
それがリベラルなんですかね?
ある政治家への抗議デモで「人殺し」という言葉が使われていた、という記事を読んで、うーんとなった。
どうやら、その言葉を発した参加者の是非をめぐって、「表現の自由か、それとも誹謗中傷か」と議論が起きているらしい。
別に抗議そのものを否定したいわけではないのです。
公人に対して疑問を持つことも、怒ることも、声を上げることもあっていい。それは日本という国において大事な権利って習ってるし、そうだと思う。
ただ「人殺し」と叫ぶのは、正直ダサいと思いました。
なんだか政治批判というより、相手を犯罪者としてラベリングしている感じがあります。もし本当に人殺しなのであれば、それは捜査機関と司法の案件ですからね。法治国家というものは、そういう話なんじゃないですかね。
もちろん、僕は倫理や道徳が立派に備わっているタイプではございません。
皆さんご存知のとおり、派手好きで過激派。
人に誇れるほど上品に生きているわけでもないし、いつも穏やかではありません。
それでも、品性がないと感じますね。
マイノリティの側に立ちたい気持ちはあるんですよ。僕もマイノリティ当事者の端くれ。多数派とか権力とか、自分がイニシアティブを取れる感じは羨ましいです。
が、輪に入れない人に鈍感ではいたくない。リベラルな思想も、分かりたいとは思っているんです。
でも、「人殺し」と叫ぶことに賛同できるかというと、それは別。
少数派の側にいることと、人を蔑むことはまた別のお話。
むしろ、マイノリティだから、リベラル寄りだから、と言って、強い言葉で非難するべきってのは違うよね。
なんなら「気持ち悪い」とか「病気」とか言われてきたり、見てきた部分があるので、その痛みを知っている側としては、なるべく使いたくない。
「表現の自由は大事」
もちろん、それはそう。そこに反対したいわけではない。
ただ、その言葉を言えている時点で、僕たちはそこそこ自由な場所にいるのではないかとも思う。その自由を使って何を言うかは、もう少し考えてもいいんじゃないかな?
表現の自由は、もちろん大事。分かる。では、その自由で他人を「人殺し」と呼ぶことは、どこまで許されるのか。その言葉で相手の名誉や尊厳を削ることは、表現の自由の範囲なのか。
そこまで考えると、僕はかなり怪しいと思ってしまいますね。公人である前に、人は人であり、その人にも家族や友人がいる。想像力は失いたくないですね。
僕は「正しい」を疑っているのかもしれない。
自分の中で「正しいもの」と認知した時、「正しくないもの」を排除するのが正義になってしまうんでしょうね。
以前、人間には制裁要求ってのがあるって話を書きました。
簡単に説明すると【農耕や狩りで生きてた人間は、コミュニティを守るためルール違反をしたとき、罰を与えて気持ちよくなる】という本能があるって話。
結構、当てはまると思いません?
僕は自分が正しいと思っていることが、本当に正しいのかは分からない。少なくとも、少し疑いながら生きていきたいなと思っています。
だもんで、簡単に「人殺し」なんて大層なラベリングしたりすることには慎重でいたいですね。脳内物質が出て気持ちがいいんだとは思うんだけどね。
そして、実際にそうやって言葉をぶつけられた人が命を絶った時「人殺し」と叫んでいた人たちは、自分の言葉をどう扱うんですかね?
まさか「逃げた」とか言って、また違う標的を探すんですかね。
「人殺し」と叫んで相手をラベリングすることに、僕は賛同できません。それが権力批判の形をしていたとしても、リベラルというより、ただの暴力的な反権力に見える。
自分が信じたいリベラルは、もっと優しいものであるはずなのですが。
まぁ、リベラルも左派も、人によって使い方が違うし、僕が勝手に期待しているだけの部分もあるかも。
怒ることはあっていいし、抗議することもあっていい。公人を批判することもOK。
ただ、人を蔑む言葉は、その時、気持ちいいだけなんじゃないですかね?
そんな人と一緒に見られるのは、申し訳ないけど無理すぎ。
最近だと、そっちの方がリベラルなんですかね?