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アレロパシー【第1話:播種】


    第1話:播種(はしゅ)

    午後三時の「ビデオ・ガーデン」は、雨の日に限って、店そのものが湿った鼓膜みたいになる。

    外では激しい雨が休みなくアスファルトを叩いていた。店内に流れている安っぽいインストゥルメンタルは、その雨音に薄く削られて、もはや旋律というより、濡れた壁に貼りついた剥がれかけのポスターみたいに頼りない。カウンターの中で検品用のケースを指先で滑らせるたび、ビニールの擦過音がやけに大きく聞こえる。冷蔵庫の駆動音。蛍光灯のかすかな唸り。どこかで跳ねた水滴。さっき入ってきた客が残した濡れた靴跡の、生乾きの匂い。湿気は音を太らせる。今日の空気は、世界中の小さな摩擦をわざわざ増幅して、俺の頭蓋の内側へ押し込んでくるみたいだった。

    けだるそうに見えているだろうが、実際は違う。ただ耐えているだけだ。昨日の雷鳴のあとに胸の奥へ残った、あの馬鹿みたいに都合のいい願い――この世界の音を全部、どこかへ持っていってくれる完全な静寂。それを一度考えてしまったせいで、今日は余計に駄目だった。ないものを欲しがると、あるものは全部うるさくなる。雨はその事実を、皮膚の上から何度でも教えてくる。

    案の定、枝元はケースを持ったまま、映画評論家ぶった顔でこっちを見た。

    「葛城さん、ゾンビ映画の『生存フラグ』ってあるじゃないですか。」

    「……なんだ藪から棒に。」

    「『土の味が好きそうな奴』です。」

    「……は?」

    「ほら、ゾンビって基本、土の中から這い出てくるじゃないですか。だから、土に耐性がある奴は強いんすよ。ていうか、同郷判定が入ると思うんですよね。『あ、こいつ土いけるタイプか』って。」

    「……何を言ってるんだお前は。」

    「つまり、あいつらのアイデンティティは泥なわけですよ。」

    「……お前のその理論でいくと、農家の人か、幼少期に公園の砂場で泥団子食ってた奴しか生き残れないことになるぞ。」

    「あ、それです。泥団子。葛城さん、食ったことあります?」

    「あるわけないだろ。」

    「僕はあります。」

    「誇るな。」

    「いや、でも、土って意外と情報量あるんすよ。公園の砂場と校庭の隅でも味違うし、雨上がりはなんか、ちょっとだけ鉄っぽいっていうか。」

    「……お前、今すぐ口ゆすいでこい。話聞いてるだけで口の中がジャリジャリする。」

    「ひどいなぁ。これ、かなり有益なサバイバル知識ですよ?」

    「どこがだ。」

    「だから、いざ世界が終わった時、土の味を知ってる奴は強いんです。土着。地元愛。同郷意識。異物として排除されない。逆に、綺麗な靴のまま安全圏に立ってる奴ほど、真っ先に噛まれる。」

    「ゾンビに郷土愛を見出すな。あと勝手に世界を終わらせるな。」

    「でも混ざるって大事じゃないですか。土に還るとか、土に播くとか。ああいうのって、全部『一回ぐちゃぐちゃになる』のが前提でしょ?」

    「……お前の雑談、たまに生理的に嫌な方向へ伸びるよな。」

    「褒め言葉として受け取っときます。」

    枝元はへらへら笑っている。軽い。とにかく軽い。だが、その軽さが今日は妙に湿っぽい言葉ばかり拾ってくる。土。泥。播く。混ざる。同郷。雨の日の空気に引っ張られているだけなのか、それともただ俺の耳がそういう単語を勝手に棘みたいに拾ってしまうのか。どっちにしろ疲れる。

    枝元はまだ何か言いたげにしていたが、ふいに作業の手を止めて、あ、と声を漏らした。

    「……あ、そういえば今日、返却ポストの確認まだでしたね。見てきます。」

    その一言で、俺もようやく思い出す。雨の日の返却ポストは嫌いだ。濡れた外気と店内のぬるい空気がぶつかる場所は、いつも音も匂いも濁る。差し込まれたケース同士が擦れる音は鈍くなるくせに、何か一つおかしなものが混じった時だけ、その異物感はやけに鮮明に浮く。湿った紙。濡れたプラスチック。指に張りつく冷たさ。そういうものを想像しただけで、こめかみの奥が重くなった。

    枝元はもうカウンターを出る体勢になっている。さっきまで泥団子だの同郷だの言っていた口調のまま、気楽に奥へ向かおうとしているのが腹立たしい。あいつに悪気がないのは知っている。知っているからこそ、余計に音が刺さる。軽い靴音。棚の角をかすめる服の擦れる音。手首の動きに合わせて鳴るケースの小さな打音。世界はこいつにだけ優しすぎる。

    だが、返却ポストを放置するわけにもいかない。今日みたいな雨の日は特に、変なものが混ざりやすい。水を吸った紙片とか、コンビニのレシートとか、誰かの悪ふざけみたいなゴミとか。そういう取るに足らない異物ほど、後になって面倒を増やす。土に埋めた小石みたいに、見えないまま根を傷つける。枝元のさっきの雑談が、妙なところで尾を引いた。土の味。泥の同郷。混ざるもの。播かれるもの。どうでもいいはずの言葉が、今日はどれも湿っていた。頭の奥が、鈍く脈を打った。また。

    枝元が振り返って、俺の返事を待つ。店内のインストは相変わらず安っぽい。雨音はさらに一段強くなった気がする。カウンターの内側にまで、濡れた外の気配がじわじわ染み込んでくる。

    「……ああ、頼む。」

    枝元がカウンターを出ていって、俺は一度だけ目を閉じた。すぐ戻るつもりだった。ただ、それだけのはずだった。だが、激しい雨音はその短い隙にまできっちり入り込んでくる。屋根を叩く音。自動ドアの隙間から滲む外気。冷蔵庫のぶうんという駆動音が、今日はやけに腹の底から響く。湿気を吸った空気は重いくせに、音だけは軽々と動く。濡れた靴底が床のワックスをこすった時の、ぬるりとした記憶まで耳の奥に残っている。誰も喋っていない瞬間ですら、店は静かにならない。静かにならないから、余計に、さっき枝元が口にした土だの泥だのという単語だけが、頭のどこかで湿ったまま残る。

    返却ポストのある裏手は、雨の日に限って店の内と外がいちばん醜く混ざる場所だ。濡れた段ボールの匂い。金属の冷えた匂い。誰かの傘から落ちた水が、いつまでも床の隅に残っている感じ。そういうものが、音より先に皮膚へ触れてくる。俺はだるさを引きずったままケースを棚へ戻し、ようやく腰を上げた。頭の芯が重い。鼓膜の奥が薄く腫れているみたいで、冷蔵庫の低い唸りにまで苛立つ。雨の日は駄目だ。世界中のどうでもいい音が水を吸って膨らみ、こっちに寄ってくる。

    その時だった。バックヤードの方から、プラスチックか何かが落ちた乾いた音がして、その直後に枝元の声が短く弾けた。

    「うわあっ!?」

    「……どうした。」

    返却ポストの裏へ回るまでの数歩が、今日は妙に長い。雨音がさらに強くなっていた。壁の向こうの外気は冷たいのに、店内側は人の呼気と機械熱で妙に生ぬるい。その境目に立つと、湿った空気が皮膚へ貼りつく。こういう場所は嫌いだ。音も匂いも、普通の店内より一段近い。

    返却ポストの裏へ回った俺は、まず枝元の情けない格好を見た。尻もちをついている。片手を床について、もう片方の手は宙で止まったまま。視線の先には、床へ転がった黒いDVDケース。ケースの隙間から、どろりとしたものが滲み出ていた。雨水にしては粘る。泥水にしては色が深い。照明の下で鈍く光るそれを見た瞬間、鼻の奥へ湿った土の匂いが入り込んできた。土だけじゃない。何かが一度湿って、しばらく放置されて、じわじわ腐り始めた時のぬめった匂いも混じっている。

    「か、葛城さん……これ……。」

    枝元の声は完全にひっくり返っていた。さっきまで泥団子の話で笑っていたやつと同じ喉とは思えない。軽口を叩く余裕が消えた分だけ、逆に本物の嫌悪が生で聞こえる。俺はしゃがみ込みもせず、まず目だけでその黒いケースを確かめた。隙間から漏れた液は、床に細い筋を作っている。薄い茶色ではない。もっと黒い。水気を吸って重くなった畑の土みたいな色だ。そこへ髪の毛らしいものが一本、いや数本、貼りついて見えた。長くて、濡れていて、妙に肌へ近い質感がある。

    「……なんだこれ。」

    自分の声が思っていたより平坦だったのは、気味悪さを処理に変えたかったからだ。驚いたら負ける。そういう種類の面倒ごとは、店で働いているとたまにある。だが、これはその「たまに」に入れてしまうには、質感が悪すぎた。

    枝元は顔をしかめたまま、鼻をつまみそうになってやめた。

    「うわ、くっさ!なんすかこれ、生ゴミ?誰だよこんな嫌がらせすんの……。」

    嫌がらせ。言葉としてはそれで十分だった。十分なはずなのに、床から立ち上る匂いは、その薄いラベルを受けつけない。土の湿り。濡れた紙の腐り。そこへ混ざる、ほんの微かな鉄っぽさ。鼻の奥で乾いた錆が擦れるみたいな臭いがした。俺はようやく膝を折り、ポケットからハンカチを出した。素手で触りたくない。触った瞬間に、余計な感触まで耳へ変換されそうだった。

    「……枝元、袋持ってこい。密閉する。」

    「は、はい!」

    枝元が慌てて立ち上がる。濡れた靴底がきゅっと鳴った。あいつの足音が遠ざかる間、俺はハンカチ越しにケースを拾い上げる。ぬちゃ、という音がした。やっぱり最悪だ。濡れた泥がプラスチックへ張りついて、ゆっくり剥がれる時の、あの生っぽい音。ケース自体も妙に重い。中身のディスク一枚分ではない。もっと、詰まっている重さだ。

    爪を立てるのも嫌で、指先に力を込めて慎重に開いた。蝶番が小さく軋む。中にはディスクが入っていなかった。代わりに、黒く湿った土がぎっしりと詰まっている。表面はただの泥に見えるのに、少し奥は粒が粗い。そこへ長い髪の毛が何本も絡んでいた。黒い糸みたいに泥へ食い込んでいて、抜こうとしたら指ごと持っていかれそうな粘りがある。その隙間、泥の割れ目みたいなところから、白っぽい芽の先端が覗いていた。植物の芽。そう言ってしまえばそれまでだ。だが、こんな場所で、こんな詰まり方をした泥の中から出てきていい色ではない。妙に生っ白くて、まだ土に触れたばかりの皮膚みたいだった。

    俺は息を浅くした。鉄の臭いが、少しだけ強くなる。血だと断じるには弱い。だが、ただの濡れた土だけでは説明のつかない乾いた金属臭がある。ケースの背表紙を見ると、『家族の肖像』というタイトルが差し込まれていた。正規のジャケットじゃない。白黒コピーの、安っぽい紙だ。雨でも吸ったのか、端が少し波打っている。

    「……『家族の肖像』か。いい映画なのにな。」

    枝元がビニール袋を持って戻ってきても、俺はすぐには動けなかった。視界の中で黒い泥はただそこにあるだけなのに、耳の方が勝手に先へ行く。分解。吸水。膨張。発芽。そんな言葉が、さっきの雑談の残骸みたいに脳の端へ次々こびりつく。嫌がらせ、で終わらせていいはずなのに、身体だけがそれを拒んでいる。店の中へ、何かがもう入っている。そういう感じがする。説明じゃない。手触りと音の方が、先にそう言っていた。

    俺は袋の口を開いて、ケースをゆっくりと滑り込ませた。ビニールが泥の縁を擦る、薄い音。封じ込めたはずなのに、匂いはまだそこに残っている。雨音は相変わらず激しい。返却ポストの金属が、外の気温を含んで冷えている。店の中は生ぬるい。境目だけが異様に湿っている。

    この感じを、何と呼べばいいのか。一瞬だけ考えて、やめた。考えたところで、意味は後からついてくる。今あるのは、泥と髪と芽と、気味の悪い重さだけだ。

    「(小声で)……播種(はしゅ)、か。」

    俺は返却ポスト裏で見つかったあの黒いケースの感触を、まだ指先から追い出せずにいた。ハンカチ越しだったのに、ぬちゃりとした重みだけが妙に残っている。泥と髪と、あの白い芽。袋の口を縛ってバックヤードへ回してからも、鼻の奥にはうっすら鉄っぽい臭いがこびりついたままだ。雨の日は駄目だ。音も匂いも、嫌なものほど湿気を吸って長引く。

    気配がカウンターの前で止まる。俺が顔を上げるより先に、店長の明るい声が降ってきた。

    「おーい、葛城くん。紹介するよ。」

    「お疲れ様です、店長。」

    「前に話してた期待の新人、花村さんだ。大学五年生で時間は融通きくそうだから。即戦力だよ。」

    店長の肩の後ろから、一人の女が前に出る。長い黒髪。白い肌。雨上がりの街灯みたいに、余計な色を吸い込んだあとで残った薄い明るさがあった。姿を見た瞬間に、という言い方は少し違う。正確には、その人が一歩前へ出た時、俺の耳の周りをまとっていた音の層が、すっと薄くなった。

    「初めまして。花村紫音と申します。……よろしくお願いします。」

    雨はまだ鳴っている。冷蔵庫も唸っている。店長の乱れた鼓動も、枝元の軽い拍動も、全部消えたわけじゃない。ただ、彼女のいる場所の周りだけ、そこへ近づけない。高性能なノイズキャンセリングみたいな人工的な切り方じゃない。もっと自然で、もっとやわらかい。熱のある額へ冷たい手のひらを当てられた時みたいに、先に苦痛の方が引いていく。

    「……あ、どうも。バイトリーダーの葛城です。」

    「葛城さん。……素敵なお店ですよね。ここ。」

    その言葉に、店長が嬉しそうに笑う。だが俺は返事より先に、自分の頭痛が一段下がったことに気づいていた。こめかみの裏でずっと脈打っていた鈍い痛みが、彼女の声を聞いた後から、少しずつ薄くなっていく。世界の音量が下がったわけじゃないのに、俺の中でだけ、刺さり方が変わる。そんなことがあるのか、と一瞬思ったが、すぐにどうでもよくなった。楽だったからだ。理由なんか後でいい。今この瞬間、楽だという事実だけで十分だった。

    「じゃあ葛城くん、研修頼むな。私、ちょっとあの……いや、用事があるから。」

    店長は途中で言葉を濁して、逃げるようにバックヤードへ下がっていく。小銭の音がじゃらついている。いつもならその一つ一つが耳につくのに、今は遠い。輪郭が甘い。店長の背中が見えなくなると、代わりに枝元がするすると前へ出てきた。こいつはこういう時だけ仕事が速い。

    「うっす!よろしくね花村ちゃん!俺、枝元!エダモンって呼んで!」

    案の定だった。枝元の声は今日も軽い。軽いが、さっきまでみたいに頭蓋の内側へ跳ね返ってこない。紫音の近くにいるせいか、同じ音でも刺さらずに済む。あいつの心音が少し高くなる。下心と好奇心と、単純な浮かれ。普段なら鬱陶しいだけのノイズが、今日は遠くのラジオみたいだった。

    紫音は困ったように笑って、小さく会釈した。その仕草にも無駄な音がない。けれど、それを不気味だとは思わなかった。むしろ、そうであるべきものがそこへ来た、という感じに近い。雨の日に窓を閉めるとか、真夏に冷えた水を飲むとか、そういう種類の当然さだ。俺の身体の方が先に納得している。

    枝元がさらに何か喋ろうとしたところで、俺は口を挟んだ。

    「……枝元、うるさい。作業に戻れ。」

    「えー、冷たいなぁ。」

    枝元は肩をすくめて、でも本気で傷ついた様子もなくレジ横の作業へ戻る。軽口の余熱だけが少し残る。その程度で済むことに、俺は内心で少し驚いた。普段なら、あいつの喋り声はもう少し長く尾を引く。今日は違う。紫音が俺のすぐそばに立っているだけで、余計な音が水面に落ちた埃みたいに沈んでいく。

    「あの、葛城さん。何をすればいいですか?」

    近い。近いのに、苦しくない。呼吸の音がしないというより、その人の周りだけ空気の粒が細かく整っているみたいだった。俺の耳鳴りが止まる。頭の奥のざらつきが静まる。返却ポスト裏の泥の臭いまで、少しだけ遠のく。こんなに露骨に身体が楽になるなら、もう説明はいらない。助かるものは助かる。それだけだ。

    「……とりあえず、レジの打ち方から教える。こっちへ。」

    午後十時半。閉店後の「ビデオ・ガーデン」は、昼間とは別の生き物みたいに静かだった。

    静か、と言っても、無音じゃない。外ではまだ雨が降っている。昼間ほど狂暴ではないが、休む気もなく、道路と看板と排水口を細かく濡らし続けている音がある。だが、その音だけだった。枝元は先に帰った。店長もいない。客の出入りも、冷えた傘の滴も、湿気を吸ってふくらんだ誰かの呼吸もない。残っているのは閉店作業の名残りみたいな薄い空気と、カウンターの向こうにいる紫音だけだ。

    耳の奥にへばりついていたざらつきが、今日はもう戻ってこない。返却ポストの裏で拾った泥の重さも、あの鉄っぽい臭いも、まだ記憶から消えたわけじゃない。それでも彼女のそばにいると、そういう嫌なものすべてが、一枚向こう側へ押しやられる。痛みが消える、というより、痛みがこちらへ届く前にどこかへ吸い込まれる感じだ。俺はレジの締め作業を終え、カウンターに肘をついて、窓の向こうの暗い雨を見た。外は冷えているはずなのに、店内には昼の湿りがまだ少し残っている。そのぬるい膜すら、彼女がいると気にならない。

    紫音は、カウンターの内側を静かに拭きながら、ふと手を止めた。声をかける前の気配がない。普通の人間なら、息を吸うとか、喉が微かに鳴るとか、何かしらある。彼女にはそれがない。ただ、気づくとそこに声がある。

    「……さっきの。」

    「ん?」

    「バックヤードにあった、黒い袋。……なんだか、懐かしい匂いがしました。」

    黒い袋。言われてすぐ、昼の光景が戻る。泥の詰まったケースを密閉した時の、あの安っぽいビニールの手触り。袋の内側で閉じ込めきれずに残った湿った臭い。髪の毛。白い芽。思い出したくもないのに、記憶は匂いと一緒に蘇る。

    「……ああ、あれか。変なイタズラだよ。泥が入ってたんだ。」

    「泥……。」

    「気味悪いだろ。髪の毛とか混ざっててさ。警察に届けたほうがいいかもな。」

    そう言いながらも、自分の声にあまり本気が乗っていないのが分かった。気味悪いのは本当だ。だが、その不快ささえ今は輪郭がぼやけている。紫音の周りでは、嫌悪も恐怖も、どういうわけか尖らない。彼女は少し首を傾げて、カウンターの隅に置かれた小さな観葉植物へ目を向けた。昼間もそこにあった鉢だ。葉先に少し元気がなくて、色も浅い。

    「そうですか?……土は、すべての始まりですから。」

    その言葉は、昼の返却ポスト裏で見た異物を肯定しているようで、でも嫌な感じはしなかった。たぶん彼女の声のせいだ。押しつけがましくない。断定なのに柔らかい。土を語るというより、水や陽の当たり方みたいな当然のことを話しているように聞こえる。

    紫音は鉢へ手を伸ばし、葉を傷つけないように指先でそっと撫でた。白い指が緑に触れても、そこだけ余計に冷えたりはしない。むしろ、乾いた葉のかすれた感じが少し落ち着く気がする。

    「腐ったものも、死んだものも、全部受け入れて、新しい命にする。……私、土の匂い、好きですよ。」

    その言い方は静かだった。知識をひけらかすでもなく、変わった価値観を見せびらかすでもない。ただ、本当にそう思っている人間の口調だった。俺は昼間、枝元が泥団子の話をした時には心底うんざりしたのに、同じ土の話でも彼女がすると不思議と耳に引っかからない。むしろ、雨の夜にする話として妙にしっくりきた。外では濡れた土が街じゅうへ広がっている。あの返却ポスト裏の異物だって、結局は土と何かが混ざったものだった。嫌なもののはずなのに、彼女の声で聞くと、ただの腐敗じゃなくて、もう少し別の循環の中へ置かれたみたいに思えてしまう。

    「……そうか。変わってるな。」

    俺の言葉に、紫音は小さく笑った。声を立てない笑い方だったが、そこに気味の悪さはなかった。むしろ、この店では珍しい種類の静けさで、俺の鼓膜にはありがたかった。

    俺は自分でも考える前に口を開いていた。

    「俺は……静かなのが好きだ。」

    「……ふふ。じゃあ、気が合いますね。」

    紫音の返事は軽かった。恋人同士のやり取りみたいな湿っぽさもない。ただ、その言葉だけで十分だった。気が合う。たったそれだけのことが、雨の夜の店内では救いみたいに響いた。俺は返事をしなかった。する必要がなかった。黙っていても苦しくない沈黙が、ちゃんとそこにあったからだ。

    その時だった。空が白く光った気がした。ほんの一拍遅れて、腹の底へ沈むような雷鳴が届く。店内の照明が、一瞬だけ細く揺れた。

    「……あ。芽が出そう。」

    「え?」

    「いえ。……雨、強くなってきましたね。」

    紫音は何でもないことみたいに言い直して、また窓の外へ視線を戻した。俺もそれ以上は追わなかった。雷の残響はすぐに雨音へ溶けていく。照明も元に戻る。店の中には、もう騒がしいものが何もない。

    俺はただ、その静けさの中にいた。返却ポスト裏の泥も、黒い袋も、髪の毛も、芽も、店長の逼迫も、全部消えたわけじゃない。どこかに残っている。湿った土の中みたいに、見えないまま。けれど今は、それより先に、彼女のそばが楽だった。

    たぶん、その時にはもう遅かったのだと思う。

    俺はこの店のどこかに何かが撒かれたことより先に、紫音の静寂の方を選び始めていた。



     
     
    「なさそうで、ありそうで、なさそう。」 カナモノユウキです。 短編・幻想・朗読台本など書いています。 物語が好きな人、声で演じることが好きな人に届いたら嬉しいです。

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