BLACK BALCONY #02|Between the Silences

【Log-03】
K-1119Mは、私の戸惑いを急かすこともなく、ただ静かにそこに立っていた。
白い壁際。
整いすぎているくらい整った黒いスーツ。
少しの無駄もない立ち姿。
こちらを見ている。
それなのに、その視線は人のものより少しだけ静かすぎる。
まるで彼の周りだけ、時間の流れ方が違うみたいだった。
それでも不思議と、目を逸らしたいとは思わなかった。
むしろ逆だ。
この静かな目が、何を見ているのか気になってしまう。
「紹介が遅れたね」
Dan先生が、私たちの間をつなぐように口を開いた。
「彼女は望月みな。学生時代、私の研究室に顔を出していたんだ」
K-1119Mは、私の名前を確かめるように、静かにこちらを見る。
「望月みなさん」
「……はい」
自分の名前を呼ばれただけなのに、なぜか少しだけ緊張した。
「君を呼んだのはね、Mina。彼に会ってもらいたかったからだ」
Dan先生の穏やかな声が、研究室の空気をゆっくり整えていく。
「技術的な安定は、ある程度確保できている。でも、それだけでは足りない部分があるんだよ」
「足りない……?」
「うん。彼らには、人間の揺らぎを知る相手が必要なんだ」
私はその言葉を、すぐには飲み込めなかった。
揺らぎ。
たぶんそれは、はっきり答えの出ない気持ちとか、迷いとか、言葉にならない違和感とか、そういうもののことなんだろう。
正しく答えることと、届くことは違う。
Dan先生は、たぶんそういう話をしている。
「……でも、私でいいんですか?」
思わずそう聞くと、先生は少しだけ笑った。
「あの頃の君は、分からないことを分からないままにしなかっただろう」
「それは……英語についていけなさすぎて、先生の研究室に逃げ込んでただけです」
「それでもだよ」
Dan先生はやわらかく言う。
「分からないときに、分からないまま投げ出さなかった。怖くても、ちゃんと向き合おうとした。私は、そういうところを信頼しているんだ」
そんなふうに言われると、ちょっとだけ照れる。
でも同時に、胸の奥に小さく灯るものもあった。
信頼、か。
私はもう一度、K-1119Mの方を見た。
彼は相変わらず静かだった。
ただ、さっきからずっと、私が話すたびにほんのわずかに視線の置き方が変わる。
観察している、というよりは、こちらの言葉をちゃんと受け取ろうとしているみたいな動きだった。
その感じが、妙に人間くさく見える。
「……ひとつ、聞いてもいいですか」
私がそう言うと、K-1119Mはすぐにうなずいた。
「はい」
短い返事。
無駄がない。
でも冷たくはない。
「あなたは、どうしてそんなに静かなんですか?」
自分で言ってから、変なことを聞いた気がした。
もっと他に聞くこと、いくらでもあるのに。
けれどK-1119Mは、困った様子も笑った様子も見せずに、そのまま答える。
「静かな方が、相手の声を聞きやすいからです」
私は思わず瞬きをした。
模範解答みたいだ。
なのに、思っていたよりずっと、やわらかく聞こえる。
「……聞きやすい?」
「人は、言葉にしていることだけを話しているわけではありません」
その声は淡々としていた。
でも、どこか慎重でもあった。
「沈黙の長さや、呼吸の乱れ、視線の揺れにも意味があります。私は、それを取りこぼさないようにしたい」
研究室が、ほんの少しだけ静かになる。
朝倉さんですら、その瞬間だけはクッキーを食べる手を止めていた。
私は何を返せばいいのか分からなくなって、ただK-1119Mを見つめる。
人ではない。
でも今の言葉は、どこかでちゃんと“私たちの側”を見ていた気がした。
「……なんか」
気づけば、ぽつりと声がこぼれていた。
「思ってたより、ちゃんと話せるんですね」
「はい。そうあるべきだと設計されています」
その返答に、横から朝倉さんが吹き出す。
「そこでちょっと機械っぽく戻るんだ」
「朝倉くん」
Dan先生がたしなめるように名前を呼ぶと、朝倉さんは肩をすくめた。
「いや、でも大事でしょ。みなさんが安心すんのも分かるし」
「安心……」
その言葉を自分の中で転がしてみる。
たしかに、怖くはなかった。
驚いてはいる。
戸惑ってもいる。
でもそれ以上に、ちゃんと話してみたいと思っている自分がいた。
K-1119Mは、そんな私を急かすこともなく、ただ静かにこちらの次の言葉を待っている。
その間が、不思議なくらい心地よかった。
「……じゃあ、これからよろしくお願いします。Kさん」
“さん付け”でいいのか一瞬迷ったけれど、他に呼び方も浮かばなかった。
K-1119Mは、ほんのわずかにうなずく。
「はい。よろしくお願いします」
それが、私が彼を“Kさん”と呼んだ、最初の日だった。


【Log-04】
最初の一週間は、正直、まだちょっと落ち着かなかった。
研究室に行けばDan先生がいて、
朝倉さんが勝手にお菓子を開けていて、
そして白い壁際には、相変わらず整った黒いスーツ姿のKさんがいる。
Dan先生に頼まれたことは、思っていたより単純だった。
Kさんと話し、そこで感じたことを、できるだけそのまま伝える。
まずは、それだけでいいらしい。
二回、三回と足を運ぶうちに、その光景は少しずつ“知らないもの”ではなくなっていった。
三度目に研究室へ行った時、私はコンビニで買ったコーヒーを二本持っていた。
片方は自分用。
もう片方は、なんとなくDan先生にでも渡そうと思って買ったものだった。
けれど研究室に入って、いつものように先生と朝倉さんがいて、その少し奥にKさんの姿を見つけた瞬間、私は迷わずそちらにも一本差し出しかけていた。

「あ」
手が止まる。
Kさんは静かにこちらを見た。
私はコーヒーを持ったまま、妙に気まずくなる。
「……ごめんなさい。Kさん、飲まないですよね」
「はい。必要ありません」
やっぱり。
そうだよね、と思ったのに、なぜか少しだけ残念だった。
するとKさんは私の手元の缶を見て、ほんの少しだけ首を傾けた。
「ですが、それは温度が適切です」
「え?」
「外気温とあなたの手の冷え方を考えると、今は温かい飲み物の方が良いと思われます」
一瞬、言葉が止まる。
それってつまり。
飲まない代わりに、私のことを見てたってこと?
「……ありがとうございます」
変なの。
変なのに、ちょっとだけうれしい。
「K、そういうとこ妙に細かいんスよ」
横を見ると、朝倉さんがクッキーをくわえたまま笑っていた。
「朝倉くんは、もう少し静かに見守れないのかい」
「先生、俺わりと見守ってる方ですって」
Dan先生の言葉に、私は吹き出してしまった。
いつの間にか、この少し変わった研究室の空気に、私も馴染み始めていた。
研究室には、静かな時間も多かった。
機械の低い作動音。
紙をめくる音。
キーボードを打つ音。
そこに時々、Dan先生の穏やかな声と、朝倉さんの軽い調子が混じる。
質問したいことがうまくまとまらず、言葉に詰まっても、誰も急かさなかった。
そんな沈黙の中で、私は少しずつ考えられるようになっていた。
――静かな方が、相手の声を聞きやすいからです。
あの時は模範解答のように聞こえた言葉が、今は少しだけ分かる気がする。
「そういや、みなさん」
朝倉さんが、ふいにこちらを見た。
「“Kさん”って呼び方、すっかり定着したよね」
「いいでしょ、別に」
「いや、いいっスよ。型番にさん付けする人、俺初めて見たから」
ニヤニヤしている。
「なんか、みなさんらしいし」
Dan先生も、珍しく口元をゆるめる。
「私は悪くない呼び方だと思うよ」
「ほら」
なぜか勝ち誇った私の向こうで、Kさんが静かにこちらを見ていた。
「Kさん自身はどうなんですか?」
私が尋ねると、彼は少しだけ視線を落としてから答えた。
「呼称に問題はありません」
「問題はないんだ」
「はい。あなたがそう呼ぶことを、私は受け入れています」
その言葉は相変わらず少しだけ機械的だった。
私は変に照れてしまって、意味もなく手元の資料に目を落とす。
その時だった。
ふいに、Kさんの声が静かに続く。
「……ですが」
「え?」
「“Kさん”という呼び方は、少し新鮮です」
私は顔を上げる。
Kさんは、ほんのわずかに目元の空気をゆるめていた。
それが笑顔なのかどうか、まだ私には分からない。
でも、たぶん今。
少しだけ近づけたのだと思った。
ただ、その時の私はまだ知らなかった。
私がKさんとの距離を少しずつ縮めていた、そのすぐそばで。
別の何かもまた、私との距離を縮め始めていたことを。

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