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Photo byr0ckfujifab0710

「他作批評『犬とあるけば(くいたろう)』(kuwanya)」批評

    山本蛇内 yamamotojanai

    「人の文章を勝手に批評する」、その試みを勝手に批評する。
    勢いで。
    だって、ぼくの中のブルース・リーが云うのだ。

    「考えるな。批評ひひょしろ。」

    エミネムがラップ・ゴッドなら、kuwanyaさんは国語ゴッドなわけだが、
    「であっても、ぼくがkuwanyaさんにさえ言えちゃう、それがno+e記事」
    って、その担保のためだけにやる、そういう側面もある。

    くいたろうさんの原文と、kuwanyaさんの批評をお読みいただいてから、本記事読み始めてくだされば。

    大前提は、disではなくて、respectだ。
    だけど、「違う読み」をしている箇所もあるよ(人それぞれ、そらそうよ)なんて、示したくなった感じだ。

    そして、書き終わって、思うこと。
    「純粋な批評批評」には、ならなくなってしまった。
    くいたろうさん記事にたいする「一次批評」と、kuwanyaさん批評記事にたいする「批評批評(二次批評)」が、ごっちゃら混じり合う記事になってしまいました。
    ご勘弁ください(甘え)。f^_^;)


    本記事の構成は、

    引用表記が、くいたろうさんのオリジナル本文

    地の文(文字サイズ標準)が、kuwanyaさん批評本文

    デカ文字が、山本の批評部分です。



    散歩になる。

     もちろんタイトルから続けて、ことわざをもじった形のフレーズとして成立しているのだが、あえてタイトル抜きで、この一文から始まっている文章として読むのも面白い。たったの五文字だが、魅力的な書き出しだ。

    ここは完全同意です。


    犬も飼っていないのに、何を言ってるんだろう。
    ようやく暖かい陽気になり、今は桜が満開です。

     文体はちょっとちぐはぐ。他の文はすべて常体なのに、「今は桜が満開です」だけ常体なのは、誰か・何かへの呼びかけなのだろうが、ここだけ読者に呼びかけるのは意味不明だし、かつての犬や今の息子に対する呼びかけとしては言葉が合わない。語感としては「今は桜が満開だ」より「今は桜が満開です」のほうが圧倒的によいので気持ちはわかる。「暖かい陽気」というのも意味が重複しているが、これも気持ちはよく分かるし、実際に「頭が頭痛だ」というべき場面も存在はする。

    「何を言ってるんだろう」と独りごちた感じを、「持ち直すベクトル」で、「です。」表記をしていると読んだ。よって、ここはこれで良いと感じている。


    桜が咲くと、お花見がしたくなる。
    友だちと、家族と、土手で、公園で、用水路で…
    楽しく、賑やかに過ごす花見も好きだけど、私は実家近くの工場を囲むように咲いていた桜並木が、一番好きだった。

     話題を繋いでいくための自然な文章だが、「友だちと、家族と」の部分と「土手で、公園で、用水路で」の並立の部分は数が揃っている方が美しかったかもしれない。「実家近くの工場」が「賑やか」の対義語として用いられているわけであるから、一般に「賑やか」とは結びつきにくい「用水路」は余計だったのかもしれない。

    好みの押し付けになることは承知で山本が書けば
    「友達と、家族と。
    土手で、公園で、用水路で。」
    と行替えしただろう。
    「用水路」は、確かに賑やかさとは結びつきづらい単語。ではあるが、「くいたろうさんのリアリティ」は用水路にあったと読め、変更しかねるはず。


    当時は今のように住宅もなく、周りは空き地と雑木林ばかり。
    通るものといえば、工場に向かうトラックくらい。
    朝にはブームになり始めたウォーキング熟女ガールたちの、賑やかな話し声が足早に通り過ぎ、
    夕暮れ時には、ぽつぽつと犬の散歩たち。

     「当時は今のように住宅もなく、周りは空き地と雑木ばかりで通るものといえば、工場に向かうトラックくらいだ。朝にはブームになり始めたウォーキング熟女ガールたちの、賑やかな話し声が足早に通り過ぎ、夕暮れ時には、ぽつぽつと犬たちが散歩する」
     ほとんど同じ単語を用いて俺が描写するならこのようになる。これはこれで落ち着いた描写だが、原文のように体言止めと改行がなされることで、まったく印象の異なった文章になる。「ぽつぽつと犬の散歩たち。」は、本来全く意味不明な非文のはずだが、ちゃんと情景が伝わる。あるべき体言止めの形といえるだろう。他の文がすべて小気味よいリズムで構成されているだけに、「ウォーキング熟女ガール」はやや過剰な修飾であったのかもしれない。「朝にはブームになり始めた熟女たちの、賑やかな話し声が足早に通り過ぎ」の方が読みやすいし、「ぽつぽつと犬の散歩たち」が視覚的にも効いてくるだろう。

    kuwanyaさんごめんなさい、「朝にはブームになり始めた熟女たちの、」は、賛同できない。
    「ウォーキング熟女ガール」の、揶揄、面白がりの感覚を尊重したい。


    小学校6年生の時に引っ越してきてから、高校卒業までの7年間、朝と夜に必ず散歩をしていた。
    犬と一緒に。

     これは良い。「犬と一緒に。」は、一見過度なレトリックにも感じるが、冒頭の「散歩になる。」が効いているため、読んでいてすっと入ってくる。必然性のある倒置法だ。

    完全同意です。


    思春期になってから転入した学校は、やや閉鎖的だった。
    ひと学年に10人も転入生がいれば、確かに「侵略される」ような気持ちになるのかもしれない。

    転入生はまるで異物のよう。
    わからない昔の話題。あの人がズルをしていたとか、誰が誰を好きだとか、嫌いだとか。

    「侵略される」にカギ括弧を振るのはやや解せない。これまでに登場している語句と何かしら関係があるわけでもないし、今後の伏線になっているわけでもない。筆者の内心にピタリとはまる言葉なのだろうが、描写なしでは「確かに」と言われても読者は誘われない。

    同意です。元からいた児童の発言エピソードの紹介が欲しかったところ。


     後段はすばらしい。「あの人がズルをしていたとか、誰が誰を好きだとか、嫌いだとか」。これ自体は「かけがえのない小学校の他愛もない思い出」として成立する内容なのに、だからこそ、転入生の感じる疎外感が非常によく伝わる。内輪ネタという自覚すらなく無邪気に盛り上がっていた幼少期の自分を思い出して、ハッとした読者も多かったのではないか。

    同意です。「転入生である自分」の主観100%で、バランスなど考えず、語られてオッケーな箇所。


    麦コーラをかけあって遊んだり、おやつ欲しさに公民館のそうじを手伝ったり、火おこしが楽しくて用務員のごみの焼却を手伝ったり。
    学校に大勢で集まって鬼ごっこをしたり。
    前の年までは、前の学校で無邪気に遊んでいたのに。
    年度が変わり学校が変わっただけで、こんなにも窮屈でドロドロとした人間関係になるのか。

    「麦コーラ」がよい。麦コーラってなんだよ、仮に普通のコーラだとしても飲み物をかけあって遊ぶような真似はしねえだろ、という感じなのだが、「異物」としての思い出を語っているのだからそれでよい。

    同意です。「麦コーラ」であること、それによってしか出せない味わい。(ちなみに、「麦コーラ」=「メッコール」的何か?)


    ぼーっと、自分らしくいられる場所として、犬との散歩の時間は最適だった。

     思い出が「窮屈でドロドロ」としすぎないあたりで本線に戻って来る。絶妙なバランス感覚だ。

    山本ならこの直前に、「〜〜なだけで、こんなにも〜〜になるのか」が共通な2エピソード目を入れてしまうだろう(やはり好みの問題)。


    ひとりで歩けば不安もあるけれど、いつだって犬がいた。
    ひとりと一匹で、走ったり、歩いたり。
    犬は匂いを嗅いでいたり、ぐるぐる回ったり。
    突然思いついたように思い切り走りだしたりする。自由だ。
    笑いながら一緒に走って、「もう、いきなり走らないでよ」なんて、わからないのに声をかけていた。

    「ぐるぐる回ったり」、「もう、いきなり走らないでよ」。本当に犬と散歩した者でなければ書かない記述だろう。体験を踏み倒すことができるのは、言葉のもつとんでもない技芸の一つであるが、体験通りに書かれた言葉は、同じ体験をもつ者を慰撫するものだ。

    「体験を踏み倒す」が、伝わりづらいと感じた(というか、正直に言うと、分からなかった)。「体験を、起こったままには語らない(で語る)」という意味だろうか。


    シェパードの家を通る時は、吠える声とフェンスに体当りする音が怖くて(時々フェンスが開く時がある!)
    ひとりと一匹は息を潜めて、小走りで通り過ぎた。
    早く帰りたいときは30分、
    まだひとりでいたいときは、1時間一緒だった。

     「まだひとりでいたいときは、1時間一緒だった。」
     あまりにも素晴らしい、傍線を引きたくなる逆説的な一文だ。「ひとりでいたい」のに「一緒だった」とは、一見矛盾でしかない。しかし、犬の散歩としてこれ以上に正直な文章ではない。物言わぬ畜生と、物言わざるを得ない我々人間は、決して「ふたり」にはなれない。彼らは「ひとりと一匹」であらざるを得ないが、それは、「ふたり」では決してなしえないかけがえのない「一緒」の経験である。

    うっかり読み流してしまうこともありそうなこの表現を適切に拾い、光を当てている点、素晴らしいです。


     誰にも気を遣わず、誰とも話さず、ただ足を交互に動かす作業の中で、ヘンゼルとグレーテルみたいに、ぽとぽとと何かを落としていたのかもしれない。

     直前が素晴らしいだけに、やや気に食わない比喩である。「ヘンゼルとグレーテル」と書かれてしまうと、筆者がヘンゼルで犬がグレーテルであるかのような錯覚をしてしまう。言うまでもなく犬はヘンゼルでもグレーテルでもなく(だからこそ散歩は「ひとり」の体験でありうる)、ここでの「ヘンゼルとグレーテル」を分けて読むことが誤りであるのはわかっているのだが、構成として少し障ってしまう。

    ここは逆に、感覚的にうかうかと読むのが正解な気がします。「少女と犬」、そして「ヘンゼルとグレーテル」、どちらも、「分けられないひとまとまり」ととらえ、厳密に読まないのがいいように思いました。


    寒ければ寒さで頭が一杯になり、
    暑ければ…そういえば暑い時の記憶がないな。
    涼しくなってから行っていたのかもしれない。
    昔は夕立のあと、涼しかった。
    そうだ、夏には空き地の草いきれの匂いがすごかった。
    放置された空き地では、少しでも陽の光を得ようと雑草たちが競い合うように伸び、私の腰を超えていた。
    通行止めの道路の先に座り込めば、伸びた草で簡単に姿を隠せた。

     幻想としての思い出が読者の頭に去来する。そういう普遍的な「個人の体験」の描写だ。すばらしい。

    人は五感、いやそれ以上の感覚をフルに使って活動する生き物で、若年期の方がより鋭敏だ。くいたろうさんは、少女ではなくなった今なお、それを呼び起こす力に優れている(あるいは、保持している)。だから、この外界の感じ方を「活写」できる。


    通行止めの看板は、何者も通さないバリアのよう。
    犬がいた。だからずっとぼーっとそこにいられた。

     感覚的には、「犬がいた。」で改行したいが、
    通行止めの看板は、何者も通さないバリアのよう。
    犬がいた。
    だからずっとぼーっとそこにいられた。
     なるほど。ビジュアルがいまいちか。

    すごいや。こんな2行書ける人、なかなかいない。


    そうして春のこの季節になると、遥か前方までずらりと並ぶ桜の木々。
    風に吹かれて、はらりはらり、くるりくるりと舞い落ちる、たくさんの桜の花びら。
    伸びた枝が地面に向かって垂れ下がり、くぐれば桜のトンネルのような散歩道。なにもない風景を、儚く美しく彩ってくれる桜並木。

     ここはまあ普通。先程の「草いきれの空き地」の描写は「私」が入り込んでいたのに、こっちは桜の描写だけだから、きれいな描写のはずなのに、それほど印象には残らない。言葉を選ばずにいえば、陳腐な表現なのかもしれない。

    同意です。「先へ進める」部分。


    月日の経過とともに、空き地や雑木林がひとつずつ姿を消し、代わりに家や社宅が建ち並んだ。
    あのとき一緒に歩いた犬も、もういない。
    けれど、桜は毎年変わらずに同じ景色を見せてくれる。
    毎年きれいに咲いてくれる。
    やっぱり、この桜並木が一番好きだ。

     ああ、なるほど、だから陳腐だったのか。これには舌を巻く。意図しての構成ならうますぎる。
     そして、圧巻の最後の段落。ただほっこりするだけではもったいない。構成の妙に声を上げてうなるべきだ。

    「桜や桜並木は、どれだけ文章を飾っても陳腐になってしまう。そういう類のものなのかも」、と気付かされた。
    あるいは、多くの人が、「共有する視覚の記憶」として桜の開花や並木道の映像を持っている。凝りすぎる必要はないのかもしれない。


    今日、父の家に向かうとき、少し遠回りしてあの桜並木を見ながら行った。
    あのときの犬はもういないけれど、今は息子がいる。
    「すごくきれいだね」
    風に舞う花びらか、連なる桜の木々か。
    まっすぐに延びる桜並木の入口で、そんなことを言っていた。
    「そうだね。ママはここの桜が一番好きなんだよ」
    犬と歩いた桜の道。
    きれいな桜並木ではないけれど、人もいなくて、桜だけのこの道が一番ほっとする。
    「ぼく、春が一番好きかもしれないな」
    そうか、それはとてもうれしいな。

     大人になった筆者は、息子と「ふたり」で道を歩く。だから、これは、もう「散歩」ではない。

     好きを分け合うしあわせと。
     それゆえに漂うさみしさと。


    若き日に犬と一緒に歩いた時間と、いま息子と二人で歩く時間とで、優劣はない。


    あるいは、どちらの時間を取り払っても、いまのくいたろうさんの生は有り得ない。


    ひとつの時間の中に、くいたろうさんはいる。


    過去の時間にも、今いまも、「好きを分け合うしあわせと。/それゆえに漂うさみしさと。」は、くいたろうさんの人生に発生していたはず、と思う。


    でも、この感傷的な「終わり方」自体に、くいたろうさんの文章にたいするkuwanyaさんの愛着が、とても強く感じられる。
    それが、めちゃくちゃ好きです✨

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    X他SNSを山本蛇内名義で使ってません。なりすまし垢通報願います😭HN読み「やまもとじゃない」。本名は山本じゃないです、全国約102万人強の山本姓誰かじゃないです。 昭和49年まれ、フォーティーナイナーズを自称。 「心の遊び、心に遊び」などと申しながら、書きますぜ_φ(・_・

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