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vol.3 The Tourist — 速すぎる世界で、立ち止まるということ


一、加速していく時間


最近、自分の時間が以前より速く流れているように感じる。

一日は昔と変わらず24時間のはずなのに、気づけばもう夜になっている。仕事をして、数字を見て、ニュースを追い、AIと話しているうちに、一日という器がいつの間にかいっぱいになってしまう。

特にここ数年、その速度はさらに上がった気がしている。AIの世界では、昨日まで新しかったものが数か月後には古くなり、企業の決算を追えば、売上成長率や利益率、設備投資の数字が次々と更新されていく。

投資をしていると、そうした変化から目を離さないことが正しいようにも思えてくる。次はどの企業が伸びるのか、どこへ資本が流れるのか。気がつけば、まだ起きてもいない未来のことをずっと考えている。

そうしているうちに、自分自身のリズムまで少しずつ速くなってきた。

とはいえ、それが嫌なわけではない。むしろ、こういう時代が何だかんだ好きなのかもしれない。

世界の形が大きく変わっていく途中にいて、その変化を毎日のように追いかけられることには、単純な面白さがある。情報の洪水の中を泳ぎながら、次の波を探している時間も嫌いではない。

だからこそ、ときどき止まる理由を見失ってしまうのだと思う。

二、没入が消えていく


そんな変化は、自分の生活の中にも少しずつ現れている。

昔は映画が好きで、一本の作品を最初から最後までじっくり観ることが普通にあった。映画館へ行くこともあれば、家で朝から晩まで物語の中へ身を預けている日もあった。

ゲームも同じだった。休日になればテレビの前に腰を据え、何時間も別の世界へ入り込んでいた。あの頃は「時間を忘れる」という言葉が、そのまま当てはまっていたように思う。

ところが今は、そういう時間がずいぶん減った。

Netflixを開いても、まず何を観るかで迷う。ランキングを眺め、予告を少し再生して、これは面白そうだなと思いながら、また別の作品へ移っていく。

そうしているうちに、不思議なことに映画を観たいという欲求そのものが、かなり満たされてしまう。

一本も観ていないのに……。

我ながら、効率がいいのか悪いのか、よく分からない。入り口だけを何度も撫でながら、結局その扉の先へは入っていない。そんな感覚だけが残る。

それを繰り返しているうちに、ほとんど使わなくなったNetflixも少し前に解約した。使っていないものを解約しただけなのだから、判断としては合理的なのだろう。それでも、その合理性の横には小さな引っかかりが残った。

ゲームも似ている。

今では誰かの実況を少し見ただけで、それなりに満足してしまうことが増えた。もちろん実況を見ること自体は楽しい。ただ、本当は自分で冒険したかったはずなのに、いつの間にか誰かの冒険を横から眺めるだけで終わっている。

自分の足で歩いた記憶ではなく、誰かの足取りを眺めた記憶だけが増えていく。

映画もゲームも、嫌いになったわけではない。今でも好きなはずなのに、一つの世界へ長く身を預けることが、以前より難しくなっている。

単に趣味が変わっただけなのだろうか。それとも、自分の中の時間の流れ方そのものが、どこかで変わってしまったのだろうか。

仕事も面白いし、投資も面白い。AIについて考えている時間も好きなので、何かを犠牲にしているという感覚は普段それほどない。

それでも、このままでいいのだろうかという疑問だけは、どこかに残っている。

三、『The Tourist』という距離感


そんなとき、Radioheadの『The Tourist』を聴きたくなる。

『OK Computer』の最後に置かれたこの曲は、アルバムの中でも少し離れた場所に立っているように聞こえる。不安や疎外、機械と人間の距離、都市の冷たさのようなものを通り抜けたあと、最後にこの曲が静かに残されている。

何かを解決するわけでもなければ、救いを大げさに語るわけでもない。ただ、走り続けている人間を、少し離れたところから眺めているような距離がある。

私は、そこが好きなのだと思う。励まされているわけでも、説教されているわけでもなく、自分がどれくらい速く走っていたのかを、ふと確認させられるような感覚がある。

曲そのものにも、どこか急ぐことを拒んでいるような空気を感じる。ギターは大きく広がりながらも前へ前へとは急がず、トム・ヨークの声にも、何かを急いで伝えようとする焦りがあまりない。

『OK Computer』というアルバム全体を走り抜けた最後に、道路の脇へ車を止めて、エンジンを切ったようにも聞こえる。

あの曲を聴いたあとは、しばらく頭の中の速度が落ちていく。

普段ならすぐに次の情報で埋めてしまう場所に、何もない時間が戻ってきて、昔考えていたことや忘れていた感情、何年も前に見た風景、そのときには意味が分からなかった誰かの言葉まで、ばらばらのまま浮かんでくることがある。

新しい何かを考えているというより、忘れかけていた自分の断片を拾い集めている感覚に近い。

不思議なのは、そんな時間の中から新しい考えが生まれることもあることだ。必死に答えを探しているときではなく、少し力が抜けたときに、それまで離れていたもの同士がふいにつながっていく。

たぶん、考えることと、考え続けることは少し違う。

何も考えていないような時間にも、頭のどこかでは何かが動いているのかもしれない。今の社会にいると、つい考え続ける方へ引っ張られてしまうから、ときどき何もない時間が戻ってくることに、少しほっとする。

四、誰もが同じ速度で生きなくていい


スマホを開けば情報があり、AIに聞けばすぐに答えが返ってくる。市場もニュースもSNSも、こちらが休んでいる間に動き続けている。

AIが身近になってからは、情報を探す時間まで短くなった。便利になったぶん、そこで空いた時間には、また次の情報や仕事を入れられてしまう。いい悪いというより、文明そのものの速度が上がっているのだろう。

私は、その流れに乗ることを楽しめる方だと思っている。新しい技術を知ることも、変化の速い市場を追うことも好きで、情報の波へ飛び込んでいくことには、それなりの快感もある。

ただ、誰もが同じリズムでこの変化を受け止められるわけではない。

変化を刺激として楽しめる人もいれば、不安や違和感として受け取る人もいる。新しいサービスが次々と現れ、昨日までの常識が簡単に書き換えられていく中で、自分だけが社会から遅れているように感じることもあるだろう。

私自身、社会の流れから少し取り残されているように感じることがある。周りの景色だけが先へ進んで、自分だけが同じ場所に立っているように思えたり、何をしても社会のリズムとうまく噛み合わないような感覚に包まれたりする。

だから、みんなが同じ速度で生きる必要はないのだろうとも思う。

情報の洪水の中を泳ぐことが好きな人もいれば、一つのことをじっくり考える人もいる。新しい技術を次々と試す人がいる一方で、昔から大切にしてきたものを守りながら生きる人もいる。

誰かの速度を正解にするのではなく、自分にとって心が安らぐリズムを探していく。そのくらいでいいのかもしれない。

皆さんにも、社会の流れと自分の歩幅が少しずれているように感じることはないだろうか。

もしあるとしても、その違和感を急いで消す必要はないように思う。それは、自分と周囲の速度が少し違っていることを知らせているだけなのかもしれないし、そのずれがあるからこそ見える景色もあるのだろう。

五、時間の流れ方が変わる場所


誰にでも、普段とは少し違う時間が流れる場所があるのではないだろうか。

旅先で偶然出会った景色のいい場所や、自然の中で焚き火を眺めている時間。温泉に浸かって何も考えずにいるときもあれば、知らない街を目的もなく歩いているときにも、似た感覚になることがある。

逆に、フェスやクラブで一晩中音楽に身を任せているような時間でもいい。

静かな場所だけが、人を立ち止まらせるわけではない。音に包まれて、ほかのことを考えられなくなるほど夢中になっているときも、いつもの時間からは少し離れている。

不思議なのは、そういう時間には何かを生産しているわけでも、未来のために準備しているわけでもないのに、あまり無駄だとは感じないことだ。むしろ普段とは違う形で、頭の中がゆっくり整理されていくこともある。

『The Tourist』を聴いているときも、それに近い。

世界から逃げるのではなく、いつもの時間から少しだけ外れて、自分がどれくらいの速度で走っていたのかを確かめる。

そして少し困るのは、そういう時間があまりにも心地いいことだ。このまま何も追いかけなくてもいいのではないか、と思うことさえある。

ところが、しばらくそこにいると、また外の世界が気になってくる。新しい技術や市場、仕事のことが、今度は少し遠くから、ゆっくりと意識の中へ戻ってくる。

完全に離れたいわけでもなく、ずっと走り続けたいわけでもない。その間を行ったり来たりしているところに、自分というものがあるのかもしれない。

人の心は、ずいぶんわがままだと思う。穏やかさを欲しがりながら刺激も欲しがり、ゆっくりしたいと思いながら未来を知りたがる。

だから、どちらか一方だけを選ばなくてもいいのだろう。

走る時間もあれば、止まる時間もある。その間を行ったり来たりしながら、自分なりの速度を探していく。

そのくらいの揺らぎがある方が、人間らしい気がしている。

六、AIと人間の共存、そして人と人の共存


ここまで考えていると、最近よく語られる「AIと人間の共存」という言葉も、少し違って見えてくる。

もちろん、それはこれからの社会にとって大きなテーマになるだろう。ただ、それと同じくらい、人と人がどう共存していくのかという問題も重要になっていくように思う。

社会の速度が上がれば、人それぞれの歩幅の違いも以前より見えやすくなる。変化を面白いと感じる人がいる一方で、その速さの中に不安や孤独を覚える人もいる。

しかも、それは人によって固定されているものでもない。

同じ人の中にも、前へ進みたいときがあれば、少し立ち止まりたいときがある。昨日までは情報の波を楽しんでいたのに、今日は静かな場所にいたくなることだってある。

人のリズムは、性格のように一つに決まっているものではなく、そのときの心の状態や環境によって揺れ動くものなのだろう。

そう考えると、誰かを「変化についていける人」「ついていけない人」と簡単に分けてしまうことにも違和感がある。その違いを能力や努力だけの問題として片付けるより、お互いのそのときの歩幅を少し想像してみる方がいい。

完全には分かり合えなくても、相手が今どんな速度で歩いているのかを考えてみる。少し待つこともあれば、すぐに否定せず、その人にはその人なりの事情があるのだろうと想像してみる。

そんな関わり方が、これからは以前より大切になっていくのかもしれない。

七、正しさが複数ある世界で


そして、人によって違うのは「速度」だけではないと思う。

何を大切にするのか、何を守りたいのか、どんな社会で生きたいのか。そうした価値観も、その人が生きてきた環境や経験によって少しずつ違ってくる。

政治の世界では、それが右や左という言葉で分けられることが多い。けれど、人間の思想は本来、それほど単純な一本の線の上には並んでいないように思う。

伝統や安定を大切にしながら、別の問題では新しい価値観を受け入れる人もいる。個人の自由を重視しながら、経済では一定の再分配が必要だと考える人もいるだろう。

政治哲学には「価値多元主義」という考え方がある。自由や平等、安全や多様性のように、人間が大切にする価値は一つではなく、ときにはどちらも大切なのに、完全には両立できないことがあるという考え方だ。

そう考えてみると、政治的な対立の中には、単純な善悪というより、どの価値をどこまで優先するのかという違いもかなり含まれているのかもしれない。

もちろん、何でも価値観の違いとして受け入れればいいわけではない。事実に反することや、誰かの権利を明らかに踏みにじることまで、多様性という言葉で済ませることはできない。

それでも、自分とは違う結論にたどり着いた人が、必ずしも無知だったり、悪意を持っていたりするとは限らない。

育った環境も違えば、経験した成功や失敗も違う。
何を失うことを怖いと感じるのかも、人によって違ってくる。

ある人にとって変化は希望に見えても、別の人には、大切にしてきたものが失われていくように映ることがある。逆に、誰かにとって安心につながる伝統が、別の人には自分を縛るものに感じられることもあるだろう。

そこまで考えると、右か左かという言葉だけでは、
その人がなぜその考えに至ったのかまでは見えてこない。

だから必要なのは、相手に同意することよりも、自分の見方にも限界があると考える姿勢なのだと思う。

少し難しい言葉では「認識論的謙抑」と呼ばれる考え方に近い。自分なりの意見は持ちながら、自分には見えていないものがあるかもしれないという余地だけは残しておく。

それは曖昧になることとは違う。新しい事実や別の視点に触れたとき、考え直す可能性まで閉じないということだろう。

ただ、今の情報環境では、そうした姿勢を保つことが少し難しくなってきていると思う。

SNSでは自分と近い意見が集まりやすく、似た考えを何度も目にしているうちに、それが社会全体の常識のように感じられることもある。いわゆるエコーチェンバーと呼ばれる状態だ。

さらに、政策や思想の違いよりも「あちら側の人間が嫌いだ」という感情の距離が広がっていくこともある。政治学では、こうした状態を「感情的分極化」と呼ぶ。

そしてAIも、この問題の外にはいないように思う。

AIの答えも、完全に無色透明なものではない。どんな情報を学び、どんな価値基準で調整され、どんな文化の中で作られたのか。その影響を完全になくすことは難しい。

だから、複数のAIが少し違う答えを返すこと自体は、必ずしも悪いことではないのだろう。むしろ、どこで一致し、どこで意見が分かれたのかを見ることに意味が出てくるのかもしれない。

大切なのは、AIの数よりも、異なる前提や反論が残されていることではないだろうか。

人間の集団にも、合意を重視するあまり疑問が出にくくなる「集団思考」がある。AIを使う時代にも、形を変えながら似たことが起きる可能性はある。

だとすれば、一つの正しさに急いで落ち着くより、違う視点が残っていること自体に意味があるのかもしれない。

人間同士でも、たぶん同じだ。

完全に分かり合えなくても、意見が違ったまま話を続けることはできる。自分なりの正しさを持ちながら、それだけが唯一の正しさだとは決めつけない。

そういう少し時間のかかる関わり方も、多様な人間が同じ社会で生きていくためには、大切なのだと思う。

八、答えの速さでは埋まらないもの


AIはこれから、人間よりずっと速く答えを出すようになるのだろう。

けれど、人の孤独を軽くするものは、答えの速さとは少し違うところにあるような気がしている。

誰かの話を聞いたり、ただ隣にいたり、全部を理解できなくても、その人が感じているものを一度受け取ろうとする。そんな時間には、答えを出すこととは別の意味がある。

思いやることも、許すことも、分かろうとすることも、効率だけを考えれば遠回りに見えることがある。

それでも、AIと人間の関係ばかりが注目される時代だからこそ、人と人の心が触れ合う時間にも、改めて目を向けてみたい。

キルケゴールは、人間を完成した存在としてではなく、選択や迷いの中で自己になり続けていく存在として捉えた。

そう考えると、自分のリズムも、一度見つければそれで終わりというものではないのだろう。

社会の速度が上がる日もあれば、自分の心の方が先に疲れる日もある。昨日は情報の波を楽しんでいたのに、今日は静かな場所にいたくなることもある。

そんな揺らぎまで含めて、自分なのかもしれない。

九、途中下車という生き方


現代社会は、ものすごい速度で走る列車のように前へ進んでいる。

私は、その列車から完全に降りたいとは思わない。
どこまで行くのかを見てみたいし、その速度に乗っていることを面白いと感じる自分もいる。

ただ、ときどき途中の駅で降りて、しばらくホームに立っていたい。

遠ざかる列車の音を聞きながら、自分はどこから来たのか、途中で何か大切なものを置いてきてはいないか、あるいは誰かを置いてきてはいないか。そんなことを、答えを急がず考える時間があってもいい。

また列車に乗りたくなったら乗ればいいし、もう少しここにいたいと思えば、次の一本を見送ることもできる。

そのときの自分が、どんな速度を心地よいと感じるのかは分からない。昨日と今日で違うこともあれば、明日にはまた変わっているかもしれない。

たぶん、自分のリズムというものは、一度決めたら守り続けるものではない。そのときの心と一緒に揺れながら、何度も探し直していくものなのだと思う。

どこへ向かうのかは、まだ分からない。

それでも私は、この先もときどき立ち止まり、また歩き出しながら、そのときの自分にとって心地よい速度を探していきたい。


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