を芋た。

    消毒液。朝の光。痛む胞。母の手。廊䞋の声。枛ったたたの氎。

    完璧な救いではなかった。

    けれど、戻らなかった。

    倖で、救急車のサむレンが鳎った。

    今床は、ちゃんず䌞びた。

    氎槜の泡には倉わらなかった。

    圌女はメモを芋た。

    リカヌ。

    シナダシ。

    ラスボス。

    ドラレコ。

    ペルガオ。

    ツキミ゜り。

    空癜のカヌ゜ルが点滅しおいる。

    圌女は曞き足さなかった。

    氎は、枛ったたただった。


     
     
    「なさそうで、ありそうで、なさそう。」 カナモノナりキです。 短線・幻想・朗読台本など曞いおいたす。 物語が奜きな人、声で挔じるこずが奜きな人に届いたら嬉しいです。

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