
「男らしさ」は復活するか
差別語?
「男らしさ」というのは、いま使っていい言葉なのでしょうか?
いきなり不安ですけどね。
新聞なんかで、この言葉を使うと、校閲からチェックされそうですね。
そんな性差別的な言葉を使うのはやめてください、と。
「男らしさ」という言葉が追放されたのは、フェミニズムや「ジェンダー中立」思想のせいだと思われるかもしれなけど、必ずしもそうではない。
私の記憶では、1960年代半ばくらいから、「男らしい」という言葉が使いづらくなりました。
鮮明に覚えているのは、私が小学校の頃。1960年代半ばです。
「色を分類してみなさい」みたいな授業があって、たぶん暖色系と寒色系とかに分ければ良かったんでしょうが、私は「男の色」と「女の色」に分類したんです。
そしたら、
「男の色とか、女の色とか、決めつけるのはよくない」
と女の先生にたしなめられたんですね。
だって、男の子は黒のランドセル、女の子は赤のランドセルと決まっていた時代のことですよ。
子供が、男の色と女の色に画然と分かれている、と思って当然なのですが。
でも、その小学校の先生は、それが「思想的に間違っている」と教えたわけですね。
私は、「なるほどそうだ。色に性別はない」と納得したのでした。
実際、1960年代半ばから、男が女のように髪を伸ばし、女のような服を着て、「女のような色」を好むようになる。
これを「ピーコック革命」と言いました。
「ピーコック革命」とは、1967年に提唱された、男性の服装に色彩を取り入れることを奨励した男性ファッションの革命です。従来のダークトーン中心から、雄のクジャクが雌よりも華やかな色彩を持つことから、男性も鮮やかな色で装うことを提唱しました。この運動は、ワイシャツがピンクやクリーム色になるなど、メンズファッションのカラフル化を促しました。
(googleのAI)
私の記憶では、その頃から、「男らしさ」という言葉は使いづらくなった。
それは、いわゆるフェミニズムとかジェンダー論とかが流行る前のことです。
でも、考え方の底に流れるものは同じですね。
1950年代までは、「男らしい」という言葉はよく使われていました。
たとえば、私が研究している火野葦平なんかは、「男らしさ」を追求した作家でした。
昨日の記事を書くために読んだ資料の中にも、こんな一文がありました。
暴力世界に投げこまれながら、頑強に、父はバーバリズムとたたかって、庶民の仕事師として生き抜き、素朴ではあるが、富や権力におもねらない正義感を抱いて、一生を終ったのである。花やかではなかったけれども、男らしい生涯であったと思う。
(火野葦平「花と竜」解説 1958)
考えてみれば、私が好きで「研究」している人たち、徳富蘇峰、火野葦平、三島由紀夫は、みんな「男らしさ」にこだわった人でした。
彼らはみな右翼的でしたが、「男らしくない」平和主義者の昭和天皇に、共通して違和感を持っていました。
私は右翼ではないけれど、彼らの「男らしさ」へのこだわりに、共感しているところがあります。
プラトンの「男らしさ」
男らしさとは何か、を議論する時、必ずと言っていいほど引き合いに出されるのは、ハーバード大の政治学教授だったハーヴェイ・マンスフィールドの本『男らしさ Manliness』(2006)です。

有名な本ですが、いかなる陰謀か、日本では翻訳出版されていないようです。
私は原書を読んでいるので、まずその内容をチャチャッと紹介しましょう。
プラトンは、「魂の三分説」で、人間は以下の三つで成り立っていると論じました。
・理性
・欲(性欲、食欲等)
・テュモス
この「テュモス」(Thumos)が、「男らしさ」の本質だ、とマンスフィールドは論じるわけですね。
当然、それは、生物学的な男に限定されたものではありません。女にも「テュモス」はある。
「テュモス」は、日本語では、「気概」とか「元気」とか訳されているようです。
つまり、プラトンによれば、人間は、「理性」と「欲」と「男らしさ(テュモス)」で成り立っている。
マンスフィールドは、この「男らしさ(テュモス)」を、「危機における自信 confidence in a situation of risk」と定義しています。
さらに言えば、「男らしさ」とは、
前に出て、何かのために立ち上がり、何かを問題視する come forth, stand up for something, and make an issue of it
ーーように、人々を駆り立てるものです。
「男らしさ」は、善いものにも、悪いものにもなり得ます。
男らしさは、弱者を守る高潔な行動の源泉(肯定的な男らしさ)になることもあれば、下品な攻撃性、野心、戦争への愛(否定的な男らしさ)につながることもあります。
SNS時代によく言われる「承認欲求」も、これに結びつけられます。
マンスフィールド自身が挙げている例では、9・11で、罪のない人々の命を道連れにしたテロリストたちの行動は「否定的な男らしさ」ですが、崩壊寸前のワールドトレードセンターに飛び込んで救助活動をおこなった消防士たちの行動は「肯定的な男らしさ」でした。
プラトンが指摘した、この人間性の一角「テュモス」が、西洋中世では、騎士道のような文化として花開くようになります。
マキアヴェリが滅ぼした「男らしさ」
しかし、近代になって、この「男らしさ」の文化は弱まりました。
マンスフィールドによれば、それを滅ぼした主役は「君主論」のマキアヴェリでした。
マキアヴェリによれば、政治や外交において、騎士道精神や男らしさは、無用のものです。
理性を用いた「結果主義」で判断するのがいい。
男らしさのような「主観主義」は、事態を混乱させるだけでよくないんですね。
そのマキアヴェリズムによって、「男らしさ」は政治の表舞台から退き、代わりに「安全保障 security」という概念が生まれました。
「安全保障」は、マンスフィールドによれば、「徳」としての男らしさの否定の上に成り立っているのです。
日本のマキアヴェリズム
日本もそうですね。
日本近世の「男らしさ」を代表するのは、吉田松陰です。
彼の「至誠天に通ず」という「主観主義」が、幕末の志士たちを鼓舞したわけです。
しかし、志士たちが権力を握ると、尊王攘夷が一転して欧化政策となり、マキアヴェリズムとなりました。
戦後、昭和天皇の「罪」をみんなが許したふりをしたのも、結局のところ結果主義のマキアヴェリズムです。
三島由紀夫は、それが許せなかったんだと思います。
「男らしさ」を忘れた文化
「男らしさ」を讃える気持ちが、人々からなくなったわけではありません。
たとえばヒーローものの映画やドラマで、弱者を守る勇気とか、自己犠牲の精神などの「男らしさ」が、いまも讃えられています。
あるいは、英雄的な大胆さや勇気、スタミナ(男性的生気)などが、スポーツ界や冒険界の「美徳」になっています。
でも、それを「男らしさ」として、現実世界に、積極的に促進する言葉や文化が欠けています。
結果として、社会の中では、なんというか、冷たい、理性的で、結果主義的な人が、「賢い人」だと讃えられる傾向がありますね。
情熱的で、「前に出る」タイプの人は、冷やかされ、戯画化され、上司の場合はパワハラとののしられ、ウザがられる。
「男らしさ」はドラマの中だけにしろ、という傾向が、若い人ほど強いように感じます。
でも、私は不安ですね。
プラトンによれば、人間は「理性」と「欲」と「テュモス(男らしさ)」で出来ている。
いま、「理性」は、AIに置き換えられつつある。
それで、「テュモス(男らしさ)」がなくなれば、人間は、「欲」だけ、性欲と食欲と、自己保存欲求のようなものだけになってしまいますよ。
というか、現にもう、そうなりつつあるような気がします。
「テュモス(男らしさ)」の復活を、という声は、マンスフィールドに限らず、フェミに征服されたように見える西欧社会でも、根強いのです。
少し前の投稿ですが、「フィロソフィー・ナウ」の投稿欄にこんなものがあったんで、それを紹介して今日は終わりにします。
ギリシャ人は、テュモスがアンドレイア(男らしさ)に不可欠であると信じていました。男性が自らの本質を構成する三つの主要な要素の一つを認識し、評価し、育み、活用する能力を失えば、当然、悪影響が伴います。現代男性の男らしさ、闘志、活力、野心の欠如、あるいは男性全体に蔓延する精神的な不調について耳にすることがありますが、実際にはテュモスの不足が問題なのです。何百万もの男性にとって、テュモスは眠ったまま、未開発のエネルギー源となっています。まるで、彼ら一人一人の厩舎に、走り出す準備万端で張り切るサラブレッドの素質を秘めているのに、閉じ込めておき、子供の誕生日パーティーでポニーに乗せるだけにしているようなものです。
https://forum.philosophynow.org/viewtopic.php?t=10612
<参考>
