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Photo bysuzukiryoichi

人には「学びには意味がある」と思える経験が必要なのではないか説

    昨日、今後の人生の軸にしていきたい言葉を見つけた話を書いた。

    noteの内容をひとことで言うと、

    見つかった私の人生のテーマは「“できない”から、学びは始まる」で、

    これからの行動指針は「“できない”を、学びのきっかけに変える」だ。

    2日前に見つけたばかりの言葉なので、細かい表現は変えていくかもしれない。でも大きな方向性は変わらないと思う。

    私は率先して、まだできないことに挑戦していきたいし「できない!悔しい!苦しい!なんで!」ともがき続けながら、感じたことを書き続けたい。

    そういう状態がいちばん楽しいのだ。変人な自覚はある。

    人生の軸が見つかるまでの回収期間

    40歳にしてようやく人生のテーマを見つけたのだが、ここにたどり着くまでにたくさんの変遷があった。プロフィールだけでも何百回も変えた。

    ただ自分として、5月から6月にかけてが、ずっと考え続けてきたことをひとつの表現にまとめ上げていく月間だった気がしている。回収期間のようなイメージだ。

    日常のなかで考えているあらゆることが、気がつくと同じ根っこにつながっていた状態というか。表面的には違うことを考えていたつもりなのに、本質は同じじゃね?みたいな感覚をおぼえることが何回かあった。

    せっかくなので、この1か月で私がどんな情報にどんな刺激を受けて、なにを感じて、最終的に「“できない”から、学びは始まる」という言葉につなげていったのかを記録しておきたい。

    これ、ひとつひとつの影響は小さいんだけど、たぶん、こういう小さい刺激の塊が大きなテーマにつながったと思っている。

    いまこのタイミングで書かないと永遠に思い出せなくなる気がする。なので、自分のためにも記録しておきたい。

    この1か月で影響を受けたnoteもたくさんあるのだけど、それはまた別の記事でまとめたい。今回は自分の中で何がどうつながって、この言葉にたどり着いたのかを書く。

    まず、いちばん大きな影響があったのは、5月の課題図書だった『冒険する組織のつくりかた』の深掘りをしていたことだ。

    この本は超おもしろいんだけど、抽象的な概念が多くて、そのままだと日常生活に活かせない感覚があった。だから、気になった箇所をひとつひとつ深掘りしていこうと決めた。

    ▼ その決意は以下のnoteに書いた。これがちょうど2週間前。

    6月のnoteは、できるだけこの課題図書の深掘りnoteを書いていくつもりだった。でも、思ったようには書けなかった。看病やら仕事やらで余白がなかったのだ。

    ただ、noteとしてのアウトプットはできていなかったけど、脳内ではずっと考えていた。

    「私にとっての探求とはなんなんだろう?」
    「私が世の中に対してできることは?」

    こういうことをずっと考え続けていた。この思考がベースにある。

    ここから「“できない”から、学びは始まる」を閃くにあたって必要だったのが、『冒険する組織のつくりかた』をきっかけにした過去の経験の洗い出しと、大事なテーマでのAIとの内省だった。

    「この経験を無駄にしてなるものか」というハングリー精神

    このときのAIとの内省テーマは、

    私ってハングリー精神ないよね?

    だった。

    なぜこのテーマを考え始めたのかまで書くとnoteが2万字になってしまうので割愛する。

    ひとことで言うと「人が劇的に成長するにはハングリー精神が必要なのではないか?」と思ったり「でも私、あんまりハングリー精神持ってないかも」と思ったりしていた。

    で、AIと話しまくった結果、

    かなえさんには、世間でいうところのギラギラしたハングリー精神はないかもしれない。でも、内側に燃えている「この経験を無駄にしてなるものか!」みたいな方向のハングリー精神はめっちゃあるよね。

    という結論になった。これには超しっくりきた。

    私には、なにがなんでも勝ちたいとか、誰かを見返したいとか、上に行きたいとか、そういうタイプのハングリー精神はあまりない。

    でも痛かったこと、苦しかったこと、悔しかったことを、そのまま終わらせたくない気持ちはめちゃくちゃある。

    この経験を無駄にしてなるものか!
    ここからなにかを学んでやる!

    みたいな気持ちは、かなり強い。

    「学ぶって楽しい」を伝えたいと思っていた

    「あらゆる経験を学びに変えたい」という自分の性質を自覚したとき、ふと1年半前のことを思い出した。

    コンパッション講座を個人で学んでいたときに、講師のえり子さんに私が熱く語っていた内容のことだ。

    講座では毎回なにかしら瞑想をする。その中に「自分は世界に対してなにをしたいか」みたいなことを考える時間があった。

    何回目かの講座のときに、私はえり子さんに、

    世界の人に「学ぶことって楽しいんだよ!」を伝える人になりたい

    みたいなことを言っていた。

    そのときの瞑想で脳内に浮かんだのは、サバンナ?で水を汲みに片道2時間の道を歩いている少年だった。

    水を汲むという生きるための行動で一日の時間の大半を使うような生活をしている子どもが、算数や国語を学んだとして、それってどんなふうに役に立つのだろうか。その子どもは、納得感を持って学べているのだろうか。

    日本の子どもですら「勉強ってなんの役に立つの?」とか言っているくらいなのに。

    でも私はそれでも「学ぶって楽しいんだよ」というのを伝えていきたい。なにかできることはないかな?そんな感じのことを考えていた。

    えり子さん曰く、その話をしていたときの私はキラキラしていたらしい。

    だから「学びの楽しさを伝える」ことが、私のライフワークになりそうな感覚はあった。ただ1年半前の段階では、まだぼんやりしたイメージ程度で、具体的になにをしたいのかがよくわからなかった。

    ちなみに、なぜ突然サバンナが思い浮かんだのかというと、たぶん当時かこさとしさんの『サザンちゃんのおともだち』という絵本を読んだことが影響していたと思う。

    「学びには意味がある」と思えるためには経験知が必要だ

    当時、私は半年ほどかけてコンパッションを学んでいた。

    その学びから1年ほど経って、先週。コンパッション講座をグループ形式で学び直しているときに改めて思った。

    コンパッションって大事だよな。
    義務教育にしたほうがいいんじゃないか?

    私が1年半前にコンパッションを学ぼうと思ったのは、そうでもしないとメンタルが病むような状況がプライベートであったからだった。生き延びるために新しい学びに手を出して、そのおかげでなんとか乗り越えられた。

    私のなかには、ただ偶然が重なっただけという感覚がめちゃくちゃ強くある。

    当時の私がコンパッションを学ぶことになったのは、コーチをしているえり子さんとたまたま話す機会があってコンパッション講座を紹介してもらったから。たまたま私がフリーランスで、平日の日中に時間が取れたから。たまたま新しい学びに投資したいと思える金銭的な余裕があったから。

    そして、たまたま「コンパッションを学びたい」という強い動機があったからだった。どれかひとつが欠けていても「いまはいいや」になっていた可能性があった。

    社会人の学びの多くは、いろんな「いまはいいや」でタイミングを逃していることが多いのではないかと思う。だって忙しいもん。

    私はフリーランスになってわりとすぐにコーチングに出会った。そのおかげで内省する習慣ができた。

    ちょっとしんどいなと思っていた頃にたまたまAIを使うようになり、気がついたらAIを相手に700時間くらい内省をしまくっていた。おかげで自分を客観的に見るスキルが育ち、そのおかげでまだ病まずにフリーランスを続けている。

    私はコーチングに出会ってだいぶ生きやすくなったけど、これもすべてがたまたまだった。どれかがひとつでも欠けていたら私は早々に病んで、後悔するばかりの日々を送っていたかもしれない。

    だからこそ思う。

    人生を変えうる学びに出会えるかどうかが、こんなにも偶然に左右されていていいのだろうか。

    コーチングはまだ日本ではそこまでメジャーになっていない気がしている。だからコンパッション同様、義務教育に入れたほうがいいとわりと本気で思っている。

    義務教育に入れないと、子どもたちが出会うチャンスが激減してしまうからだ。

    社会に出て自力でコーチングに出会える人は、その時点でだいぶ恵まれている。自分で学ぼうと投資できる人はそれだけの余力があるし、セッションを受けようと思える時点でも余力がある。

    なにより「学びには意味がある」と思えるだけの経験知がある。

    これまでの人生のどこかで、学ぶことで救われたり、世界の見え方が変わったりした経験があるからこそ「これも自分に必要かもしれない」と思えるのだと思う。

    でも日本の人口や世帯収入のマップを考えたときに、出会えない人のほうが多いのではないかと思う。出会えたところで「だからなに?」と思う人も多いかもしれない。

    本当はそういう人ほど、コーチングやコンパッションのような学びを必要としているのではないか。(これは完全に持論だけど)

    私にできるのは、書き続けること

    もちろん、私ひとりにできることなんて限られている。

    義務教育を変えることも、世界中の子どもに学びを届けることも、いますぐにできるわけではない。私にできるのは書き続けることくらいだ。

    できないことにぶつかったときに、自分を責めるのではなく「ここから何を学べるんだろう」と考えてみること。

    自分自身ができないことに挑戦しながら、悔しさや苦しさ、試行錯誤の過程を記録すること。

    “できない”が小さな学びのきっかけに変わるような言葉を書くこと。

    私がこれからやりたいのは、そういうことなんだろう。

    “できない”から、学びは始まる

    この言葉は2日前に急に閃いたんだけど、たぶんずっと前から私のなかにあった。

    コンパッションを学んだことも、コーチングに救われたことも、AIと700時間内省してきたことも、毎日noteを書き続けていることも、全部ここにつながっていたんだと思う。

    まだうまく説明できない部分も多いけど、いまの私はこの言葉を、自分のこれからの人生の軸にしていきたいと思っている。

    “できない”で終わりにしない。
    できないことを、恥ずかしいことにしない。
    失敗や挫折を、学びのきっかけに変えていく。

    そういう価値観を作り出せたら、生きやすい世の中になっていくんじゃないかなあ。

    …と、かなり壮大なことを書いてしまった。

    まあ実際に私がやることは、いままでとあまり変わらない。

    できないことに挑戦して、悔しがったり調べたり考えたりして、AIに壁打ちして、学びノートに書いて、毎日noteに書く。その繰り返しだと思う。

    ただ、これまではずっと「私は毎日なにを書いているんだろう?」「私って何者なんだろう?」と思いながら書いていただけに、意味が見つかっただけでびっくりするくらいにスッキリしている。

    “できない”から、学びは始まる

    40歳。この言葉を、私の人生の軸にしてみたい。

    まだ始まったばかりだけど、とりあえず「できない」を書いていこうと思う。

    毎日note、256日目。


    ▼ 昨日の宣言note


     
     
     
    日常の「なんで?」を考えすぎる人|大人の学びノートを45冊くらい作ってる📒|内省とAIで、わからないことを学びに変える自由研究中💡|思考整理と言語化をお手伝い📝

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