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アレロパシー【第2話:根腐れ】


    第2話:根腐れ(ねぐされ)

    午後二時の「ビデオ・ガーデン」は、空いているくせに息苦しかった。

    客はまばらにいる。いないわけじゃない。棚の向こうでケースを戻す音がして、雑誌のページがぱさりと鳴って、レジ前では誰かの喉が小さく鳴る。店内に流れている気だるげなボサノバは、空調のかすれた唸りに薄く削られて、陽気さより先に湿った膜みたいなものだけを残していた。外の天気は見ていない。だが、この店の空気は、今日も換気に失敗した肺みたいに重かった。

    カウンターの中では、枝元がタブレットを持ったまま、なぜか裁判の弁護人みたいな顔をしている。隣ではルミさんが雑誌の検品をしていた。爪の先で紙を弾くたび、乾いた音が小さく立つ。その乾き方まで、今の俺には少しきつい。

    昨日、あの静けさを知ってしまったせいだ。

    花村紫音のそばでだけ、頭痛が引いた。耳の奥にこびりついていたざらつきが、いっとき消えた。その事実を知ってしまった鼓膜は、もう前みたいに店の雑音へ適当に慣れてくれない。枝元の軽さも、ルミさんの生活の速さも、棚の奥で動く客の遠慮がちな気配も、全部が前より輪郭を持って刺さってくる。

    枝元の心音は、今日も軽い。中身のない風船が弾むような、あの妙に明るいリズムだ。悩みや葛藤ってものが、こいつの血流には一度も居着いたことがないんじゃないかと思う時がある。羨ましいというより、腹が立つ。

    その軽い鼓動が、また始まる前の合図みたいに一つ跳ねた。

    「だから葛城さん、ルミさん。あれは絶対そうなんすよ。『メイちゃんアレルギー説』。」

    来た。

    俺がそう思うより早く、ルミさんが雑誌から目を上げて「またその話?」と呆れた顔をした。枝元は待ってましたとばかりにタブレットを掲げる。画面には、どこかで拾った考察サイトのスクリーンショットらしいものが並んでいた。

    「だって見てくださいよ。中盤からずっと顔赤いんすよ。あれ寂しさとか感動じゃないです。粘膜がやられてるんです。花粉か、なんか植物系のやつで。」

    「夢がないにもほどがあるでしょ。あんた、なんで名作をわざわざ台無しにする方向にだけ頭回るの。」

    「台無しじゃないっす。医学的見地です。論文としてまとめたいくらいです。」

    「どこに出すんだよ、そんな最悪の論文。」

    「児童映画とアレルゲンの関連性を考える新時代の評論誌とか。」

    「廃刊してるよ、たぶん。」

    枝元は真面目な顔のまま続ける。真面目な顔で馬鹿をやるから余計にうるさい。ルミさんは呆れつつも、ちゃんと相槌を打つ。そのやり取りが成立してしまうこと自体、この店の日常だった。

    「だって、トウモロコシ持って病院行くじゃないですか。あれ絶対、届け物じゃないんすよ。『原因物質を特定してきました』ってやつなんすよ。」

    「最低。急に証拠品みたいに言うな。」

    「しかも周りの大人、みんな妙に必死でしょ。あれ絶対、証拠隠滅に走ってる空気なんすって。」

    「お前なあ……。」

    「葛城さんはどう思います?」

    「……知らねえよ。お前の頭の中では、だいたい全員いつも隠蔽してるだろ。」

    「そうなんすよ。この世の大半の問題は、隠して、放っといて、気づいた時には手遅れなんです。」

    「急にだけ正しいこと言うのやめて。気持ち悪いから。」

    ルミさんが吐き捨てる。だが、その声の奥に混じっていた乾いた笑いは、途中で少しだけ細くなった。俺にも分かった。枝元の与太話は与太話のままなのに、使っている語だけが妙に今の店へ馴染んでしまっている。粘膜。毒。証拠隠滅。放置。手遅れ。軽口のくせに、言葉の先だけが、嫌なところへ触れてくる。

    事務所の方から、かすかに金属が触れ合う音がした。

    ジャラ、ジャラ、と落ち着きなく擦れ合う小銭の音だ。

    同時に、壁一枚向こうで誰かが浅く呼吸している。短く吸って、うまく吐けていない。香水の匂いまで聞こえそうなくらい、息が細かくささくれている。店長だ。明るい声だけを店先に置いて、奥で別の生き物みたいに削れている。

    そのタイミングを見計らったみたいに、電話が鳴った。

    甲高い音が店内へ刺さる。まばらな客の一人が顔を上げ、すぐに興味を失って棚へ戻る。枝元が「うわ」と肩をすくめ、ルミさんが小さく舌打ちした。俺のこめかみの奥では、その一音だけで鈍い疼きが起きる。

    「あ、電話。……店長、出ないんすかね。」

    「……店長は今、取り込み中だ。」

    電話がもう一度鳴る。

    その時、バックヤードの扉が開いて、根津が入ってきた。

    空気の湿度が、ほんの少し上がった気がした。

    実際に上がったわけじゃない。だがこいつが近くに来ると、いつもそう感じる。根津の心音は低くて、粘る。泥の中を何かがゆっくり這っていくような、乾ききらない音だ。仕事は正確で、受け答えは丁寧で、態度だけ見れば何も問題はない。それなのに、会話の隙間へ残る妙なぬめりだけが、どうにも拭えない。

    「……僕が出ます。」

    根津はそう言って受話器を取った。声も動きも、手順書の通りみたいに無駄がない。

    「はい、ビデオ・ガーデンです。……もしもし?……もしもし。」

    数秒。沈黙。

    ボサノバだけが細く流れて、店のどこかでケースが戻される音がした。根津は受話器を耳に当てたまま、相手の呼吸の有無でも測るみたいに動かない。やがて、静かにそれを置いた。

    「無言電話?」

    「はい。……最近多いですね。一日に何回も。」

    枝元が「うわ、キッショ」と顔をしかめ、ルミさんが事務所の方を見た。俺もつられてそっちを見る。壁の向こうの呼吸が、さっきより浅くなっていた。小銭の鳴る間隔も短い。追い詰められた人間は、手の中の金属にまで縋るのかと、どうでもいいことを思う。

    「……店長宛てかもしれませんね。借金取りとか、そういう。」

    ルミさんが「ちょっと、そういう言い方」と低く返す。枝元も笑い損ねた顔で黙った。

    根津は謝らない。言い過ぎたとも思っていない顔だった。ただ、事務所の方を一度だけ見た。

    その瞬間だった。

    根津の心音が、ほんの一拍だけ、細く高く鳴った。

    金属を爪で弾いた時みたいな、硬質な音だった。喜びと決めつけるには冷たすぎる。期待と呼ぶには湿りすぎている。だが少なくとも、ただの善意や心配の音には聞こえなかった。

    俺は眉をひそめる。

    壁一枚向こうでは、まだボサノバが流れているはずだ。だがここまで来ると、陽気な輪郭はほとんど死んで、換気扇の細い唸りと、蛍光灯のくたびれた震えに混ざった薄い残り香みたいにしか聞こえない。机の上には紙が積まれている。督促状。売上表。開封したままの封筒。角の潰れたクリアファイル。紙が紙であるだけなのに、ここにあると全部が水気を吸って重くなって見えた。

    店長はデスクに片肘をついて、額を押さえていた。

    店長は机の上の紙をひっくり返して、見なかったことにするみたいに伏せた。だが紙の上に乗った気配までは消えない。数字は見えなくても、追い立てられている人間の心臓は見えなくても分かる。

    「……なんでだよ。」

    ノックがした。

    店長の肩が跳ねる。小銭が一度、派手に鳴った。

    「……な、なんだ。」

    「根津です。」

    声だけで部屋の空気が一段冷えた気がした。乾いた冷たさじゃない。温度はそのままなのに、湿ったまま皮膚の内側へ沈み込んでくる冷え方だ。店長は返事をするまでに半拍遅れた。その半拍のあいだに、根津はノブへ手をかけたまま待っている。急かしもしない。遠慮もしない。ただ、そこにいる。

    「……入れ。」

    「失礼します。」

    ドアが開いた。根津はいつも通りだった。姿勢は真っ直ぐで、シャツの皺も少ない。目立つところは何もない。なのに、この部屋の空気だけが、こいつを入れた途端にうまく循環しなくなる。

    「どうした、根津くん。」

    「裏の駐車場、見てきました。……また、やられてます。」

    店長の呼吸が止まりかける。止まりきらずに、喉の奥で引っかかった。

    「え……?」

    「店長の車。今度はボンネットに……十円玉か何かで、線が引かれてます。」

    店長の顔色が一気に抜けた。さっきまで汗で湿っていた額が、今度は逆に乾いたみたいに見える。椅子の脚が小さく鳴る。逃げたいのに立ち上がれない人間の音だ。

    「そ、そんな……またかよ……。」

    「はい。」

    「なんで俺ばっかり……。」

    その問いに、根津はすぐ返さない。慰めもしない。否定もしない。ただ相手が次の言葉を吐くまで待つ。その待ち方が妙に正確で、マニュアルの余白まで読み込んでいるみたいで、俺は昔から少し苦手だった。

    店長は両手で顔を擦る。香水と脂汗と紙の匂いが混ざる。綺麗にしていたい人間が、綺麗なまま崩れられずにいる匂いだ。

    「警察……いや、でも……。」

    「酷いことしますね。……警察、呼びますか?でも、警察が来ると……奥さんにもバレますよね。」

    店長の心音が跳ねた。

    図星を刺された音だった。怒りでも驚きでもない。もっと情けなくて、逃げ場のない音だ。家庭。借金。督促。店の顔。全部別々に持っていたはずのものが、ひとつの傷のせいで急につながってしまう。そういう時、人間の血流は露骨に濁る。

    「だ、駄目だ。警察は駄目だ……。」

    「はい。」

    「妻に知られたら、本当に終わる……店も……家も……。」

    根津はうなずくだけだった。表情は変わらない。声の高さも同じだ。だから余計に、相手の崩れ方だけがよく見える。

    「ですよね。……わかりました。僕がコンパウンドで磨いておきます。傷が浅ければ、消えるかも知れませんから。」

    それは救いの言葉に聞こえた。

    少なくとも、店長にはそう聞こえたはずだ。実際、店長の肩はそれで少しだけ落ちた。張りつめた糸が切れたというより、もう切れていることをやっと認めたみたいな緩み方だった。

    「……すまない、根津くん。」

    「いえ。」

    「君は本当に、気が利くな……。」

    根津はまた、すぐには返さない。

    「仕事ですから。」

    「それでもだよ……。」

    店長が立ち上がりかけて、よろめいた。根津が腕を取る。手つきは丁寧だった。支え方も的確だった。だからこそ、余計な温度がないのが分かる。

    店長はそのまま、根津の手を両手で握った。

    「助かる……本当に、助かるよ……。」

    「……そうですか。」

    根津は、握られた自分の手を見下ろしていた。

    その時、根津の心音がひとつ深く鳴った。

    表から見れば、この店はまだ店の形をしている。

    だが根の方では、もう何かが始まっている。

    午後三時四十五分。カウンターへ戻ると、店の空気は相変わらず重かった。

    事務所で見た店長の顔が、まだ頭から離れない。

    握ったままの小銭。伏せた督促状。香水の匂いの下にこもっていた、脂汗と焦りの生臭さ。あの狭い部屋で起きていたことを、カウンターの明るさは何も洗い流してくれない。むしろ売り場の広さのぶんだけ、腐り方が店全体へ薄く広がっているように思える。

    枝元はレジ横のメモ帳へ、何かのタイトルを書いては消し、書いては消している。集中しているふりだ。ルミさんは爪の先で雑誌を揃えながら、さっきより少しだけ無口だった。俺の耳には、二人の音の軽さまで、妙に遠く感じられる。重いものを見た後は、軽いものまで紙みたいに薄く聞こえる時がある。

    頭痛は消えていない。こめかみの奥で、鈍い金属音みたいな痛みがずっと居座っている。電話の余韻も、店長の呼吸も、根津の湿った鼓動も、全部まだ耳の裏側に引っかかっていた。

    その時、自動ドアが開いた。

    「おはようございます。」

    花村紫音だった。

    たったそれだけで、呼吸が変わる。耳の奥で粘っていたざらつきが、少し後ろへ下がる。店内機械の唸りも、客の衣擦れも、枝元の軽い心音も、全部が急に遠のくわけじゃない。だが輪郭だけが鈍る。痛みを伴う鋭さが、彼女の周りへ寄った瞬間にだけ、ほんの少し抜け落ちる。

    「お疲れ花村ちゃん。今日も癒やし系だねぇ。」

    「あんた、すぐそういうこと言う。」

    「いいじゃないっすか。事実だし。」

    枝元の声はいつも通り軽い。ルミさんも呆れた顔をしながら、完全には止めない。二人とも、紫音の前では少しだけ声色が整う。店の中のささくれだったものが、彼女のところへ来ると自然に丸くされるみたいだった。

    「お疲れ様です。ルミさん、ネイル変えました?」「そう。よく気づいたね。」

    「綺麗です。……前の色も好きでしたけど、こっちの方がルミさんらしいです。」

    「へえ。私らしい、ね。」

    ルミさんは手元を見た。赤とも茶ともつかない、乾いた土みたいな色だった。生活感のある女の手なのに、爪先だけ妙に武装して見える色だ。紫音はそこへ余計に踏み込まない。ただ柔らかく笑って、相手へ似合うと言うだけで終える。その距離の取り方が上手すぎて、俺は逆に安心する。輪の中心へ無理に入ろうとしないから、彼女の静けさは汚れずに残る。

    ルミさんの心音が一瞬だけ、乾いたリズムを崩した。

    ほんの少しだけだ。警戒と呼ぶほど明確じゃない。本能的に耳を立てた動物の反応に近い。だがその揺れも、紫音の周りへ寄ると妙に角が取れる。ルミさん自身、うまく言葉にできていないのだと思う。ただ「綺麗すぎる」とか「静かすぎる」とか、そういう説明にならない違和感だけが、体の方に先に触れている感じだ。

    俺はその揺れを追わない。

    追うより先に、楽さの方を選んでしまう。

    紫音が近くに立っているだけで、さっきまで背骨の内側に貼りついていた不快な振動が、少しずつほどけていく。枝元の心音も、ルミさんの紙を捌く音も、店内のこもった呼気も、全部いまだけは耐えられる範囲へ下がる。

    「あの、葛城さん。何をすればいいですか?」

    「……レジの確認は後でいい。先に、返却棚の整理と、カウンター周りだけ見といてくれ。」

    「はい。」

    声が近い。

    近いのに、うるさくない。

    その事実だけで、俺のこめかみの疼きが、また一段だけ下がった。

    午後三時五十五分。紫音はカウンターの隅に置かれた観葉植物の前で、ふと足を止めた。

    パキラだった。葉の何枚かが黄色く変わっている。水はやっているはずなのに、元気のいい緑がところどころ抜けて、疲れた皮膚みたいな色をしていた。店長の趣味で置かれたものだが、最近は誰もきちんと見ていない。目に入っているのに、世話だけが後回しになっているものの顔だった。

    「……葛城さん。」

    「ん?」

    「あのパキラ、ちょっとかわいそうですね。」

    「そうか?水はやってるみたいだけどな。」

    紫音は黄色くなった葉へ、指先をそっと添えた。撫でるというより、具合をみる手つきだった。優しいのに、曖昧ではない。痛い場所を見つける手つきだ。

    「水だけじゃ駄目なんです。……土の中で、根っこが息ができなくなってると、腐っていくから。」

    その言葉が、妙に耳へ残った。

    土。根。息ができない。腐る。

    ただの植物の話だ。そう思う。そう思うのに、今日ここで聞くには、言葉の並びがよすぎた。事務所で息を詰めていた店長のことや、紙の下で見ないふりをされていたものや、この店の奥にこもった澱みまで、勝手に引っかかってくる。

    「『根腐れ』です。……表面は立派に見えても、見えないところから崩れていく。 一度腐った根は、もう再生しません。」

    紫音の声は静かだった。

    「……厄介だな。」

    「はい。……だから、腐った部分は切り落として、新しい土に変えてあげないと。……植物全体が死んでしまいます。」

    切り落とす。

    新しい土に変える。

    俺はパキラを見る。黄色く変色した葉。生きているつもりで立っている幹。見えない下で、もう傷んでいるかもしれない根。そこへ水だけを与え続けて、まだ平気だと思い込んでいる感じ。

    店長の顔が重なった。

    この店の顔まで重なった。

    だが、その重なり方の中心に紫音への疑いはない。そこは妙にはっきりしている。彼女はただ、悪くなっているものを悪いと見抜けるだけだ。俺の頭痛が引くのも事実だし、彼女の静けさがこの店のどの音より救いになるのも事実だった。

    だから俺は、それ以上考えない。

    考えるより先に、彼女のそばに立つ方を選ぶ。

    午後三時五十五分を少し過ぎたころ、店の中は妙に静かだった。

    花村紫音が、まだカウンターの中にいるからだ。

    彼女の周りだけ、音が丸くなる。消えるわけじゃない。ただ耳へ届くまでに、角を一つずつ落としてくれるみたいに柔らかくなる。店内機械のくぐもった唸りも、客の衣擦れも、枝元が喉の奥で堪えきれずに漏らす小さな鼻歌も、今は耐えられる。さっきまで背中に居座っていた頭痛も、だいぶ後ろへ退いていた。

    その代わり、店の澱みだけは消えない。

    事務所にあった紙の山。机の上の督促状。店長の小銭を鳴らす癖。浅く擦れる呼吸。そういうものだけが、売り場の明るさへ溶けずに、見えない膜みたいに店全体へ貼りついている。表へ出ている音が減るほど、深いところで傷んでいる気配の方が、かえってよく分かった。

    パキラの葉は、相変わらず黄色いままだった。

    紫音の言った「根腐れ」という言葉が、まだ耳の奥に残っている。表面は立派でも、見えないところから崩れていく。再生しない。切り落として、新しい土に変えるしかない。全部、植物の話だ。植物の話のはずなのに、この店のどこを見ても、うまく他人事になってくれなかった。

    その時、バックヤードの扉が開いた。

    空気が一拍だけ重くなる。

    根津だった。足音は小さい。姿勢もいつも通りで、表情も変わらない。それなのに、こいつが近くへ来ると、会話が始まる前からどこかの隙間だけが冷える。湿った手順書が一枚、人の輪の中へ差し込まれるみたいな感じだ。

    「……車の傷、なんとか目立たなくしました。」

    「そうか。ご苦労。」

    俺が返すと、根津は短く頭を下げた。その手にはまだ汚れが残っていた。コンパウンドの白っぽい粉と、何かを強く擦ったあとの鈍いくすみが、指の節に入り込んでいる。綺麗にしたはずなのに、綺麗にした痕跡がいちばん汚く残る。そういう手だった。

    紫音がその手に気づいた。

    「お疲れ様です、根津さん。……手、汚れてますよ。」

    「あ、はい。……すみません。」

    根津は自分の手を見た。言われて初めて気づいたふうに。あるいは気づいていて、指摘されるまでそのままにしていたふうにも見える。どちらとも取れる曖昧さが、こいつにはよく似合う。

    紫音は責めない。注意する声ですらない。清潔なものを清潔なまま扱おうとする人間の、ただそれだけの声だ。

    「きれいに洗ってくださいね。……汚れは、残ると厄介ですから。」

    その言い方が、妙に耳へ残った。

    優しい。少なくとも俺にはそう聞こえる。店の備品を扱うみたいに、人の手までちゃんと見て、あとに残るものを気にしている。その細やかさが、今の俺にはありがたい。ありがたいはずなのに、「残る」という語だけが、今日一日の音へきれいに重なってしまう。

    車の傷。机の上の紙。パキラの黄変。店長の呼吸。見えないところで進んでいる何か。

    紫音はそこへ余計な意味を足さない。足さないまま、ただ正しいことだけを言う。それが余計に耳へ残る。

    根津は「はい」と小さく返した。短い返事だった。その瞬間、二人の間に、言葉より薄い何かが通った気がした。

    追えば何か掴めるのかもしれない。

    でも、その考えは長続きしない。紫音の近くにいると、そういう引っかかりが、頭痛と一緒に少しずつほどけてしまう。違和感より先に楽さが来る。疑問より先に、静かでいてほしいと思ってしまう。

    俺は根津から視線を外して、紫音のそばの空気へ意識を戻した。やっぱり静かだ。静かで、呼吸がしやすい。ここだけが店の中で別の水質を保っているみたいだった。

    パキラの葉はまだ傷んでいる。店長の破綻も、事務所の奥で止まってはいない。車の傷を一つ磨いたところで、この店の深いところまで綺麗になるわけじゃない。むしろ表面だけ整えたぶん、根の方で進んでいる傷みが余計に見えにくくなった気さえする。

    この店も、店長も、もう手遅れなのかもしれない。

    そう思う。

    その時、店内の電話が鳴った。

    高い音が、ボサノバの上を細く裂いていく。

    誰もすぐには動かない。

    客は棚の前で足を止めただけで、また視線を戻す。枝元は何か言いかけて、やめた。ルミさんは雑誌の端を揃えたまま、事務所の方を見もしない。根津は手を洗いに行くべきか、電話を取るべきかを一瞬だけ測るように立ち止まり、結局まだ動かなかった。紫音は静かにそこにいる。俺は鳴り続ける音を聞きながら、そのすぐ隣の静けさへ寄る。

    電話だけが、いつまでも鳴っていた。



     
     
    「なさそうで、ありそうで、なさそう。」 カナモノユウキです。 短編・幻想・朗読台本など書いています。 物語が好きな人、声で演じることが好きな人に届いたら嬉しいです。

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