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沖縄 慰霊の日に〜元軍医の祖父が遺した言葉〜「生死を分けた決断と奇跡、そして祖父の死後に訪れた不思議な引き寄せの話」

    今日は沖縄慰霊の日です。
    祖父は医師として生涯を送り、平成10年(1998年)6月30日に亡くなりました。
    その祖父が、太平洋戦争の沖縄戦で軍医として従軍していたことは、身内で大事に受け継がれてきたものです。

    遺品整理時に祖父のパソコンの中から沖縄戦の記録が見つかりました。
    それは、当時の祖父自身の言葉でつづられた、貴重な記録です。

    沖縄の慰霊の日にあたり、祖父が遺したその手記を、ここにそのまま載せたいと思います。


    太平洋戦争最後の捕虜

    1945年4月1日 米軍は南方諸島の日本軍を制圧した後、沖縄本島嘉手納付近の北谷、読谷の海岸に50万の機動部隊が易々と無血上陸した。これに対し11万の日本軍は僅か1ヶ大隊の歩兵を「をとり部隊」に使って、米軍を首里の防衛線まで引き付ける作戦をとった。此の作戦に引っ掛かった米兵達は、今日はエイプリルフールかな、などとうそぶきながら前進を続けて行った。
    此のとき洞窟や秘密陣地に潜んでいた日本軍の重火器が一斉に火を吹き出し、米軍はパニックに陥り、大損害を被った。然し圧倒的に優勢な米軍は、あり余る火力に物を言はせ、徐々に押し返しを図り、首里の防衛線に迫って、両軍の間には2ヶ月に及ぶ凄惨な死闘が繰り広げられた。此の戦闘で両軍は共に甚大な損害を被り、日本軍の兵力は半減し、野戦病院をもたない日本軍傷病兵達はその場で自決を強いられ、両手が使えず自決出来ない者は、軍服の袖に縫い込んだ青酸カリ袋を齧って死んだ。米軍の方でも日本軍を攻めきれない4っの歩兵大隊長が解任されたという。それ程日本軍も猛烈に戦ったのである。

     かくして日本軍も死に物狂いで頑張ったが如何んせん、多勢に無勢、撤退の外なく司令部は首里城の地下壕を抜け出し、夜陰に乗じて深夜数万の大軍が、秘密のうちに豪雨の中を南部の島尻郡へと撤退して行った。残された多くの傷病兵は自決した。
    この日は梅雨時の5月27日頃で、闇夜が幸いし、艦砲、陸砲、迫撃砲、ロケット砲などの絨毯爆撃を受けずに、摩文仁や喜屋武村の洞窟群に逃げ込む事ができた。。

    然し乍らすんなり逃げられた訳ではない。私の所属する第24師団歩兵第22連隊第1大隊は、満州東安から昭和19年8月に沖縄に派遣されたもので、私は大隊の高級軍医として勤務して居た。沖縄では読谷に駐屯し、翌20年4月1日米軍が嘉手納に上陸してからは、日米間に凄絶な死闘が展開されたが、無闇に突撃ばかり繰り返す精神主義の大和魂戦法では、我が軍の兵力は半減するばかりで、4月10日には首里の線まで追い詰められた。この間私は患者収容所を洞窟の中に開設したが、寝る水も無い壕の中では出血死、破傷風、ガス壊疽などで死者続出、私と衛生兵は、艦砲射撃の合間に死骸を弾痕の穴の中に投げ込む仕事が永くつづいた。傷病兵は収容所で治療を受けても居る場所が無いので、南風原の野戦病院に行け、歩けない者は這って行けと、叱るように追いやって居たが、一人も着いて居なかった。艦砲に食われたのであろう。

     4月12日は大本営にせかされて師団 総反撃を企て、我が大隊は白鉢巻きに銃剣だけの武装で、十字砲火の中に飛び込んで行った。私も衛生兵を率いて大隊に従いて行ったが、忽ち曳光弾、照明弾に発見された。敵情も分からず方向も見分けがつかず、逃げ場もなく、玉砕同然となった。大、中隊長以下殆ど戦死し、部隊は指揮系統を喪失、下士官以下四散し、大隊は消滅同然となった。兵士達は指揮者もなく、個々に砂糖黍を囓りながら南下した。皆が敗残兵となったのである。私も敗残兵だった。

    摩文仁に着く頃は、どの壕も満杯で中に入れて貰えない。無理に入ろうとすると、兵隊が銃剣を突き付ける。壕には入れない兵隊は銃剣を翳して、既に壕に入って居る民間人を追い出す者も居た。皇軍変じて夜盗化したのだ。追い出された人々は全員艦砲で吹き飛ばされる運命にあった。沖縄の人々は生き残った我が身を自嘲して《艦砲の食いぬくち》(艦砲の食べ残し)と言って居た。《いぬくち》の人々も敗残兵の私も、他の敗残兵や民間人と同じく、戦車や火炎放射機に追い回され、死屍累々の丘陵地帯を、南の海岸目指して転びつまろびつしながら必死に逃げ惑って行った。陸上には夥しい数の、色とりどりの降伏勧告のビラが撒かれて居たが、洗脳された将兵達でそれを拾って読む者は一人も居らず、また住民達にも見せなかった。この戦陣訓の精神は、日本陸軍始まって以来の伝統で、捕虜に成った者は永久に国に故国に帰れず、家族は国辱の汚名に屈しなければならなかった。
    この戦陣訓の呪縛に罹った幾10万人の軍人が、過去幾つかの戦争で、言われもなく自決したり、国を捨てたりした。いたわしい事であった。牛島軍司司令官以下この呪縛で死を選び、兵達も将軍に倣い自決した。かくして32軍は玉砕(全滅)した。私もまた呪縛が解けず、戦車の火炎射機に追われて、ひたすら喜屋武岬の絶壁への降り口目指して走りに走った。幸いにも弾丸に当たらず、やっとのことで絶壁の海岸に降り立つた。

    絶壁の高さ20米、波打ち際には巨岩が、70−80米にわたって重畳し、海岸は一応安全地帯に見えた。然しこの狭い地帯に無数の避難民が国頭に向かって西に東に右往左往するが、LCI艇(上陸用舟てい)の機関砲十字砲火に遮られて、ばたばたなぎ倒され、如何ともなす術もない。岩石や洞窟の中は死臭のひどい死骸が一杯で、その死骸もまだ十分には死に切れず、《水をくれー水をくれ》と呻いている。人々はこの半死人を踏みつけて先を急ぐ。その度に焼き爛れた半死人は《う、う、》と呻く。誰も他人の死に構っておれないのだ。
    こう言う状況の中でLCIは200米沖の海上から岩穴めがけて、一発一発 機関砲を撃ち込んでくる。動きが取れないので、私は岩の上に横たわり、死んだ振りをしていたら、敵は弾丸を撃って来なくなった。九死に一生を得たわけだ。こんな日が続き、三日目の朝早く、LCIから弾代わりに拡声器の大きな声が聞こえてきた。然も流暢な日本語である。
    《《日本の兵隊さん。長い事ご苦労さんでした。もう戦争は終りました。
    ◆軍司令官戦死(6月23日)◆皆さん。武器を捨てて湊川の海岸に集合してください。》》
    と繰り返し放送して回った。だが呪縛の解けない日本兵は容易な事で降伏する筈はなかった。私は二晩洞窟の中で考え抜いた末に、自ら呪縛を解き降伏を決意し、翌朝LCIに向かって白旗を振った。沖合200米のLCIから直ぐに応答して来た。
    《《軍服を脱いでLCIまで泳いで来なさい。陸の日本兵がLCIに向かって発砲するので、船を近ずける事ができない》》と繰り返す。
    仕方が無いので褌一つに成り、波間に浮かんでいた2米ぐらいの丸太を小脇に抱えて必死に泳いだ。すると又LCIが
    《《貴方の身に付けている物を捨てなさい》》と言う。
    私が褌に手榴弾を隠し持っていると勘違いしたのだろう。褌は直ぐ足で蹴り外した。
    それでもまだ
    《《貴方の抱いている物を捨てなさい》》と、しつっこく言う。
    然しこれを捨てたら私は溺れてしまう。私の栄養失調気味で弱った体では、とても200米は泳げない。敵兵は丸太を爆弾と勘違いして、私が船に向かって肉弾突撃しやしないかと恐れたらしい。また後ろの海岸からは、私を米軍のスパイと間違えた日本軍兵士達が、私を狙い撃って来た。私の周りに水煙が上がった。それでもひたすら泳ぎ続け、終にLCIにタッチ出来た。すると一本のロープがするすると降りて来た。私が捕まるとロープはすっと引き上げられ、私の体は甲板の上に立たされていた。その時、私のそばに一人の日本人が駆け寄って来て、《《ご苦労さんでしたね》》と盛んに慰める人がいた。
    その人は米軍の軍服を着ているが、米軍情報将校が募集したボランチアの宣撫班員として、日本兵の救助に当たっていた米須清一さんであった。スローター中尉とネルソン中尉と米須さんの三人が弾の下を潜って私を救って呉れたのだ。3人は軍用食を食べさして呉れ、弱った私を元気づけてくれた。裸の私に中古の軍服も着せてくれ、捕虜収容所まで送り届けて、私を虜囚の辱めからか解放してくれた。

    情報将校のスローター中尉とネルソン中尉(米国で健在)と米須さんの三人は私にとって 命の恩人である。 米須さんは今、那覇市に老人施設で元気に暮らして居る。
    昨年私が 沖縄旅行の折、この施設を訪問し、50年振りに米須さんと対面した時、現地の新聞社や海外の通信社が《太平洋戦争50年後の再会》として報道し、一時有名になった。


     (付)      首里戦線で、私の大隊が首里周辺で消滅してからは、戦友が一人も居なくなり、私一人で南方に下がって行ったのである。昼間は艦砲を避け、グラマンに狙はれたら死んだ振りをし、夜は照明弾の合間に走り抜け2ヶ月かかって、やっとの事で摩文仁に辿り着くいた。
    本来ならば、此処で集中砲火を浴びて、沖縄の土と化すべき運命にあったのであるが、奇跡と天佑神助によリ敵方の救助隊に一命を救われた次第である。
     尚、驚いた事に、喜屋武の海岸に着くまで、第一大隊の兵士には、唯一人しか会なかった。首里前線の西原、幸地の激戦で大隊が、消滅した事を改めて知らされた。

    1997.8.12


    祖父が亡くなって3年後くらいでしょうか。祖父の巡った地を訪ねようという母の希望で車椅子の母を連れて沖縄に行きました。
    唯一、見学ができる旧海軍司令部壕 にも行きましたが、そこにある小さな売店である記録写真集を見つけました。
    本屋では売っていないとのこと。上下巻とわかれているものよりも、書店にもっといい物が売っているのではないかと、母を説得し、その場を離れてホテルに戻りましたが、どうしてもあれが欲しいと言い張ります(中身は見ていません)。仕方なく、翌朝、私だけで買いに行きました。
    そして、母に渡すと、声があがります。
    「父さんが写ってる。間違いない。」
    不思議な体験でした。祖父が引き寄せたとしか思えませんでした。
    写真は米軍に船に向かって必死で泳ぐ祖父の姿でした。
    そして、甲板で身体検査を受けている様子でした。

    母は戦時下、空襲で実母を亡くしました。おぶわれていた母は頭を打って、左手を失くしました。一緒に逃げていた母のいとこ(現在91歳)が、鮮明に当時のことを覚えていて、おしえてくれます。「あの時は二人とも死んだと思った。翌朝見に行ったら、〇〇ちゃん(母)は生きていた」
    母は生き残りましたが、障害があったために、たくさんの理不尽を受けました。
    スーパーポジティブなははでしたが、「戦争は嫌い。戦争のせいでこんな目にあった」家族の中では戦争は終わっていませんでした。
    「死ぬのは怖くない。母さんに会えるから」
    7年前、73歳で母が他界し、ようやく母の中で戦争が終わったのではないかと思いました。
    しかし、世界ではつねに戦争が始まっています。どんどん身近なものに感じて来ます。私が子供の頃、祖父は私にお手紙をくれました。
    戦争は二度と起こしてはならないと。
    その手紙については又別の機会に載せたいと思います。
    長文読んでいただいてありがとうございます。

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    米軍の船に救助される祖父
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    甲板の上にいる祖父
    これを見て自分の中で祖父の手記と重なった。
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    上巻と下巻があります。
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    1996年南日本新聞記事

    (おわり)
     
    子供の頃に祖父からもらったお手紙の記事はコチラ⬇︎

     
     
    元看護師。元ケアマネ・メンタルヘルスラインケア資格。SLE・APS、片耳難聴と共に生きています。爆音耳鳴りや聴覚過敏、頭がぎゅんぎゅんする等外からは見えない不自由を抱えながら、手話を学んでいます。 これまでの経験から人と動物共に心身のケアについての学びも大切にしています。

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