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青い石と祈りの女神ー戦場ヶ原神戦譚ー|小説版(前編)

    あらすじ
    遠足で戦場ヶ原を訪れた小学5年生の勇気は、拾った青い石に導かれ、伝説の世界へ迷い込む。そこは、命を守るために魂を妖魔に売った赤城山あかぎやまの神と、彼を愛した湖の女神・華厳けごん、そして二荒ふたらの神々が生きる神話の舞台。

    戦いの果てに問われるのは「命より大切なものは何か」。

    歴史は変わらない。でも、心は変えられる。
    神さまを救うのは、現代の子供達だった。

    栃木県日光に伝わる神戦伝説を舞台にした、神々と子供達の冒険活劇。

    プロローグ ー闇に染まる神ー

    炎は竜巻のようにうねり、赤城山あかぎやまを飲み込んでいた。

    赤城は、幾重いくえもの稲光いなびかりと焦熱しょうねつの風の中でその竜巻を見上げた。微弱でも人の体を通して具現化できる神通力じんつうりきがなければ、自分の身も焼かれてしまうだろう。

    胸に抱いたのは、黒く焦こげた小さな塊かたまりだった。ミヤ、山の祠ほこらに花を供えに来ては、無邪気に笑っていた村の子だ。たまに通りすがりの村人のふりをして声をかけたことがある。

    「偉いねー」

    そう言うと、ミヤは抱えた花に顔をうずめて、はにかむように笑った。

    「うん! これ、お礼なの。お山はいつも私たちを守ってくれているでしょう。わたし、お山がだーい好きだから!」

    「そうか。赤城山の神さまも、ミヤのことが好きだと思うよ」

    「えーっ? お兄ちゃん、なんで私の名前知ってるのー?」

    その無邪気な声が、赤城の胸に刺さった。腕の中の小さな体からは、もう命の光は感じられなかった。助けられなかった。

    赤城山も、麓ふもとの村も、すべて炎に呑まれた。こんなことは、現人神あらひとがみになってから一度もなかった。赤城は雨を念じた。だが、人として生きる道を選んだ代償は重かった。肉体を持たぬ自然そのものであったなら、一息にこの火を吹き消し、恵みの雨を降らせることも叶っただろう。しかし、人を知るために現世へ降り、血の通う体を得た今の彼に、神の力はほとんどない。今の彼は、山に消えゆく命の記憶をただ刻み続けるだけの、無力な人の姿をした土地神とちがみに過ぎなかった。

    木々は焼け落ち、白い灰が風に舞う。人も動物も虫たちも、あれほど騒がしかった命のざわめきは、灰とともに静かに地の底へ沈んでいった。

    「誰も、もう──」

    赤城は声にならない声を漏らした。無力と絶望が体の芯を押しつぶす。倒れそうになったそのとき、闇が揺れた。背後から冷たい声が響いた。

    「救いたいか?」

    地の底から噴き出すような、金属のように冷たい音だった。ミヤの顔が浮かんだ。赤城は声の方へ目を向けた。

    “……妖魔ようま”

    神の摂理せつりの外側にあるもの。熱で揺れる空気の先に、大男の体躯たいくをいくつも繋ぎ合わせたような、節くれだった百足の化物が佇たたずんでいた。黒い闇で覆われた体のあちこちからいくつもの触手が蠢うごめく。これまで喰くらってきた魂なのか、怨念おんねんめいた気配が辺りの熱気さえも押し殺した。どこが口かもわからない無表情な体が、カチャカチャと音を立てた。

    「救いたいか?」

    妖魔の声は繰り返された。赤城は問い返す。

    「救えるのか?」

    無表情のはずの妖魔が、笑ったように見えた。

    「ああ。お前の魂と引き換えに」

    顔のような部分がカクカクと動き、百足の体の中から、血のように赤い面が差し出された。それは、苦悶に歪ゆがむ人の顔を模したようにも、あるいは嘲笑ちょうしょうを浮かべているようにも見えた。面から放たれるどろりとした禍々まがまがしい気配が、周囲の熱気を凍りつかせていく。これに触れてはいけない。神の本能がそう告げた。だが、ミヤの笑顔が脳裏に浮かぶ。
    その間、赤城の胸には、消えゆく命の叫びが押し寄せた。
    痛い。苦しい。助けて──。
    赤城山の消えゆく命たちの慟哭どうこくが、幾重にも重なり、赤城の体を動かす。

    かつて、全なる神に個はなかった。

    だが人となり個となった今、赤城には“救いたい”という痛みがあった。

    しかし、
    触れるな、
    救え、
    落ちる、
    ……神なら、救え。

    赤城の左手が、震える右手を必死に押さえつけた。それでも指先は、赤い面へと伸びていく。
    そして、その指が面に触れた瞬間──

    世界は闇に覆われた。




    1.遠足に来た子供たち


    僕は藤井勇気。前橋小学校の五年生だ。
    家のベランダで、花とか小さな植物を育てるのが好きだ。朝、水をあげるときに、小さな芽が昨日よりほんの少しだけ伸びているのを見ると、胸の奥がふわっと温かくなる。それと読書。静かな時間が好きだし、物語の中にいると落ち着く。運動はあまり得意じゃないし、クラスでも特に目立つタイプじゃない。でも、それでいい。静かにしている方が僕には合っている。
    僕は誰かの前に立つのが苦手だから。

    今日は遠足で日光市の戦場ヶ原に来ていた。

    隣を歩いているのは、高木龍之介。
    トンカツ屋の息子で、明るくてお調子者、考えるより先に動くタイプだ。昨日も『牛乳3秒で飲める!』と言ってむせていた。僕とは真逆だけど、彼といると僕でも少しふざけられる。

    僕らを時々睨んでくるのは佐藤愛ちゃん。
    クラス委員長で、はっきりものを言う。まだ怒られてはいないけど、龍之介がいる以上、時間の問題だと思う。僕は心の中で愛ちゃんを『ツッコミ女王』と呼んでいる。もちろん本人には言わない。

    その愛ちゃんの隣にいる光田美森ちゃん。
    クラスのアイドル的存在だ。ふわっとしてるのに、たまにドキッとするようなことを言う。そのせいもあって龍之介のテンションが高い。

    この四人が、今日の遠足の班メンバーだ。

    空はよく晴れていて、風が草原をさらさらと揺らしている。空気は少しひんやりしているのに、陽射しだけは強い。草の匂いがふわっと流れてきて、胸のあたりがむずむずした。歩いていくと、広い湿原がどーんと広がっていた。

    「は〜い、みんな集合〜。ここが戦場ヶ原です」

    先生の声が、広い空に吸い込まれていく。僕らは足を止めて、看板の前に集まった。

    「な〜んもな~い」

    龍之介が、あくびみたいな声で言った。

    「そう見えるけど、ここには神様の戦いの伝説があります。赤城山あかぎやまの神様が大百足おおむかでに、二荒山ふたらさんの神様が大蛇になって、中禅寺湖ちゅうぜんじこを取り合って戦ったそうよ」

    先生の一言に、あちこちから「伝説?」という声が上がる。龍之介が食いつき、僕も思わず耳を傾けた。

    「先生! 赤城山の神は勝ったの?」

    龍之介が身を乗り出す。

    「負けちゃったの。赤城山が優勢だったんだけど、二荒山が弓の名手に助っ人を頼んで、その人の弓で破ったそうよ」

    「え、助っ人とかズルじゃん! なあ勇気」

    「う、うん」

    龍之介の勢いに流され、思わず相槌を打った。

    「つまり龍之介さん、二荒山が助っ人を頼まないと勝てないほど、赤城山の神は強かったってことだね」

    「よし! じゃあ俺が赤城山の神、勇気、二荒山の神!」

    「えっ! ちょっ」

    龍之介が飛びついてきて、じゃれ合いが始まる。またか……こうなると僕も逃げられない。

    「くらえ、百足のくすぐ~り」

    「ひゃーっ」

    「こら! 二人とも早くしなさいよ!」

    愛ちゃんが怒鳴る。いつもの流れだ。龍之介が首を絞めてくる力は、頭の中身までトンカツなのかと思うほど加減がない。

    「龍之介君、離して」

    美森ちゃんの一声で、龍之介は素直に僕を離した。……分かりやすい。助かった。咳き込みながらその場を離れる。

    ── ポチャーン ──

    水面に何か落ちたような音がした。風の音も、クラスのざわめきも、急に遠くへ引いていく。空気がひやりと変わった気がした。

    酸欠? そう思ったけれど、違った。ベランダで小さな芽の変化を見つけるときと同じ感覚だった。誰も気づかない、ほんの少しの違い。視界の端で、草の色とは違う“青い何か”が瞬いた。

    一方で、ツッコミ女王とトンカツ男の問答が始まっていた。

    「龍之介、地図係でしょ、早く出しなさいよ」

    「おう、任せとけ。えっと地図……あれ、どこだ?」

    いつもの二人の問答をよそに、光に近づくと、まるで僕に拾えと言わんばかりに青い石が落ちていた。しゃがんで手を伸ばし、その石を掴んだ。瞬間、視界が真っ暗になった。

    「…っ!?」

    視線の先で青白い光の粒が渦を巻きながら一本の柱になって立ち上がった。光の玉が下から吸い込まれ、上へ噴き出し、薄く広がってはまた吸い込まれていく。まるで世界そのものが呼吸しているみたいだった。景色はすぐに元に戻った。辺りは今までと何も変わっていない。

    「……冷たい」

    青い石の温度が伝わってきた。動揺して目をパチパチさせていると、背後から声がした。

    「勇気君、それ何?」

    「あっ、美森ちゃん」

    手の中の青い石は太陽の光を受け、深い水の底みたいな色がゆらゆら揺れている。湿原の遠くからカッコウの声が聞こえた。

    このとき、僕はまだ知らなかった。
    この石が、僕たちの日常を終わらせるなんて。

    2.伝説の鼓動

    僕の手の中には、真っ青な石があった。

    「面白い形だねぇ」

    美森ちゃんがのぞき込んできた。確かに普通の石の形はしていない。なんかこう、丸くて、くにゅっとして、どこかで見たような、ないような。

    「勇気! 石なんか拾ってないで、地図を見なさいよ、地図を! 美森ちゃんも行くわよ、もう、他のグループはみんな行っちゃったじゃない!」

    やば、愛ちゃんが激おこだ。見れば、周りには僕らのグループ以外見当たらなかった。拾った石をポケットにしまい、地図を取り出す。

    ── ゴロゴロゴロ……ッ ──

    「ひゃあ!」

    悲鳴を上げたのは龍之介だ。雷が嫌いな龍之介がいち早く反応したが、空は青空だ。

    「雷? こんなにいい天気なのに?」

    美森ちゃんが空を見上げた。僕もつられて見上げる。雲ひとつない青空なのに、なぜか胸の奥がざわついた。

    「へんねぇ、私も聞こえたけど、空耳だったのかしら」

    愛ちゃんも不思議がって空を見上げていた、その時。

    ── ピシャーン! ゴロロロ……ッ ──

    全員の悲鳴が重なり「ぎゃー」という一つの大きな叫びとなった。
    僕らの真上で大きな雷が鳴った。

    「ちょっと! 嘘でしょう? 雲なんかどこにもないわよ。いやだ龍之介! くっつかないでよ」

    愛ちゃんが空にツッコミを入れている中、龍之介が腰を抜かして愛ちゃんにしがみついていた。

    「とにかく、クラスの皆に合流しましょう」

    こういう時、ツッコミ女王は頼りになる。

    ── ピシャーン! ──

    「ぎゃーっ!」
    「いやあああ!」
    「龍之介! くっつくな!」
    「……っ」

    ……おかしい、さっきから変だ、何かが起きている。足の裏が地面から離れるような、現実がすべる感覚がした。

    気づけばあたりが暗くなっていた。

    「きゃっ!」

    美森ちゃんが、悲鳴をあげた。僕は悲鳴どころか声すら出ない。喉が固まって、息だけがひゅっと漏れた。

    「なに、何が起きてるの?」

    愛ちゃんの言葉は闇の中に吸い込まれていく、かと思えば逆にその闇の中から低い声が轟とどろいた。

    「二荒ふたらから出ていけ!」

    地鳴りのような声だった。

    「聞けぬな。二荒の湖の女神は俺が偉大なる神、大神おおかみになるために必要だ」

    別の、やはり大きく響く声だが若い男の声だ。

    「ええい! 身の程知らずめ。二荒の湖は、二荒が生んだ命の水だ。まして軍勢を引き連れてくるような奴に我が娘を差し出す道理など一つもないわ!」

    「ならば神戦となるぞ」

    「始めからそのつもりだろうが!」

    「その通り。もはや是非もなし!妖魔、百足むかでの化身」

    「大神、大蛇の化身」

    その時、突然僕らの目の前の景色が開けた。

    そこにいた。

    まず目に飛び込んできたのは、白く輝く鱗をまとった巨大な大蛇だった。学校の校舎よりでかい体がゆっくりと持ち上がり、深い緑色の目に背中が凍った。その横で、赤黒い光沢を放つ大百足が、金属の塊みたいな体をくねらせていた。節が動くたびにガチン、ガチンと嫌な音が響き、何十本もの脚が地面を叩いて土が跳ねた。まるで工場の巨大な機械が動いているようだった。

    ── ドンッ!! ──

    二匹がぶつかった瞬間、今まで体験したことがない衝撃波が体を貫いた。大蛇が大百足の周りをすべるように動く。校舎よりでかいのに、信じられない速さだ。

    ── ガギンッ!! ──

    大蛇の巨大な尻尾が大百足の体を殴ったが、まるで金属がぶつかり合うような嫌な音がする。再び衝撃波が体を突き抜ける。ぶつかった箇所から何か黒いものが飛び散るのが見える。こんなの……現実じゃない……よね? 画面の向こうで見る戦いは楽しいのに、これは違う。これは……怖い。衝撃と鼻をよぎる生臭い匂い、見たこともない化け物どもの戦いを目の当たりにし、僕は怖くて震えた。逃げたい、けど足が地面に縫い付けられたみたいに動かなくなっていた。やがて大蛇が大百足に絡みつき全身を締め上げた。

    ──バキッ!バキッ!バキバキバキッ!──

    金属が割れるような大きな音が鳴ったかと思うと、大百足が雨のように細かな百足となって崩れ落ちた。決着がついたと分かったその時、また周りが真っ暗になった。

    「ぎゃーっ!」

    暗闇にみんな悲鳴をあげ、どうすれば良いのか分からない。けれど、完全な暗闇ではなかった。僕の周りだけが、ほんのりと明るい。見れば、ポケットから青い光が漏れていた。

    「なに?」

    震える手でポケットから石を取り出すと、青白い光が僕らを優しく照らした。石が……温かい。さっき触った時は冷たかったのに……。

    「どうなってんのよ!」

    どうなってるのかはこっちが聞きたい。でも、この石だ。この石が僕に何かを語りかけている。うまく言えないけど、この石が僕に何かを見せようとしている。

    「もしかして……伝説の時代に来ちゃった?」

    美森ちゃんが言った。確かにさっきの声も、あの戦いも現実だった、だけど今は、

    「周りが真っ暗だ……」

    そして僕ら以外の気配も感じない。

    「ここ、どこ?」

    龍之介がすっごい悲しそうな顔で思ったことをそのまま言っている。ここは、伝説の時代なのだろうか?でも今は周りは真っ暗で何も見えない。青い石がぼんやりと僕らを照らしている。みんな目を凝らして辺りを見回していた。すると、龍之介が叫んだ。

    「おい、あそこ!」

    両目が飛び出しそうな龍之介が指差したその先で、石とは別の光があふれた。

    3.捨てられた人体

    龍之介の指さしたその先から、あふれだした光は、紙に燃え移る炎のように一気に広がった。

    気づけば、僕らは宙に浮いていた。

    「うわ」「きゃー」「ひっ」

    三人の声が重なる。僕は声も出なかった。

    眼下に広がるのは、湖に面した崖の上だ。戦場ヶ原じゃない。どこか別の場所に連れてこられている。

    崖の上に、赤い仮面の人が縛り上げられていた。その赤い面は無表情で、泣いているのか笑っているのかわからない。赤黒い鎧と百足らしき姿から赤城山あかぎやまの神だとすぐに分かった。周りを囲むのは白と緑色の服を着た二荒山ふたらさん陣営の人たち、そして筋骨隆々の相撲取りのような大男だ。

    その光景に、僕の胸はギュッとした。
    地元の赤城山が負けるのは、やっぱり気持ちの良いものではないみたいだ。

    相撲取りのような大男が口を開いた。

    「てこずらせおって! たかが神が大神に勝とうなど千年早いわ! おい、重りを付けろ。こいつの望んだ二荒ふたらの湖に沈めてやれ」

    「……いいのか男体なんたい。お前は俺の毒で死ぬぞ」

    赤城山の神が大男を「なんたい」と呼んだ。相撲取りみたいなあの大男が、男体山なんたいさんの神なのかもしれない。

    「毒? ぶわははは、お前の毒など効いておらんわ。ああ、命乞いか? かわいそうに命乞いの仕方も知らんらしい、遺言なら聞いてやるぞ、ん?」

    「遺言。ふふっ、お前の代わりに詠よんでやろうか?」

    「棒を貸せ」

    男体山の神が棒を振り上げた。うわっ、見ていられない。僕は目をつぶった。

    ── ガギン!バキン! ──

    金属音が鳴り響いた。

    「くそ、固い奴だ。もういい、沈めろ」

    目を開けると、男体山の神が棒を捨て、右手を振っていた。赤城山の神が固くて手がしびれたみたいだ。赤城山の神は大きなけがは負わなかったようだけど、男体山の家来たちに引っ立てられて崖の端に連行されていった。

    「よく聞け男体。お前を助けられるのは俺だけだ。俺はけっして死なん。死ぬのは貴様だ!」

    男体山の神が顎で合図をすると、赤城山の神は崖から突き落とされた。

    「うわぁー!」

    つぶった目を開けると、赤城山の神はそこにはなかった。湖からぷくぷくと泡が浮いてくる。

    「ふん、遠吠えはあの世の友達に聞いてもらうん……ぐえお、うう……」

    男体山の神が膝をついた。見るからに苦しんでいる。家来たちが「男体様!」「大丈夫でございますか!」と口々に叫びながら駆け寄った。龍之介も、愛ちゃんも、美森ちゃんも、食い入るようにその一部始終を見ている。

    その時、背後から声がした。

    「この鈍感野郎め。やっと毒が効きだしたか」

    振り返ると、そこに赤城山の神が、いた。

    「ぎゃーっ!」

    僕ら四人はひっくり返った。

    「助けて―」
    「ママ―」
    「ごめんなさーい」
    「ひっひっひ(過呼吸)」

    逃げようと手足をばたつかせたが、思うように体が進まない。空に貼りついたみたいに、どうしても進めなかった。でも、赤城山の神は、こちらをまったく見ようとしない。

    「どういうことだ! いま確かに湖に沈んだはず?」

    駆け寄った家来の一人が、信じられないといった様子で声を上げた。

    「……俺は赤城山の神体だ。……人の体は湖に捨てた」

    「人の体を捨てた? できるのかそんなことが?」

    赤城山の神も二荒の家来たちも、僕たちには気づかない。どうやら見えても聞こえてもいないらしい。呼吸を整えて見ると、赤城山の神には顔しかない。体は真っ黒で、体の中心に緑色に輝く小さな光があった。それは何か白い牙のようなもので囲まれ、食べられているかのように見えた。

    「だが、人の体を失った以上、貴様らに干渉する力はない……。言ったろう男体山の神よ、俺は死なんと」

    赤城山の神は赤い面を付けている。表情はわからない。けど……。

    「じっくり毒に侵され苦しみながら死ぬがいい。お前がいなくなった後、ゆっくりこの二荒を頂いてやる。さらばだ」

    「お前ら、奴を……逃がすな……」

    男体山の神はばったりと倒れ、痙攣けいれんを始めた。家来が男体山の神を担ぎ、別のグループが赤城山の神を追いかけていく。

    僕らは顔を見合わせた。
    あっちもこっちも大変だ。そして、僕らはまだ宙に浮いたまま。去っていく赤城山の神の影を見送りながら、中腰になった龍之介がビビりながらも声を出した。

    「お、おーい!」
    「やめなさいよ、帰ってきたらどうすんのよ」

    愛ちゃんが慌てて龍之介をたしなめた。

    「あいつ……笑ってた」

    美森ちゃんも僕と同じように赤城山の神の心の奥をみていた。

    「うん……」

    そして、一つの物語が終わったかのように辺りが暗くなった。

    「ぎゃーっ!」

    皆の叫び声と共に、ポケットの中の青い石がほのかに光りだした。さっきと同じく、照明代わりにする。

    「どうなってんのよ勇気?」

    愛ちゃんが僕を睨む。

    「だから僕に聞かないでよ~」

    「だってその石、光ってるでしょう」

    愛ちゃんの言うとおりだけど、僕が何かをしているわけじゃない。

    「その石のせいだとして、私たちはどこにいるの? タイムスリップではないみたい」

    美森ちゃんが冷静に状況を整理していた。

    「闇の中にいる」

    龍之介が言った。ドヤ顔だ。彼なりに美森ちゃんの問いに回答したかったのだろうけど回答になっていない。美森ちゃんと愛ちゃんの視線は冷たかった。

    僕は手の中の石をじっと見つめた。

    人の手みたいにあったかくて、何かが動き出す気がした。僕が石を拾ったときに見た、闇の中の光の柱、そしてこの伝説の世界には何か関係があるのだろうか?

    そのとき、美森ちゃんが叫んだ。

    「あっ、あそこ、みんな見て!」

    美森ちゃんが指さした方角から、光があふれた。

    4.人の赤城と二荒の家族

    美森ちゃんの指した方向から燃えるように広がった新しい光は、今までと違う景色を連れてきた。開かれたふすまの先には、庭があり、その奥に鳥居が見えた。

    ここは……家の中?

    そして、僕らはすぐに目の前に座っているお姉さんにビビった。状況どうこうというより、寝ている男の人をすごい顔つきで睨んでいるのだ。見た目は綺麗なお姉さんなのに、その……オーラが尋常じゃない。怒りが肌を刺すような空気が伝わってきた。同じ空間にいる僕たちは、顔を見合わせるだけで声が出せなくなっていた。龍之介は口を開けたまま固まっていた。
    そのお姉さんの怒りは、目の前で寝ている男の人に向けられていた。20代くらいのお兄さんだろうか、長髪でシュッとした整った顔つきだけど、昼間なのに寝ているし、額に濡れた布が置いてある。和服を着ていて、ところどころ包帯のようなものが見える……。

    もしかして、この人が……。

    見ているとお姉さんは、額に濡れた布を交換した。寝ている男の人を……看病しているようだけど、看病している相手を睨むってどういうこと?この怖いお姉さんは誰?
    ほのかに熱を持った手の中の青い石に気付き、見つめると、ゆらゆらと水のような光が揺らいでいた。

    「うう……っ……」

    男の人が目を覚ました。
    その瞬間、青い石の光が強くなり、僕たちの視界は“彼の記憶”の中へ沈んでいった。そして、彼の心の声が直接聞こえてきた。

    ***

    ……鳥の声。
    ……光。
    ……暖かい手。
    ……体が……重い。
    ……神の柱が……無い……
    俺は……
    ……何者だ?

    「気が付いたか」

    視線を向けるとそこには女がいた。
    見渡すとどこかの家のようだ。

    「うう、あなたは?」

    「二荒ふたらの湖の神だ」

    「二荒の湖……。俺は……一体……」

    「お前はわが父、男体山なんたいさんの神との戦いに敗れ、二荒の湖に沈められたのだ」

    「男体山の神……。二荒の湖……」

    「夢うつつとはいい気なものだ。お前のおかげでわが父は……」

    思い出してきた。俺は湖に沈められた。
    そして、妖魔が神の魂をもって逃げ出した。

    「何を黙っている!」

    「すまない、今、思い出している、ぐうっ」

    頭に神の記憶はある、が、俺は神ではない。
    神の力を感じない、つまり……

    「何をたくらんでいるのか知らぬが、お前はただの人間だ。神である我らには敵わぬぞ」

    「すまない……」

    「ふざけるな! 父を傷つけたお前を、私がどんな気持ちで助けたか……。お前は言ったそうだな、男体山の神を助けられるのは自分だけだと。ならば父を助けろ!」

    その目には涙が滲んでいた。

    「……あなたが助けてくれたのか……」

    この娘が、湖の女神だったのか。いったい俺はどれだけの罪を犯したのだろうか。妖魔に魂を売ってからは、黒い記憶しかもっていない。湧き上がる怒りと命への渇望。その情動は歯止めの効かない行動を起こし、他者の犠牲も悲鳴も赤城山の命のためであれば何も響かなかった……闇……命と引き換えに妖魔が連れてきた道だった。
    この女神は、父親を殺そうとしていた俺を助けた?
    仇である俺を助ける?
    胸が痛む。
    ……この痛み……俺は闇から解放されたのか……。

    「……分かった。そう睨むな。男体山の神を助けよう。……くっ」

    立ち上がろうとしたが、足に力が入らない。

    「つかまれ。……父のためだ」

    女神の手は震えていた。……すまない。虚無の底に、罪だけが残っていた。縁側を歩き斜向かいの部屋に入った。

    「お母さん、赤城が目を覚ました!」

    声の先には、床に伏した男体山の神ともう一人中年の女性がいた。
    母か、おそらく大神の片割れ。
    そう思うのも束の間、中年の女性がすくっと立ち上がったかと思うと、近づいて大きく手を振った。見えてはいたが、避けることはできなかった。

    ──バチン──

    「私は、二荒の片割れ、女峰山の神、今のであなたの行いを許します。だから、男体を、彼を助けて」

    女峰山の神はひれ伏した。

    「やめてお母さん」

    湖の女神が母を支えて、俺を睨みつけた。
    身体中の痛みに増して、涙に滲む怒りの目とその慈愛がずしりと肩にのしかかった。

    「赤城!」

    有無を言わせぬ視線をうけ、男体の脈を取った。

    男体山の神。二荒の大神にして大蛇の化身。実際に戦ってこいつの強さは知っている。しかし、今は虫の息だ。二荒に罪はない、ただ俺が一方的に侵略に来た。この罪がどう許されるのか分からない。だが、今は……救わねばならない。

    「……男体は凄まじい精神力で生きてる、おそらく女峰山の思いが通じているのだろう、生きているなら助けられる。」

    女峰と湖の女神が顔を見合わせた、少しだけ安堵させられたようだ。

    「すぐに解毒薬を作って飲ませなければ、材料は……」

    こうして俺は解毒薬の処方箋を女神に伝えた。だが薬ができるまで早くても1日はかかるだろう。男体は今生きていることさえ奇跡的な状態、……果たして間に合うだろうか。

    しかし、数分と経たないうちに、湖の女神が薬を携えて現れた。

    「赤城! 薬だ!」

    「早い! 一体どうやって、取り置きでもあったのか?」

    「うるさい! お前の言ったもので間違いない!」

    よく見れば、湖の女神はひどく疲れているのが分かった。呼吸は荒く、体はじっとりと汗で濡れている。何か神の力を使ったのかもしれない。

    「ならすべて飲ませろ。一滴残らずだ」

    「父が助からなかった時は覚悟しておくんだな」

    「さあ、あなた。これを飲むと元気になれますよ」

    男体は力なく呑み込むが、しばらくすると吐き出してしまう。

    「ああ、何てこと」

    「赤城!」

    「駄目だ。飲ませなければ死ぬ!」

    再度、女峰が男体に薬を飲ませようとしたが、男体は吐こうとする。

    「あなた。頑張って!」

    「お父さん!」

    くそ、飲み込まない。こいつはプライドの塊だ、ならば、怒りで意識を呼び覚ます。……すまない、他に方法が思いつかない。

    俺は湖の女神を抱き寄せた。

    「男体山の神よ! お前が倒れたら誰が二荒を守る!」

    「やめろ!」

    抵抗する湖の女神を力の限り引き留めた。

    すると男体はカッと目を見開き、俺を凝視した。
    その目は怒りで血走っていた。

    ──ゴクン──

    薬を飲み込むと、そのまま白目をむいて気を失った。

    「あなた!」
    「お父さん!」

    男体のもとへ駆け寄り、その脈を診た。

    「もう大丈夫だ。」

    女峰山の神と湖の女神は、男体のそばで手を取り合った。
    その姿は、神ではなく────家族だった。

    5.華厳の涙

    小鳥の声が、湖面の上をかすかに渡っていった。
    二荒山神社の縁側に座り、揺れる水面を眺めていた。
    風が白樺を揺らし、光が湖に散っている。

    妖魔の影は、もうどこにもない。
    ただ、森とともに生きる静けさだけが残っていた。

    背後から足音がした。
    この気配……湖の女神か。

    「どうだ、男体山の神は?」

    「ああ。快方に向かっている」

    「そうか。よかった」

    視線を感じて、湖から目を離した。

    「なにを見ていた」

    「森と湖だ。二荒の神々が美しい理由が、ようやく分かった」

    「赤城山は?」

    目を閉じる。

    「……美しかった」

    「美しかった?」

    言葉が自然とこぼれた。

    「赤城山にも湖がある。小さな島があって、小鳥たちが遊びに来る。白樺の林に立ちながら、小鳥たちと話すのが好きだった」

    横目で見ると、女神のまつげがわずかに震えた。

    「昨年の神無月だ。何百という落雷が山を襲った。赤城山すべてが火の海になった。……雨一滴すら降らせられなかった」

    胸の奥が痛む。
    言葉にすると、痛みはさらに深くなる。

    「痛い。苦しい。死にたくない。助けて。そんな声が山中に満ちた。ミヤ……一つの命も救えなかった」

    女神の指先が、衣の上で小さく動いた。

    「その時だ。赤い妖魔が現れた。妖魔は言った。“神の魂を差し出せば、赤城山の命を助けてやろう”と」

    息が少しだけ震えた。

    「差し出した。そして、妖魔になった。……間違っていたのだろうか」

    自分の弱さを露呈する言葉に喉が詰まった。言い終えたとき、女神の頬を涙が伝っていた。その涙が、誰のための涙なのか分からないまま女神を見つめた。

    「すまない。悲しませるつもりは……」

    「命を見届け、記憶するのが土地神の役目だ」

    涙を拭わず、ただ前を見ていた。神としての責務か、その横顔が、胸に刺さった。

    「分かってる。だが、何とかしたかった」

    はにかむように笑うと、女神の息がわずかに詰まった気がした。

    「……お前は優しいな。神なのに……いや、人間みたいだ」

    その声は、まるで自分自身に言い聞かせるように震えていた。神としての責務と、個としての葛藤。その危うさと温かさを分かってもらえた感覚に救われた気がした。

    「さて、薬草を取ってこよう」

    「待て。私が行く。お前もまだ癒えていないだろう」

    「もう歩けるさ」

    「なぜ背負い込む?」

    思ったより強い声だった。一瞬だけ目を見開く。

    「……できないことは、できる神に頼む。そういう道もあるか」

    「世話の焼ける神だ」

    「もう神ではないがな」

    二人で微笑んだ。女神の表情が、ほんのわずか和らいだ。立ち上がろうとした女神の背に、ふと声がこぼれた。

    「……そういえば」

    言葉の前に、胸がわずかにきしんだ。
    自分でも気付かぬほど小さな息が漏れる。
    女神が振り返る。

    「まだ、名前を聞いていなかった」

    風が止まったように感じた。

    「あなたの名は?」

    その一言を言うまでに、わずかに息を呑んだ。
    まっすぐに女神の瞳を見つめた。

    女神はそっと俺から視線を外し、湖を見つめた。

    「……華厳けごん」

    その声は、今までの女神とは違って柔らかかった。
    個としての彼女に初めて出会った気がした。

    二荒の湖は、優しく弛たゆんでいた。

    ***

    照明が切り替わったように、あたりが暗くなると、青い石で僕たちの周囲がふっと明るくなった。

    胸の奥に残っていた“赤城の感情”が、すっと消えていく。

    「あ、終わった」

    龍之介の声が漏れた。

    「どうなってんの、この感じ……」

    愛ちゃんが、誰にともなくツッコんだ。

    「やっぱり赤城は良い神様だった」

    僕は言った。赤城の心のありようが優しくて嬉しかった。耳の奥に、さっき赤城が呼んだ誰かの名前が残っていた。美森ちゃんが愛ちゃんの袖を引くのが横目に映った。

    「愛ちゃんが言ってるのは……華厳と赤城のこと、でしょ?」

    「気付いた?」

    「うん。二人の空気が変わった気がする」

    龍之介が首をかしげる。

    「空気が変わったって?勇気、なんか匂ったか?」

    ええ? 臭い? 僕はくんくんと臭いをかいでみた。

    「うーん……分かんない」

    愛ちゃんが呆れたように突っ込んできた。

    「匂いじゃなくて ふ・ん・い・き。華厳と赤城、恋に落ちたってこと」

    龍之介は目を丸くした。

    「え、どうして?」

    「鈍い男はモテないわよ」

    愛ちゃんの言葉に美森ちゃんが頷きながら続けた。えっ? 喜んでる?

    「強そうな人の弱いとこ見ちゃったら、好きになっちゃうよね」

    どういうこと? 弱いところを見て好きになる? 僕には意味が分からず首をかしげた。

    「分かりませ〜ん」

    龍之介が僕の気持ちを代弁した。

    「ガキね〜」

    愛ちゃんのため息とともに、僕のポケットの中の青い石がまた熱を帯びだしたかと思うと、暗闇が切り裂かれ、新しい景色が広がり始めた。
    そこには赤城が土下座をしていた。


    6.新たなる旅路

    僕は目を見張った。目を見張ったのは僕だけじゃない。さっきまで騒いでいた愛ちゃんと美森ちゃんは、なおさらだった。龍之介は龍之介でずっと口を開きっぱなしなので、顎が痛いのか両頬をさすっていた。

    ここは、二荒山ふたらさん神社の境内だろうか?

    男体なんたいは復活し、女峰にょほうと一緒に椅子に座っていたが、土下座する赤城には目もくれず、何か事件でも起こったかのように右往左往していた。

    「ならん! 駄目だ! 駄目だ! 駄目だ! いったいこの一カ月に何があった」

    男体が相変わらず大きな声を発した。この人は何もかもスケールがでかい。
    毒の影響はもうなさそうだ。

    「あなた。抑えて」

    女峰山の神の物腰は柔らかかった。さっき赤城にいきなりビンタをした時は驚いたけど、基本はおしとやかな人の様だ。

    「何がどうなっている?」

    男体が華厳に問いただした。土下座する赤城の脇に華厳がシャンと正座していた。赤城はまったく頭を上げようとしない。

    「だから、私、赤城山に、嫁に行きます。」

    ……えっ?

    いまなんと申されました? 嫁?

    あまりの急展開に、愛ちゃんも美森ちゃんも、あっけにとられている。男体山の神の困惑ぶりも頷けた。右往左往の速度が上がっている。

    「はあ? おやおやおや、私の頭も毒にやられてしまったのか? 華厳よ、もう一度言ってみなさい」

    「赤城さんと結婚します」

    男体山の神は、フルフルと震えていた。

    「気でも狂ったか! そいつはわしを殺そうとした張本人だぞ! 」

    「分かってます。でも私、赤城と一緒に赤城山を二荒に負けない国にしたい」

    「そいつはただの人ではないか! 駄目だ、駄目だ、駄目だ! 絶対に許さん!」

    「口を開けば、駄目だ駄目だって。じゃあどうすれば良いのよ?」

    うっ、華厳お姉ちゃんの形相がまた……オーラが……。僕の中の『女神様』というイメージが、完全に『お姉ちゃん』に変わっていた。

    「華厳! 抑えて。……やはりまだ時期が」

    「赤城は黙ってて」

    赤城はまた、頭を下げた。そういう力関係なのか? その姿を見ていたらなんだか赤城もただのお兄ちゃんに見えてきた。

    「む、そうか貴様か! 貴様が華厳をたぶらかしおったのだな!」

    「やめてよお父さん。私が決めたの、赤城には私が必要なの」

    「なんという!この世に神はいないのか?」

    「あなたが神ですよ」

    天を仰ぐ男体を女峰が冷静に諭した。面白い夫婦だなと思った。
    赤城が顔を上げた。

    「申し訳ありません。たび重なるご無礼をお許しください」

    「許すか~!」

    「お父さん!」

    「ああ駄目だ、目まいが、母さんお薬ちょうだい」

    男体が椅子に倒れこんだ、女峰が近くのタンスに薬を取りに行った。

    「まったくもう。少し落ち着いてお話を聞いたらどうなのですか?」

    薬を準備しながら、距離を取って男体山の神を諭している。なんか、長い間一緒にいる夫婦って感じだなと思った。その時、赤城が立ち上がった。

    「いえ、この度は時期をわきまえぬ申し出でした。出直してまいります。」

    空気が止まった。今度はお姉ちゃんが唖然としている。

    「ちょっと、赤城!なに言ってるの。」

    お姉ちゃんからしたらなんでここで引くの?という気持ちだろう。

    「華厳、ここは一旦、なっ。」

    赤城のお兄ちゃんは頭を斜めに傾け、懇願しながら華厳お姉ちゃんの手を引いていった。どうやら今回の一件は華厳お姉ちゃんの方から言い出したみたいだ。二人は言い合いしながら部屋を出て行ったが、その光景が微笑ましかった。

    「二度と来るな~! 母さん塩だ、塩を持ってこい!」

    「はいはい」

    僕たちは顔を見合わせ、二人の後をこっそりと追った。 部屋を後にした赤城お兄ちゃんと華厳お姉ちゃんは、境内から湖畔が見える庭先へ来ていた。

    「もう! なんで引き下がるの!」

    ……なんとなくだけど、華厳お姉ちゃんは結構豪快な人だ。華厳の滝と同じ名前なのも何か関係があるのかもしれない。赤城お兄ちゃんは、しばらく黙って湖を見ていたが、口を開いた。

    「いや、やはり人間が神を妻に迎えるには無理がある。俺は神として、お前を守ることができない。一度国へ帰って出直してくる。」

    「国へ帰る?」

    華厳お姉ちゃんの血相が変わった。赤城お兄ちゃんは何か心に決めたかのようだ。

    「ああ、今一度神となって出直してくる」

    「ならば、私も行く」

    「駄目だ。物事には順序がある。男体山の神は許さないだろう」

    「お前は今、神通力をなくしているのだぞ」

    「分かっている」

    「そんなお前を一人、妖魔が巣食う赤城山に行かせられるものか」

    「大丈夫だ。元は赤城山の神。妖魔も手出しはしないだろう」

    華厳お姉ちゃんは本当に心配そうに赤城お兄ちゃんを見つめた。

    「心配するな」

    「本当に大丈夫なのか?」

    「ああ」

    見つめ合うお姉ちゃんとお兄ちゃん、隣で愛ちゃんと美森ちゃんが、息を呑んで見守っていた。龍之介は相変わらず両頬を押さえていた。

    「なら、この石を持って行け」

    華厳お姉ちゃんは首のネックレスを外した。

    「これは……」

    「ああ、この石に念を込めれば一度だけお前以外の時間をしばらく眠らせることができるだろう」

    「なんだって、時を眠らせる?」

    「ああ、ただし、一度しか使えないから、どうしようもないときだけ使うんだぞ」

    なるほど、あの時、異常な速さでお姉ちゃんが薬を持ってきたのと、ひどく疲れていた理由が分かった。

    「……すまない」

    「待ってる。二人で赤城の国を二荒に負けない美しい国にする。約束だぞ。」

    「ああ、約束だ」

    辺りが再び真っ暗になって、青い石が淡い光を灯した。僕の胸は高鳴っていた。僕が口を開く前に愛ちゃんが突っ込んだ。

    「勇気、見た?」

    「見た!」

    「勇気君の石と同じ形だった」

    美森ちゃんも確信している。龍之介がやっと頬から手を外し、のぞき込んできた。

    「ほんとに、勇気?よく見せて」

    「うん、これ」

    皆が青い石をのぞき込んだ、丸くて片側がくにゅっとして、穴の小さい9のような形をした青い石。これは華厳お姉ちゃんのネックレスの石と同じ形だ。

    「似てる……華厳のネックレスに。勇気!なんでお前が持ってるんだよ」

    「さっき道端で拾ったんだ」

    「もしかして、私たちが伝説の中にいるのはこの石のせいじゃないのかしら?」

    「この石のせい?じゃあこの石にお願いすれば、元の世界に帰れるんじゃない?」

    愛ちゃんが閃いたように僕を見た。

    「よし、じゃあ石さん石さん僕達を元の世、あっ! 光が……」

    また辺りが暗くなり、新しい景色が僕たちの前に広がって来た。
    僕たちは本当に元の世界に帰ることができるのだろうか……。

    新しい景色は今までの鮮やかな緑と違い、黒く焼け焦げた世界だった。


    7.神は新しい体を探す

    神は、体を選ぶ。
    人は、願いを選ぶ。
    妖魔は、魂を選ぶ。

    それぞれの“基準”がぶつかるとき、山は赤く染まる。

    体を失った赤城山あかぎやまの神は、男体山なんたいさんの神を打ち負かすため、強い新たな人体を求めた。

    そして今、妖魔たちが連れてきた屈強な人間たちが、赤城山の祠の前で睨み合っている。神を望む者たちは、妖魔の蠢きにも怯まず、拳と刃を握りしめていた。

    高台に置いた神の座には、うつろな“空の器”が腰掛けている。羽織を纏った黒い影、“赤城山の神”はゆるりと立ち上がった。

    「生き残った者が……神だ。始めろ」

    山そのものが喋ったような震えと候補者たちの咆哮が、赤城山に響き渡った。

    ***

    新しい光が連れてきた景色は、黒く焼け焦げた世界だった。

    「……なにこれ?」

    僕は、絶句した。
    焼け焦げた黒い木々、足元の炭と白い灰、紫色の霧が漂っていた。焦げた刺激臭が鼻を刺し、足元の炭が“パリッ”と音を立てた。嫌な音だった。胸がぎゅっとした。

    「……どこよ」

    愛ちゃんが息をひそめる。

    「妖魔の……世界?」

    美森ちゃんも身を縮める。

    「気を付けろよ。俺たちが見えてないとは限らないからな」

    龍之介が前に立つ。僕は龍之介の背中に隠れた。

    その先に、二つの影があった。
    カラスとフクロウ──ただし、人型で、流ちょうに言葉を話している。二匹とも、赤城山の神がつけていた面と同じ“半面”をつけていた。
    カラスは槍をくるくる回しながら、派手な装飾を揺らしている。
    フクロウは鎌を持ち、ぎょろりとした目を光らせていた。
    二匹は、僕らに気づくことなく話し始めた。

    「カー、ついてねぇべ。なんで俺が外れの見張り役なんだよ」

    「ホー、赤城様がいた頃は、もっと山も静かだったのにのう」

    「カー、懐かしいべ。俺の本気も見せてねぇのに帰っちまいやがって」

    「ホー、おめえは男体の最初の一撃でどっか吹っ飛んでっちまったじゃねえか」

    「カー、しゃあんめ、ありゃ打ち所が悪かったんだ!俺が本気出せば男体だって赤子だべ!」

    「ホー、カラスだけに、おカー様か、ホッホッホッ!」

    ……笑えない。
    突然、フクロウの首がグルんと180度回った。何かを捉えたみたいだ。

    「ホー、ホー、カッちゃん、獲物が来たぞ」

    「カー、しゃあねえ、俺の力、見せてやっから! 一撃だ一撃」

    二匹が高台から飛びおりたその先に居たのは──赤城だった。

    「カー、そこの人間!妖魔が蠢く赤城山をよくも登ってきたな」

    「お前たち……」

    「ホー、人間よ。神選びはもう始まってる。赤城様はルーズな奴が大嫌い。つまり、お前は俺たちに食われるしかねぇってわけだホーッホッホー」

    「カー、不運を呪え。俺のくちばしの一撃でおまえ──ん?」

    カラスの声が止まった。
    目を見開き、震えた。

    「カー、あれ?見覚えが……あれ?…あかぁ、あかぁ、あかぁ──!」

    「久しぶりだな、カラス、フクロウ。……まだ二匹でつるんでるのか。変わらないな」

    赤城の声は、ほんの少しだけ懐かしさを含んでいた。
    その一声で、二匹の態度が一変した。

    「カー、赤城様!? お、おめぇ……戻ってきたんか!」

    「ホー、赤城様の声、久しぶりに聞いたのう……」

    二匹の声には、恐れよりも“嬉しさ”が混じっていた。

    「フクロウ、神体はどうなっている?」

    「ホー、神体の赤城様は祠に戻られて以来、次の体を探してるべな!」

    フクロウが慌てて説明する。

    「なんてことを……お前たち、先に神体に伝えておけ。『俺が帰ってきた』と」

    「カー、承知だべ!赤城様、また……話せるといいな、今度こそ俺の本気、見せてやっからよ」

    赤城は一瞬だけ目を細めた。

    「……楽しみにしてる。」

    フクロウが笑った。

    「ホー、お前の本気、わしも見てみてぇわ」

    「カー、俺が本気を出したら世界が終わるべ」

    飛び去る2匹をみて赤城は低くつぶやいた。

    「……嫌な予感がする」

    赤城は、2匹を追って山の中に入っていった。

    「……赤城って、妖魔に……慕われてる?」

    愛ちゃんがつぶやく。

    「なんか……怖いけど、あの二匹、悪い奴らじゃない気がする」

    美森ちゃんが言った。僕も同じことを思っていた。

    「どうする?行くか?」

    龍之介が赤城の背中を追いながら提案した。

    「神さまの体選びの場所に?」

    美森ちゃんが不安そうに言う。

    「なーに!いざってときは俺が守ってやるよ」

    美森ちゃんにいい所見せたいのは分かるが、絶対に無理だ。

    「そうね、赤城の後を追いましょう。ここに居たってしょうがないし」

    愛ちゃんが、みんなをまとめた。

    「……うん。」

    正直、怖い。
    神選び?
    新しい体?
    そんなもの、嫌な予感しかしない。
    いったい、この青い石は、僕に何を求めているのだろうか。

    紫の妖気の先にいる、赤城の姿を僕らは追いかけた。

    ***

    祠の前では、妖魔たちの興奮のなか、神候補たちの死闘が繰り広げられていた。神候補の生き残りは、すでに二人。うち片方は、返り血で顔を染めながら、静かに笑っていた。

    生き残った者が、神となる。
    願いはすべて叶う。
    ただし、そこに人としての生はない。


    8.奪うだけで生きてきた男

    ──赤城の内側で、何かが軋きしんでいた。

    ”嫌な予感がする……”

    俺の足は早足になった。
    神が新しい人体を探そうとすることは予想していた。
    しかし、それを実行するほど……。

    神──それは全なる存在だ。
    個が全になるということは、個の死を意味する。

    その神が、命を守るべき存在が、
    妖魔に魂まで売って守ろうとした命を、
    自ら奪おうとしている?

    神の記憶と個の自我を持つ俺には、
    その判断が信じられなかった。

    だが、気がかりがあった。
    妖魔だ。

    奴の赤い面を被っている間、
    赤城山の命を守るという矜持きょうじはあったが、
    他の命を奪うことへの罪悪感が無かった。

    妖魔は神の魂を使い、
    死すべき命を現世にとどめた。

    だが──
    奴は俺の魂だけでは満足しなかった。
    別の神の魂を求め始めた。

    神は無限の闇に捕まっている。

    ……俺のせいだ。

    くそ……神体よ、願わくばもう何もするな。
    俺たちは……償つぐなわねばならない。

    ***

    赤城山の祠は、真っ赤に染まっていた。
    それは興奮した赤褐色の妖魔達の狂気と蠢うごめき、そして候補者たちの血だった。
    残った神の候補者は二人になっていた。

    大柄な男が鼻を鳴らす。

    「赤城一の怪力、熊の不動とは俺の事だ。チビめ、命が惜しけりゃ逃げるんだな」

    小柄な男は口の端を吊り上げた。

    「へっ、死ぬ奴に名乗るのも変だがな。盗賊の十郎だ。刻んで妖魔の餌にしてやるよ、ひゃっはー」

    小柄な体が、一気に間合いを詰めた。不動が轟音を立てて腕を振るが、十郎はすでにそこにいなかった。

    決戦の開始とともに、カラスとフクロウが駆け込んできた。

    「カー!赤城様、大変です!」

    「今いいところだ。邪魔するな。」

    「ホー、赤城様の人体が戻られました。もうすぐここに。」

    「人体……下がれ。」

    赤城山の神は、興味なさそうに手を振った。
    カラスとフクロウは顔を見合わせ退いた。

    一方、神選びの決戦は、不動の両腕が血まみれになっていた。

    「はー、頭悪いねー、真っすぐだけじゃ勝てねえんだよ。裏をかかなきゃな」

    「やかましい、貴様なんぞ一度捕まえれば、俺の勝ちだ」

    「そうですかい、いやー、暑いねえ」

    十郎は懐の手ぬぐいで汗を拭ったかと思うと、その手ぬぐいがムチのように不動の目を襲った。手ぬぐいは濡れていた。

    「ぐああ、目が!」

    「じゃあな大熊さん、だったっけ?」

    十郎が不動の首をナイフで掻いた。血しぶきを上げて不動が倒れた。

    「勝った!俺が神だ!ひゃっはー!」

    渇いた狂気の叫びが赤城の祠に響いた。
    そこに赤城が到着した。

    「……神体!これはどういうことだ!」

    赤城山の神は淡々と答えた。

    「次の体を選んでいる。」

    「なぜだ? 命を奪う必要などないはずだ」

    「男体山の神に敗れたからだ。強い肉体が必要だ。」

    赤城山の神の声に、静かな怒りが滲にじんだ。
    赤城は拳を握った。

    「命を犠牲にしてか!そこに神の意志はあるのか?」

    妖魔たちが倒れた候補者の後始末を始める中、十郎がずかずかと歩いてきた。

    「おい! 約束通り、集まった連中は全部ぶっ殺してやったー! さあ、神の力をよこせ!」

    血しぶきを浴びた十郎が、狂喜に歪ゆがんだ顔で詰め寄る。まるで獲物を仕留めた獣のようだった。赤城山の神は、氷のように冷たい一言を返した。

    「まだ一人残っている」

    十郎は舌打ちし、赤城を睨んだ。

    「ちっ、……そういうことか」

    赤城が手を挙あげる。

    「待て。俺は戦うつもりはない」

    「じゃあ何しに来た?」

    「神体と一つになるために」

    「同じじゃねえか! ふざけんな!」

    十郎が刃を構える。赤城は手を挙げたまま動かない。

    「お前は神になって何をする?」

    「富と権力を手に入れる」

    「それを手に入れて、どうする?」

    「手に入れてから考えるさ!」

    十郎が切りかかった。右、左とナイフが突きつけられる。赤城は紙一重でかわした。

    「富も権力も、神にならずとも得られる」

    「うるせえ! お前に俺のクソな人生が分かるか! 俺は奪う事しかできねえ、だから神も奪ってやる!」

    赤城は神体に向かって叫んだ。

    「この戦いは無意味だ。止めさせろ!」

    「勝った方が神だ。戦え」

    「貴様…!」

    神体の変わらぬ返答に、赤城は、逃げるのをやめた。
    赤城が十郎をまっすぐに見ると、目がじわりと赤く染まった。魂に刻まれた神の記憶が呼び覚まされる。赤城に目の前の男の生涯が流れ込んだ。

    「……お前は、盗賊の十郎だな」

    「なに? 俺はてめえなんか知らねえぞ!」

    「俺はお前が生まれた時から知っている」

    「イカレたか? 殺してやるよ!」

    十郎が再び斬りかかるが、赤城は逃げずに懐に飛び込み、十郎の手元を押さえた。

    「お前は奪うことしか知らない。だから誰にも愛されず、誰も信じない」

    「それがどうした! 生きるとは奪うことだ!」

    赤城は十郎のナイフを押さえつけながら、赤い目で十郎を見た。

    「違う。お前に必要なのは神の力ではない!」

    「なんだってんだよ!」

    「与えて得る心だ!」

    十郎の動きが、一瞬止まった。
    ──母ちゃん、腹減ったよ……。
    ──やーい、貧乏十郎ー!
    過去の記憶が脳裏をよぎり、十郎の顔が歪んだ。

    「……誰が与えてくれんだよ!」

    十郎の感情が爆発し、渾身の力で赤城を蹴り飛ばした。赤城は倒れ込んだ。

    「俺に神の座をよこせ!」

    追撃に来る十郎を前に、赤城が叫ぶ。

    「聞け、十郎!」

    「死ねぇ!」

    避けきれない——赤城は胸元の青い石に『眠れ』と念じた。

    青い石から光が爆ぜた。

    音が消え、赤城以外の時が眠る。
    十郎も、神体も、妖魔も、すべてが静止した。

    赤城は息を呑んだ。しかし、見とれている時間はない。
    赤城は立ち上がり、腰の据わった渾身の回転突きを土手っ腹に叩き込んだ。
    十郎の体は宙を舞い、地面に叩きつけられた。

    時が目を覚ました。

    「ぐあ! な、何が……? 一度でいい……俺に……あ……」

    十郎は気を失った。

    「……十郎。奪うだけの世界は、あまりに寂しいだろう……」

    神、それはすべての魂の記憶を持つもの。
    土地神、それはその土地の命を見届ける神。
    十郎を見つめる寂しげな赤城の目から赤い光が消えた。赤城は分かっていた。歩んだ道程は違えども、赤城も十郎と同じであったことを。

    神は体を選ぶ。
    人は願いを選ぶ。
    妖魔は魂を選ぶ。

    それぞれの基準が選び出したのは、人の赤城だった。


    9.その心は神か人か

    足早に先を行く赤城のお兄ちゃんを追い、僕たちはその足跡を辿って山道を登っていた。

    道中、不気味な百足の妖魔に出会ったけど、やっぱり僕らの姿は見えず、体もすり抜けた。『自然には触れるが、妖魔には触れない』というルールは、僕らを少し安心させた。

    神選びの場に到着すると、そこは百足の妖魔で埋め尽くされていた。愛ちゃんと美森ちゃんが悲鳴を上げそうな群れを避け、僕らは赤城山の神が鎮座する高台の隣へ移動した。羽織をまとった神の姿は以前より人間らしく見え、あまり怖くなくなっていた。

    眼下の広場を見ると、お兄ちゃんがこっちを睨みつけていた。赤城山の神が声を出した。

    「貴様、今何をした?」

    空気そのものが震えて、胸の奥まで響いた。お兄ちゃんはその問いに答えなかったが、こちらをじっと睨んでいる。

    「語らぬか……ならば、どうやって生き延びた?」

    「……」

    「捨てたことを恨んでいるのか?」

    「……神体よ」

    「言え」

    「お前は、人体を得て何を望む?」

    「大神となり、二荒を征す」

    「ならば、もう争う必要はない」

    「どういう意味だ?」

    「一つになれば分かるだろう」

    「いいだろう。その力いただく」

    赤城山の神が、お兄ちゃんの前に舞い降りた。それに合わせ、妖魔達はいっせいに赤城山の神と赤城を取り囲み、円陣を組んだ。倒れた候補者たちは、物言わぬ荷物のように妖魔たちが別の場所へと運び去っていく。やがて妖魔たちはなにやら呪文を唱え始めた。
    「フォン! フォン! フォン! フォン!」
    ある妖魔が甲高い音で一定のリズムを取り始めた。
    「ゼン! ゼン! ゼン! ゼン!」
    円陣を組んだ妖魔たちが、回りながら踊りだす。 妖魔たちの異様な声の高鳴りが空気を揺らし、その動きが波となった。

    何かが始まろうとしていた。

    「おい、おい、これ、やばくね、なんかやばくね」

    龍之介が事態の異常さに声を上げ、あっちに行こうかどうか迷う動きをした。愛ちゃんが龍之介を引き止めた。

    「私たちは何もできないよ、見るだけよ」

    「でも」

    「龍之介君」

    美森ちゃんの一声で、龍之介は拳を口に当てて静かになった。彼なりに見るという覚悟を決めたのだろう。僕は震える体を両腕で抑えていた。僕は、何もできない。弱虫だから……。

    「フォン! フォン! フォン! フォン……」
    「ゼン! ゼン! ゼン! ゼン……」

    妖魔たち全員がひれ伏し、赤城山の神とお兄ちゃんの周りには張り詰めた空気だけが残った。

    「戻ろう。我ら、もとは一つ」

    「もとは一つ」

    「いざ、一つに戻らん!」

    二人の赤城が片手を合わせると、赤城山の神が着ていた羽織が地面に落ちた。そこに赤城山の神の姿はなかった。

    ここから僕たちは神と人が一つの肉体に溶け合うさまを見た。
    お兄ちゃんの体に重なる赤城山の神。しかし、完全に一体になっていない、その姿はブレていた。

    そしてその神と人の心の叫びが僕たちにも聞こえた。

    「戻った! ふははは。男体山の神よ、今度こそ息の根を──なに!?」

    神体の声だ。勝ち誇った笑いが山に響く。

    「聞け、そんなことをせずとも、華厳と俺は──うぐっ!」

    お兄ちゃんの声が押しつぶされる。

    「俺が求めたのは華厳だけではない!」

    「ぐう! 大神になれば、力は手に入るだろう!」

    「忘れたか! 死者が生きるは神の魂! それこそが真の目的!」

    「まて! それでは俺たちは永遠に神を殺すことになる!」

    二つの心が、声がぶつかり合う。

    「すべては、我ら赤城山の命を守るため!」

    「神よ! 命は、誰かを想い、共に過ごす時間こそ! それが命の輝きだ!」

    「救った命を捨てるのか! ならぬ、ならぬぞぉ! 生きてこそ命!」

    「そうだ、捧げろぉ、もっとだ、もっと捧げろぉ!」

    狂気じみた別の低い声が、赤城山の神の声に、神の心に割り込んでいる! 

    「やめろ! 俺は過去を受け入れた!」

    「俺は赤城山の神! 個ではない! 全だ!」

    「奪うためじゃない、共に生きるために!」

    赤城は華厳のネックレスを握りしめ天に突き上げた。
    二つの意志の同時の咆哮が、山を揺らす。

    「ぬあああああ! 俺は赤城! 赤城山の命を──
     ──取り戻す、赤城だ!
     ──守り抜く、赤城だ!」

    赤城山の神の姿が完全に消えた。

    これまでの絶叫が嘘のような静寂が訪れた。

    赤城はゆっくりとこちらに歩いてきた。

    僕らの傍にある神の椅子に腰を深く掛け、虚空を見つめる。
    「お兄ちゃん」と声をかけようとしたが、言えなかった。
    心が、もう“お兄ちゃん”ではないと感じていた。
    しばらくして、赤城は取り巻きの妖魔たちを見回した。

    「赤城様……赤城様……」

    足元の妖魔たちは小さく、懇願するかのように口々に呼びかけていた。両手で頭を抱えた赤城が小さくつぶやいた。

    「妖魔は妖魔でしか生きられん……もう元には……」

    赤城の背後に、…音もなく大きな百足の妖魔が現れた。

    「うわああ!」

    僕らはその化け物から距離を取った。触れられないのは分かっているが、その百足の大きさと、怨念めいたその佇まいからすぐに分かった。こいつが妖魔の本体だ。百足の顔のような部分がカクカクと動いた。

    「そう、おまえはもう、戻れない」

    そう言うと、百足の妖魔はフッと消えた。
    代わりに、泣いているのか笑っているのか分からない赤い百足の仮面が赤城の顔に付いていた。
    椅子から赤城が立ち上がった。

    「妖魔たちよ聞けい! お前たちの神、赤城山の神は今復活した!」

    妖魔たちの歓声が湧き上がる。

    「戦だ! 戦の支度をしろ! 出発は明後日、今度こそ男体山の神の魂を食らうのだ! 男体を、二荒の地を真っ赤に染めろ!」

    赤城山に歓喜があふれた。けど、その歓喜は僕には狂気にしか見えなかった。

    龍之介が叫んだ。

    「おい勇気! 赤城が悪い赤城に戻っちゃったぞ!」

    龍之介は僕の肩をつかんで前後に大きくゆする。やめてくれ、僕はもう体中の力が抜けてるよ……。

    「やめなさいよ龍之介。あーん、でもどうして悪い赤城になっちゃうの?」

    悪い神さま?僕は愛ちゃんと龍之介の言葉になぜかイラッときた。

    「赤城山の神って本当に悪い神様なのかな?」

    言葉が、無意識に口をついて出た。

    「うん……」

    美森ちゃんは迷っているようだ。一方で愛ちゃんが怒ったように返してきた。

    「何言ってんの! 華厳との約束はどうすんのよ!」

    愛ちゃんは何よりもそこが大事みたいだった。

    「そうだなあ……」

    龍之介も美森ちゃんも考えてくれたけど、赤城を見つめるだけで答えが出るわけもなかった。目の前を離れ、別の場所へ歩き出した赤城の背中は……泣いているようにみえた。その拳の中には、今も強く、華厳お姉ちゃんのネックレスが握りしめられたままだった。

    「僕……お兄ちゃんを助けたい」

    自分の口から洩れた言葉に、僕自身が一番驚いていた。でも、あの背中と拳を見たら……放っておけなくなったんだ。

    気づけば僕は、一歩前に出ていた。僕に何かができるわけじゃない。触れることも、声を届けることもできない。それでも、足だけは自然と赤城お兄ちゃんの方へ向いていた。

    辺りが暗くなり始める。僕らはもう、これが一つの物語である事を知っていた。違うのはポケットの中の青い石が、じんわりと熱を持ち始めたことだ。まるで、僕の言葉を待っていたみたいに。

    「勇気?」

    愛ちゃんが僕の異変に気づいて声をかけた。

    ── カッコウ、カッコウ ──

    暗闇にカッコウの声が聞こえた。どこからともなく音楽が聞こえてくる。

    「あれ、カッコウが鳴いてない?」

    「うん、鳴いた」

    「みんな聞いて、……これ、静かな湖畔の輪唱じゃない?」

    「なによ、今度はコンサート?」

    愛ちゃんのツッコミにかぶせるように、静かな湖畔の『輪唱』がどんどん大きくなってくる。それに合わせ、闇の中から、淡い光の粒が宙に舞い上がった。

    「うわっ!」

    その巨大な光の流れはやがて円柱となり、そして頭上で大きく広がっていった。あの時と同じだ。呼吸する光の粒が僕たちを柔らかく照らした。カッコウの歌が終わった。

    同時に、光の柱の中から執事風のダンディなおじさんがこっちに歩いてきた。

    「レディース&ジェントルメン、戦場ヶ原の伝説の舞台へようこそ。私が夢の世界の案内人、その名も、な・か・よ・し! ラブ&ピース」

    シルクハットを脱いでお辞儀するおじさんは、それから僕をじっと見た。作り物めいた笑顔の奥に、一瞬だけ、本物の何かが揺れたように見えた。

    「その言葉、ちゃあんと聞いておったぞ、勇気君」

    「え……」

    僕の言葉? 助けたい、って言ったこと?

    「千年……待った甲斐があったというもんじゃ」

    おじさんはそう言うと、肩のカッコウの人形を揺らして笑った。

    「おじさん……誰?」

    「夢の世界の案内人」

    おじさんは、びよ~んと、操り人形のような怪しいポーズを決めた。

    前編 完


    後編 あらすじ

     妖魔と神と人の融合体となった赤城は、再び二荒に侵攻する。
    迎え撃つ二荒は劣勢となり、鹿島の神に助力を依頼すると、猿丸という謎の男を紹介された。一方、子供たちは、なかよしと共に伝説の世界に飛び込む。神々の争いの中で子供たちは一体何ができるのか?
    青い石が導く未来は、まだ誰も知らない。


    ▶コラム|日光・戦場ヶ原の伝説と舞台実績―神話が生まれるまで


     
     
    作家/構造デザイナー 物事や制度の構造を見抜き、物語の核を作る。 「言葉より行動」「幸せは至るもの」が座右の銘。 地域神話『戦場ヶ原神戦譚』の文化遺産化に挑んでいる。