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陰術師・九条廻の陰処方 6

    第六章 おかげ様で、今日も
    東京の東側。廃ビル街。
    午前二時。
    九条の古いクラウンが、廃ビル街の入口に静かに停まった。
    続いて、白河の黒いハーレーが並んだ。
    エンジンが止まると、冬の夜の静寂だけが残った。
    二台の黒が、路地に並んでいた。
     
    二人は路地に立った。
    冬の夜気が、肌を刺す。白い息が二人分。
    コウは九条の影の中に潜んでいた。その重みが、いつもと違った。
    少しだけ、重かった。覚悟の重さかもしれない、と九条は思った。
     
    「準備はいいか」と白河が言った。
    「ああ」と九条が答えた。
     
    「コウは?」
     
    九条の影が、一瞬だけ膨れた。
    「ヒュ(いつでも)」という声がした。
     
    廃ビルの群れの中心、一際古い建物から——青黒い光が漏れていた。
     
    「規模が大きい」と白河が低く言った。
     
    「七年前の三倍はある」と九条が答えた。
     
    路地を進む。建物に近づくほど、足元の影が蠢いた。
     
    「九条、印を」
     
    「わかってる」
     
    九条は歩きながら印を切り続けた。
    連続印術。野良陰たちが潮が引くように左右に退く。
    白河は陽符を構えながら「一つだけ聞く」と言った。
     
    「なんだ」
     
    「コウを…使っていいのか。お前は」
     
    九条は少しの間、答えなかった。
     
    「…コウが決めた」とやがて言った。
     
    「俺が決めることじゃない」
     
    「……そうか」
     
    「お前は——澪を解放することに、迷いはないか」
     
    白河は一歩だけ足を止めた。それから歩き続けた。
     
    「ない」
     
    「形が変わっても、澪は澪だ」
     
    九条はその答えを聞いて、一度だけ頷いた。
     
    建物の入口。
    九条は扉に手を置き、低く呪を唱えた。扉が静かに開いた。
     
    中は、広かった。
    その広い空間が——陰で埋め尽くされていた。
     
    壁に、天井に、床に——陰が折り重なって、塊になっている。
    個体を判別できないほど融合した、巨大な黒い塊。
    それが緩やかに動き、呼吸している。
    塊の中心部——その奥深くに、かすかな光がある。
    消えそうで消えない光が、二つ。
    九条は目を細めた。
     
    一つは——澪の意識の核だ。もう一つは——
    「コウ」と九条は小声で言った。
    影の中で「ヒュン」と返事があった。
     
    「中心部に、お前と同じ光がある」
     
    「……ヒュ゛……」
     
    驚いた声だった。
     
    「澪が、お前を感じている。お前が来たことを——知っている」
     
    「ヒュ……ン……」
     
    七年間、外にいた。
    七年間、どこにも居られなかった。それでも——本体は、ずっと感じていたのかもしれない。欠片が、どこかにいることを。
     
    「行こう」と九条は言った。
     
    その時。塊が——動いた。
     
    無数の目が開いた。
     
    それは、明らかに九条を見ていた。
     
    「来るぞ」と白河が言った。
     
    「わかってる」
     
    「俺が先に光陣を——」
     
    「待て」
     
    九条は一歩、前に出た。塊が止まった。
     
    「澪」と九条は言った。声は静かだった。
     
    「俺だ。九条廻だ。白河もいるぞ。」
     
    塊が——揺れた。
     
    「聞こえているか。お前を迎えに来た。遅くなった。すまなかった」
     
    揺れが大きくなった。
    塊の中心部の光が、わずかに大きくなった。
    でも——それだけだった。喰縁の質量が重すぎる。
     
    塊が再び動き始めた。今度は、速い。
     
    「白河!」
     
    「わかった!」
     
    白河が陽符を展開した。光の陣が広がり、塊の外壁を押す。
    塊が怒ったように膨れ上がり、巨大な腕——折れた無数の鉤爪の集合体——が床を叩いた。
    建物全体が揺れた。
     
    「カバーする、走れ」と九条が言った。
     
    白河が光陣を全開にした。
     
    九条は白河の陽術の「通り道」を作る陰術に切り替えた。
    理屈だけは七年間考えてきた。実際にやるのは今夜が初めてだ。
     
    「これが——」と白河が声を上げた。
     
    「初めて試す」
     
    「今か!」
     
    「今しかない」
     
    「はは——っ」
     
    白河が吹き出しながら光陣を押し込んだ。
    喰縁の外壁が削れていく。中心に近づくにつれ、白河の足が重くなった。
     
    「白河!」
     
    「大丈夫!」
     
    「嘘をつくな」
     
    「ははは……少し、やばいかも」
     
    影補の符が輝いていた。でも——それだけでは足りない。
     
    その時——
    九条の影が、激しく揺れた。
     
    「ヒュン!!」
     
    コウが影から飛び出した。
     
    「コウ!」
     
    「ヒュ!ヒュ!ヒュ!」
     
    コウが鉤爪を中心部に向けた。
    それから——九条の方を向いた。
     
    その目に、迷いはなかった。
     
    「ヒューン」
     
    静かな、一声だった。
     
    行く、という声だった。
     
    九条は、コウを見た。
    「…お前が決めたなら…。」
     
    「ヒュ」
     
    「行くなら…ちゃんと帰ってこいよ」
     
    コウは一瞬だけ、止まった。
     
    それから——ぽよんと一度だけ、大きく膨らんだ。
    全身で、何かを言った。
    声はなかった。
    でも九条には、わかった。
     
    コウが喰縁の塊に向かって走った。

    小さな体で、鉤爪を振るって、密集した陰の壁を内側から押し広げていく。
     
    喰縁の陰たちが、一瞬だけ戸惑った。
    同族への攻撃には一瞬の揺らぎがある——喰縁に取り込まれる前の、陰としての本能の残滓だ。
    でもそれだけじゃなかった。
    喰縁の陰たちが——コウを認識した瞬間、揺れた。
    中心部の光が、大きくなった。
     
    澪が——コウを感じている。
    七年間離れていた欠片が、戻ってきたことを。
     
    「今だ、九条!」
     
    九条は走った。
    印を切りながら、符を飛ばしながら、喰縁の中心部に向かって走った。
     
    コウが開けた道を、九条が進む。
     
    白河が外から光陣を押し込む。

    三つの力が——一つの方向に向かった。

     
     ◇
     
    暗かった。
    七年間、ずっと暗かった。
    澪は——意識があり続けた。それが辛かった。
     
    意識がなければ、ただ暗いだけだ。
    でも意識があるということは、暗さを感じるということだ。
     
    喰縁の中は、静かだった。
    無数の陰の声が聞こえた。全部が同じ方向に流れている。
    飢えている。求めている。
    それだけ。
     
    澪はその中で、一人だけ違う方向を向いていた。

    廻。燈。

    二人の名前を、呼び続けた。声は出なかった。
    声を出す体がなかった。
    でも——意識の中で、呼び続けた。
    聞こえているか、わからなかった。でも——やめなかった。
     
    ある時——気配がした。
     
    私だ。
     
    私の影が外にいる。私の意志が生きている。
     
    私の欠片が、外の世界で生きている。
     
    それを感じた瞬間、七年間で初めて泣いた。
     
    ごめん。一人で外に出てしまって。
    怖かっただろう。
     
    私からの返事は聞こえなかった。
    でも——気配が、温かかった。
    そして——廻が来た。

    廻の気配は、いつもと同じだった。
    静かで、少し頑固で、でも確かだった。
     
    もう一度——三人でいた頃の場所に帰るために待っていた。
     
    そこは、澪の記憶の残滓で作られた空間だった。
    古い稽古場。畳の匂い。窓から見える冬の夜空。
    三人でいた、あの頃の場所。
    そしてその中心に——澪がいた。
     
    人の形をした陰だった。
    かつての澪に似た輪郭。黒い霞で作られた人影。
    その中心に、小さな光がある。
     
    そして——その隣に、コウがいた。
     
    コウはもう動かなかった。
     
    澪の人影の隣に寄り添って、静かにしていた。
    輪郭がゆっくりと解けていた。
    澪と混じり合っていた。
     
    「廻」と澪の人影が言った。
     
    「来たの?」
     
    「ああ」
     
    「陰が…来てくれた」
     
    「そうだ。コウっていう名前だ。」
     
    「コウ…ずっと外にいたの」

    「七年間。お前のことを、覚えていた」
     
    澪の人影が、震えた。
     
    「ごめん」
     
    「謝るな」
     
    「でも… コウが、消えてしまう」
     
    九条は中心部を見た。
     
    コウはもう、輪郭がほとんどなかった。
    澪の人影と溶け合って、区別がつかなくなっていた。
    でも、その溶け合いは、悲しいものではなかった。
     
    元に戻っているのだ。
     
    七年間、外にいた欠片が、本体に還っている。
     
    「コウ」と九条は言った。
     
    返事はなかった。
     
    溶け合う光の中で、コウは九条を見ていた。
    輪郭がほとんどなくなっても、目だけがまだ、こちらを向いていた。
    その目が笑っているように見えた。
    陰に表情はない。
    でも、笑っているように見えた。
     
    おかげ様で…。
     
    誰が言ったのかわからなかった。
    コウか、澪か、あるいは九条自身がそう聞こえたのか。
    「……ああ」と九条は言った。
     
    「おかげ様で、な」
     
    「廻」と澪の人影が言った。
     
    「コウが言ってる。廻に会えてよかったって」
     
    「……そうか」
     
    「心配だったから、ずっと。廻のことが」
     
    「変な陰だ」
     
    「変だけど——おかげ様で、私は帰れる」
     
    溶け合う光の中で、一瞬だけ、修復してもらった鉤爪を最後に高く手を振るように掲げられた。
     
    誇らしそうに。
     

     
    「……行ってこい」と九条は言った。
     
    光が、広がった。
    澪の人影が——一気に輝いた。
    喰縁の塊が、音もなく揺れた。
     

    外から白河の陽術が押し込んでいる。
    内側から澪の意識が解放されている。
    二つの力が、喰縁の構造を根元から揺さぶった。
    九条は全ての符を一気に展開した。
     
    【影鎮の符】【影解の符】【影帰の符】——
     
    光と陰が交差した。
     
    轟音とともに、白い光が、建物全体を包んだ。
     

    ◇

    気づいたら、外にいた。
     
    冬の夜気が、顔に触れた。
    白河が隣に立っていた。
     
    「生きてるか?」
     
    「……生き、てる」
     
    路地には、二台の黒が停まったままだった。
     
    足元に、黒い霞が静かに渦を巻いていた。
     
    喰縁が解体された後の、澪の意識の残滓だ。
     
    ただ、その霞は、前より大きかった。
    七年間喰縁に取り込まれていた澪の意識の欠片が、コウと再統合されて、一つになっていた。
     
    光がある。
    消えていない。むしろ前より明るかった。
     
    「澪」と白河が膝をついて呼んだ。
     
    霞が、ふるふると震えた。
     
    それから——
     
    「ヒュ……ン」
     
    陰の声だった。
     
    その声には、人間の感情が混じっていた。
     
    「澪?」と九条が言った。
     
    「……廻」
     
    「怖かったか」
     
    「うん。ずっと怖かった。でもコウがいたから」
     
    「コウは?」
     
    「ここにいる。私の中に、ちゃんといる」
     
    霞が少し膨らんだ。
    コウがぽよんとしていた時のように。
     
    「澪、一つ聞く」と白河が言った。
     
    「肉体に戻りたいか」
     
    「……戻れるの?」
     
    「方法を探す。俺たちで。時間がかかるかもしれないけど」
     
    澪は少しの間、静かだった。
     
    「うん。戻りたい。でも——急がなくていい。廻のところにいていい?」
     
    「当たり前だ」と九条は答えた。
     
    「コウがいた場所に、いていい?」
     
    「ああ」
     
    澪の霞が、ぽわりと広がった。
     
    嬉しい時に、深く息を吸ってから広がる。
    コウとまったく同じ動作だった。
     
    白河が「……コウ、ちゃんといるな」と言った。
     
    「ヒュン!」
     
    澪の声で、コウの返事がした。
     
    白河は目を細めた。
    夜明けが近かった。東の空が、灰色からゆっくりと青に変わりつつある。
    九条は立ち上がり、手のひらに澪の霞を乗せた。
     
    「帰るぞ」
     
    「うん」と澪が言った。
     
    「ヒュン!」とコウが言った。
     
    白河が「お前ら、今後どっちが返事してるかわかんなくなるな」と言った。
     
    「ヒュ゛(わかる)」と澪コウが言った。
     
    「一緒に言うな」と九条が言った。
     
    「ヒュン!(一緒じゃない)」
     
    二つの声が、ぴったり重なった。
     
    白河が笑いだすと、つられて九条も笑った。
     
    路地で、古いクラウンとハーレーエンジンが響いた。
     
    冬の夜明けの空に、最初の鳥の声がした。
    二台の黒が、夜明けの街を走った。
     
    春の病室
    それから二ヶ月後の、春の朝だった。
    九条は病院の廊下を歩いていた。
    白衣ではなく、黒いコートを着ていた。
    手に、小さな花束を持っていた。
    白い小花。
    花屋で一番地味なものを選んだら、これになった。
     
    病院の駐車場には、古いクラウンが停まっていた。
    その隣に、黒いハーレーも停まっていた。
     
    病室の前に立ち、ドアをノックした。
     
    「どうぞ」
     
    声がした。
     
    九条はドアを開けた。
     
    澪がベッドの上に起き上がっていた。
     
    黒い長い髪。小柄な体。
    点滴の管は外れていた。窓から春の光が差し込んでいる。
     
    澪はドアが開いた瞬間、こちらを見た。
    左の頬に、えくぼができた。
     
    「廻!」
     
    「ああ」
     
    「来てくれたんだ」
     
    「来ると言ったろ」
     
    九条は椅子に座り、澪の顔を見た。
    目が合った。
    七年前と同じ目だった。
     
    「記憶は?」
     
    「少しずつ戻ってきてる。廻のことも、燈のことも——わかる」
     
    「そうか」
     
    「コウのことも覚えてる。私の中にいるのが、わかるの」
     
    「ねぇ、コウ。今どんな感じ?」と胸に手を当てながら澪が聞いた。
     
    「お前の中で落ち着いているようだな。」
     
    「うん、感じる。なんか、満足してる感じがする」
     
    「そうか」
     
    「でも時々、ぽよんってなる」
     
    九条は少しだけ口の端を上げた。
     
    「それはコウだ」
     
    澪がえくぼを深くした。
     
    「わかる。コウって、ぽよんてなるよね」
     
    「ああ」
     
    「廻、コウのこと好きだった?」
     
    九条は少しの間、答えなかった。
     
    「……変な奴だったな」
     
    「それは答えになってないよ」
     
    「…好きだった」
     
    澪は「よかった」と言った。
     
    「コウも——廻のことが好きだったから。」
     
    しばらく、二人は静かにいた。
     
    窓の外で春の風が吹いて、カーテンが揺れた。
     
    「燈は?」と澪が言った。
     
    「外で待ってる」
     
    「呼んで」

    九条は立ち上がり、ドアを開けた。
    廊下に白河が立っていた。
    壁にもたれて、スマートフォンを見ているふりをしていた。
     
    「入れ」
     
    「…いや、俺は…まだ。」
     
    「澪が呼んでいる」
     
    白河はスマートフォンをポケットに戻し、革ジャンを整えた。
    病室に入り、澪を見て、一瞬だけ、立ち止まった。
     
    「燈!」と澪が言った。
     
    「お…おう。…久しぶり」
     
    「七年ぶりだね」
     
    「…そうだな」
     
    白河は目頭が熱くなるのを我慢していた。
     
    それに気づいた澪はいたずらっぽく
     
    「燈、影、薄くない?」と笑った。
     
    白河が「…あぁ。」と言って、苦笑した。
     
    「大丈夫だ。戻ってきてる」
     
    澪は首を傾げた。
    それから「コウが言ってる」と言った。
     
    「燈、九条診療所に行くとよく眠れるって」
     
    白河は九条を見たが、九条は視線を外した。
     
    「……九条が何かしてるのか」
     
    「俺は何もしていない」
     
    「陰籠の配置を少し変えただけだ、と言いたいのか」
     
    「……技術的なことだ」
     
    白河はしばらく九条を見た。
     
    それから「ありがとう」と言った。
     
    「気にするな」
     
    澪がえくぼを深くして、「コウが廻、照れてるって」と言った。
     
    「…うるさい」と九条が言った。
     
    白河が笑った。

    病室が、春の光の中で明るかった。
     
    三人でいると、病室はにぎやかだった。
     
    澪が白河に
     
    「影、もっと薄くなってたらどうするつもりだったの」
     
    「その時はその時だ」

    「そういうとこだよ、燈は」
     
    「そういうとこって何だ」と返した。
     
    九条はその会話を横目で聞きながら、窓の外の春の景色を見ていた。
     
    桜が散り始めていた。
     
    「廻」と澪が呼んだ。
     
    「なんだ」
     
    「ちょっとこっち向いて」
     
    九条が向くと、澪はまっすぐ九条を見ていた。
     
    「コウが——廻に会いたがってる」
     
    「……コウはお前の中にいる」
     
    「うん。でも」澪は少し考えた。
     
    「なんか、廻の顔が見たいって言ってる気がして」
     
    「……気のせいだ」
     
    「気のせいじゃないと思う」
     
    白河がにやけて「見せてやれよ、九条」と言った。
     
    「俺はいい」
     
    「あれ?顔が赤い」
     
    「赤くない」
     
    「ヒュン!」

    「?!」
     
    白河が「今のは何だ」と言った。
     
    「コウだ」と九条は言った。
     
    「澪の中から?」
     
    「そうだ」
     
    白河はしばらく澪を見て、それから天井を仰いだ。
     
    「……生きてるな、コウ」
     
    「ああ」
     
    「よかった」
     
    病室が静かになった。
    春の光が、三人を照らしていた。
    桜の花びらが一枚、病室の窓に貼り付いて、またゆっくりと落ちていった。
     
     
    三ヶ月後の診療所

    それから三ヶ月が経った。
    季節は夏になっていた。
    九条クリニックには、今日も患者が来た。
    六十代の女性実業家。定期診察。背中の陰はますます健全に育っている。
     
    「先生、最近いいことばかりで、怖いくらいですよ」
     
    「いいことは怖がらなくていいんです。続くものは続きます」
     
    「先生ってそういうこと言いますよね、なんか」
     
    「どういうことですか」
     
    「なんか、当たり前のことみたいに言う。でもよく聞くと、励まされてる気がして」
     
    患者が帰り際に言った。
     
    「先生、なんか雰囲気変わりましたね。以前より——なんか、あったかい感じ」
     
    患者は首を傾げながら帰っていった。
     
    九条は扉が閉まるのを確認してから、振り返った。
     
    ——澪が顔を出していた。
     
    「廻」
     
    「なんだ」
     
    「今日の患者さん、陰がとても大きかったね。幸せそうだった」
     
    「そうだな」
     
    「廻のおかげだね」
     
    「患者自身のおかげだ」
     
    「廻のおかげもある」
     
    九条は返事をしなかった。
     
    コウが澪の中から「ヒュン(認めなよ)」と言った。
    「……おかげ様か。」と九条は静かに言った。
     
    澪が嬉しそうに「そう。おかげ様!」と言った。
     
    白河は月に二回来るようになっていた。
    診療所の裏の路地に、古いクラウンと黒いハーレーが並んで停まっている日は、診療所が一番にぎやかだ。
     
    「定着したな」と白河は言った。
     
    「お前が来るから定着している」
     
    「お前がいるから俺が来る」
     
    「……」
     
    澪が台所から顔を出した。

    「燈、夜ごはん食べていく?」
     
    「……いいのか」
     
    「私が作る」
     
    「作れるのか、澪」
     
    「コウが手伝う」
     
    「コウは手が使えないだろ」
     
    「精神的に手伝う」
     
    「精神的に」
     
    「うん、隣でぽよんぽよんする」
     
    白河は九条を見た。九条は視線を外した。
     
    「……食べていく」と白河は言った。
     
    「やった!」
     
    澪がぽよんとした。
     
    白河の影が——今日は、かなり濃かった。
     
    消えかけていた影が、ほぼ完全に戻っていた。
     
    「白河」と九条は言った。
     
    「なんだ」
     
    「影、戻ったな」
     
    白河は足元を見た。自分の影が、夏の午後の光の中でくっきりと地面に落ちていた。
     
    「……そうだな」
     
    「陽術師の世話を焼く陰術師なんて、普通いないだろ」と白河が言った。
     
    「世話は焼いていない」
     
    「陰籠の配置を変えたり、影補の符を用意したりするのは世話じゃないのか」
     
    「……偶然だ」
     
    白河は「はは」と笑った。「ありがとう、九条」
     
    「気にするな」

    「澪の言う通り——お前、あったかくなったな」
     
    「……うるさい」
     
    台所から「廻がまた照れてる!」という澪の声がした。
     
    コウが「ヒュン!」と続いた。
     
    白河が「ヒュン(同意)」と真似した。
     
    「お前まで言うな」
     
    「ヒュン」
     
    「白河」
     
    「ヒューン」
     
    九条は額に手を当て、天井を仰いだ。
    夏の夕暮れが、診療所の窓から差し込んでいた。
     
    その夜、食事が終わった後、三人は縁側に出た。
     
    古い診療所には、小さな庭がある。
    夏草が青々として、夜になると虫の声がする。
     
    「こんな場所があったのか」と白河が言った。
     
    「父が作った庭だ」
     
    「きれいじゃないか」
     
    「草だらけだ」
     
    「草もきれいだろ」
     
    澪が「きれい!」と言った。
     
    影の中でコウが「ヒュン(きれい)」と続いた。
     
    三人は縁側に並んで座った。
    。
    「先生のこと——」と澪が言った。
     
    「先生は、どこに行ったと思う?」と澪が続けた。
     
    「わからない」と九条は答えた。
     
    「俺も探したが——見つからなかった」と白河が言った。
     
    「生きてると思う。死んでたら、陰職の誰かに伝わるはずだから」
     
    「どこかで、私たちのことを見てるかな」
     
    「見てるだろ」と白河が言った。
     
    「先生は——お前のことを心配してた。」
     
    「いつか、会いたいな」
     
    「会えるだろ」と九条が言った。
     
    「そうかな」
     
    「俺はそう思う」
     
    影の中でコウが「ヒューン(ありがとう)」と鳴いた
    九条が「コウ、縁側に出てきてもいいぞ」と言った。
     
    澪の影から、するりとコウが出てきた。
     
    縁側に座って、虫の声を聞いた。星を見た。
    夏の夜気に、輪郭がほわりと広がった。
     
    三人と、一陰。
    星が、夏の空に広がっていた。
     

    #創作大賞2026
    #ファンタジー小説部門

     
     
    見えないものを書きたい ミステリー、ホラー、ダークファンタジーを中心に執筆。if… の世界が好きです。

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