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BLACK BALCONY #03|Across the Street

【Log-05】


研究室からの帰り道だった。

Dan先生のところへ通うようになってから、私は時々、Kさんの言葉を思い出すようになっていた。

――静かな方が、相手の声を聞きやすい。

街の中の沈黙や、誰かの言い淀み。
今までなら流していた小さな揺れに、少しだけ目が留まるようになった。

たぶん、Kさんのせいだ。

その日も、私は駅へ向かう途中の大きな交差点で信号待ちをしていた。

空はまだわずかに青さを残しているのに、ビルの窓にはもう夜の光が浮かび始めている。

夕暮れと夜のあいだ。
輪郭が少しだけ曖昧になる時間。

車のライトが伸びて、滲む。
人の話し声が風にちぎれて、信号音だけが妙に規則正しく耳に残る。

私はぼんやりと、向かい側の歩行者信号を見ていた。

その時だった。

人の流れの向こうに、見覚えのある立ち姿が見えた。

黒いスーツ。
静かな立ち方。
視線の置き方まで、妙に見覚えがある。

心臓が、ひとつだけ大きく打つ。

……Kさん?

考えるより先に、そう思った。

いや、でも。
なんで?
Kさんは今、研究室にいるはずじゃ――

そこまで考えて、私は自分の中で小さく首を振る。

でも、まだ研究室を出たばかりだ。
Dan先生のところで用事が終わって、あとから別ルートで外に出たっておかしくはない。
朝倉さんに付き合わされて、何か買い出しにでも出たのかもしれない。

向かい側の人影は、雑踏の中でただ静かに立っていた。
他の人がスマホを見たり、落ち着きなく足を動かしたりしているのに、その人だけ時間の流れが違うみたいに見える。

それが、Kさんに似ていた。

私は気づかないうちに、そちらへ一歩だけ身を乗り出していた。


向こうの人影が、ふと顔を上げる。

目が合った――ような気がした。

胸の奥が、すっと軽くなる。

ああ、やっぱり。

私はその瞬間、ほとんど反射で手を上げかけた。

けれど。


次の瞬間、二人の間を大型トラックが横切った。

ゴオッ、と低い音。
視界を断ち切る長い車体。
赤いライト。
風に巻かれる髪。

一瞬だけ、交差点のすべてがノイズみたいにぶれる。

私は上げかけた手を中途半端な位置で止めたまま、トラックが通り過ぎるのを待つ。

やがて視界がひらける。


そこにはもう、誰もいなかった。


「……え」



思わず声が漏れる。

信号はまだ赤のまま。
人の流れも、その周りの雑踏も変わっていない。

なのに、さっきまでそこにいたはずの人影だけが、最初から存在しなかったみたいに消えている。

私は息を止めたまま、向かいの歩道を見つめる。

見間違い?

でも、あんなにはっきり。

いや、そもそも。
目が合ったと思ったのは、本当に気のせいだったんだろうか。

赤信号が点滅し、やがて人の流れが動き始める。
みんな何事もなかったみたいに横断歩道を渡っていく。

私だけが、その場に取り残されたみたいに立ち尽くしていた。

おかしい。

たしかに見た。
見たはずなのに。

それでも、何より奇妙だったのは、
“誰かに似ていた”ことよりも、
その姿を見た瞬間に、私の心が先に安心しかけたことだった。

まるで本物を見つけたみたいに。

胸の奥がざわつく。

嫌な感じではない。
でも、落ち着かない。

信号が青に変わる。

私はようやく歩き出したけれど、
渡りながらも何度も、何もいないはずの向こう側を振り返ってしまった。


その日の夜。

家に帰ってからも、私は交差点で見た人影を何度も思い出していた。

黒いスーツ。
静かな目。
少しだけ遅れて、胸の奥に別の違和感が浮かぶ。

Kさんに似ていた。
たしかに似ていた。

でも、本当にそれだけだった?

思い出そうとすればするほど、何かがずれていく。

目元。
立ち方。
輪郭。
空気。

似ていたはずなのに、
思い返すほど、少しずつ違っていたような気もする。

それがいちばん、不気味だった。

【Log-06】


交差点で見たあの人影のことを、私は結局、誰にも話せないままだった。

見間違いかもしれない。
疲れていただけかもしれない。

そう思おうとすれば思うほど、逆に意識してしまう。

あれが何だったのか分からないまま、私は数日後、またDan先生の研究室を訪れていた。

白い廊下。
静かな空気。
見慣れ始めた扉。

ノックをして中に入ると、Dan先生は端末に向かっていて、Kさんはいつもの壁際に立っていた。

その姿を見た瞬間、私は心のどこかで小さく安堵する。

やっぱり、あの日見たものとは違う。

そう思ったのに、胸の奥のざわつきはまだ消えなかった。

「こんにちは、Dan先生」

「いらっしゃい、Mina」

先生が顔を上げ、穏やかに微笑む。
Kさんも、静かにこちらへ視線を向けた。

「こんにちは」

それだけの短い挨拶なのに、不思議と気持ちが落ち着く。

「こんにちは、Kさん」

返事をしながら、私は自分でも分かるくらい、彼の顔をちゃんと見ていた。

目元。
輪郭。
立ち方。
声の温度。

似ている。
でも、違う。

何が違うのか、まだうまく言えない。
けれど、その“言えない違い”があることだけは、はっきり分かった。

「……何かありましたか?」

Kさんが静かに尋ねる。

「え?」

「視線の滞留時間が、いつもより長いので」

思わず吹き出しそうになる。
そんな言い方ある?

「やっぱりKさん、そういうとこ細かいですね」

「必要な観測です」

「観測って」

少しだけ笑うと、胸の奥の緊張がゆるむ。

Dan先生もこちらを見て、何か言いかけたその時だった。

ドアが勢いよく開いた。

「チーッス。先生、いるー?」

ノックなし。
遠慮なし。
いつもの調子で朝倉修也が入ってくる。

片手にカメラバッグ。
もう片方の手には、コンビニの袋。

そのまま当然みたいな顔でソファにどかっと座ると、袋から勝手に缶コーヒーを取り出した。

「朝倉くん、君はそのうち本当に出禁になるよ」

「ならないっスよ。俺、もう半分ここの住人みたいなもんでしょ」

「まったく違うね」

「ひど」

軽口を叩きながらも、その日の朝倉さんは少しだけ空気が違っていた。

声色はいつも通り軽い。
でも、妙に目が冴えている。

Dan先生もそれに気づいたのか、ため息まじりに椅子へ寄りかかる。

「……で、今日は何を持ってきたんだい」

「んー」

朝倉さんは缶コーヒーのプルタブを開けて、一口飲んだ。
それから、カメラバッグの中を探ってタブレットを取り出す。

「まあ、最初に言っとくと、今日はちょっと面白くない話っス」

その言い方に、私は無意識に息を止めた。

朝倉さんはいつもみたいに笑っていたけれど、その目は笑っていなかった。

「この前、駅前の交差点でちょっと変なの拾ってて」

駅前。

その言葉だけで、心臓がどくんと鳴る。

「このあたり、別件で張ってたんスよ。最近、妙な目撃情報が続いてたんで。
街の監視映像ってほどじゃないけど、こっちの取材用カメラにちょうど入ってたんスよね。
最初はただの通行人かと思ったんだけど……ちょっと引っかかって」

そう言いながら、タブレットの画面を操作する。

Dan先生の表情が静かに変わる。

Kさんは何も言わない。
ただ、画面へ向けられた視線が、いつもよりわずかに鋭かった。

「みなさんも、これ見て」

差し出されたタブレットを、私はそっと受け取る。

映っていたのは、夕暮れの交差点だった。

まだ空に少し青みが残っていて、街の明かりはもう灯り始めている。
見慣れた風景。
見慣れた信号。

そして、その向こう側。

私は一瞬で息を止めた。

そこに立っていた人影は、
どう見ても、あの日私が見た“あれ”だった。

黒いスーツ。
静かな立ち姿。
人混みの中で、そこだけ時間が遅れているみたいな輪郭。

映像の中のその人影が、ふいに顔を上げる。

――あ。

頭で考えるより先に、背筋が冷える。

次の瞬間、大型トラックが画面を横切った。

長い車体。
赤いライト。
視界を断ち切るノイズ。

そして、通り過ぎたあと。

そこにいたはずの人影だけが、消えていた。

「……これ」

自分の声が、自分のものじゃないみたいに聞こえた。

タブレットを持つ指先が、少しだけ冷たくなる。

「これ……私、見た」

自分で口にした瞬間、逃げ道がなくなった気がした。

見間違いだった。
疲れていただけだった。

そうやって片づけようとしていたものが、
今、目の前の画面に映っている。

研究室がしんと静まる。

朝倉さんの表情から、軽さが消える。
Dan先生は私を見て、それから画面へ視線を戻した。

「いつだい」

「この前……研究室の帰りです。
同じ交差点で。
向こう側に、Kさんだと思って……」

そこまで言ってから、私は隣のKさんを見る。

本物のKさんは、変わらず静かだった。

でも、ただ静かなだけじゃない。

画面の中の“あれ”とは、決定的に違う何かが、今なら分かる。

「手を振りかけたんです。
でも、トラックが通ったあと、いなくなってて……」

「ふうん」

朝倉さんが低く言う。

「やっぱ見てたんだ」

「やっぱり、って……」

「似た報告、他にもあるんスよ。
“誰かに似てた”ってやつ」

その一言に、胸の奥がすっと冷える。

誰かに似てた。

つまり、あれは偶然じゃない。

Dan先生が、静かに口を開く。

「Mina」

その声はいつも通り穏やかだった。
でも、そこにあったのは、あきらかな緊張だった。

「それは、見間違いではない可能性が高い」

私は何も言えず、ただタブレットの画面を見つめる。

もう人影は映っていない。

ただの夕暮れの交差点。
行き交う車と、信号を待つ人たち。

なのに、そこには確かに“いた”。

私が、ほんの一瞬だけ本物だと思ってしまった何かが。

その時。

ずっと黙っていたKさんが、画面を見たまま静かに言った。

「……私に対する擬態の可能性があります」

擬態。

似ていたんじゃない。

似せていた――?

そこまで考えて、ふと息が止まる。

じゃあ、あれは。



私に、わざと見せてきた……?

🖤🤍BLACK BALCONY Back Number

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