
《広さを思い出す場所》第一部・初めて訪れる方へ・目次・第一章 余白は、空いているのではない
はじめて訪れる方へ
この世界のどこかに、少し変わった施設があります。
名前は、《広さを思い出す場所》。
そこは、人を立派にするための場所でも、正しい答えを教えるための場所でもありません。
疲れて世界が狭く見えるとき。誰かの一言が頭から離れないとき。自分の価値まで分からなくなったとき。あるいは、ただきれいな光について語りたいとき。
少しだけ立ち寄って、「世界には、いま見えているもの以外もあった」と思い出すための場所です。
この施設では、職員の個人名はほとんど呼ばれません。
仏教研究室、物理学部、財務部、ロマン労組――所属や役割そのものが、その人の名前のように呼ばれています。
ただし、建物だけは別です。
建物は、本当に建物です。
そして、ときどき意思表示をします。
この場所で大切にされているのは、《余白》《いまここ》《ロマン》。
すぐに答えを決めず、まだ分からないものを置いておくこと。
過去や未来の物語から、いま実際にあるものへ戻ってくること。
役に立つかどうかだけでは測れない、「なぜか心を惹かれるもの」を大切にすること。
世界には、普段の姿の奥に隠れた色がある。
この物語は、その色を見失ったり、また見つけたりする人たちの話です。
目次
第一章 余白は、空いているのではない
第二章 物理学部には部屋がない
第三章 私は、嫌われる人間なのでしょうか
第四章 お茶は答えを急がない
第五章 ロマンには予算がある
第六章 心の飛躍にも休憩がいる
第七章 そこに道があるなら
第八章 光は一色ではない
第九章 選ばれなかった日の帰り道
第十章 建物が増築を拒否した日
第十一章 主任研究員が広さを忘れる
第十二章 広さを思い出す場所
第一章 余白は、空いているのではない
《その人》が《広さを思い出す場所》を見つけたのは、帰り道を一本間違えたからだった。
その日は、小さなことがいくつも引っかかる日だった。返事がいつもより遅かった。挨拶の声が少し低く聞こえた。自分が近づいたときだけ、会話が途切れたような気がした。
どれも決定的なことではない。だからこそ、頭から離れなかった。
――何かしただろうか。
――嫌われたのだろうか。
――また同じことになるのだろうか。
気づけば、いつもの曲がり角を通り過ぎていた。戻ろうとして、その建物を見つけた。
古いようにも新しいようにも見える、不思議な建物だった。大きくはない。けれど、窓の数と外壁の長さがどうも合っていない。
入口には小さな看板があった。
《広さを思い出す場所》
その下に、もう一枚。
《ここでは、すぐに答えを出さなくてもかまいません。》
「怪しい」
《その人》は呟いた。でも、帰らなかった。
扉を開ける。
ちりん。
中には小さなカフェがあった。本棚。木の机。窓際の椅子。壁には、光を受けると色の変わる布が一枚掛けられている。
カウンターの向こうで、誰かがお茶を淹れていた。
「いらっしゃいませ」
「ここ、何なんですか」
「《広さを思い出す場所》です」
「それは外で見ました」
「では、説明は一つ済みましたね」
《その人》は困った。
「……あなたは?」
「仏教研究室です」
「部屋ですよね?」
「そう呼ばれています」
正確には、そう呼ばれている人物らしい。
奥から白衣姿の人物が現れ、小さなプリズムを窓辺へ置いた。白い光が分かれ、机の上に細い虹が落ちる。
「角度が足りません」
「物理学部です」
仏教研究室が紹介した。
「今度は学部」
「問題がありますか」
「ありますけど、どこから聞けばいいか分かりません」
そこへ、深い緑の布を抱えた女性が入ってきた。
「新しい方ですね! 主任研究員です」
この人だけ役職だった。
主任研究員は、《その人》の向かいに座ると、空いている椅子を一脚引いた。
「今日は何か決めたいことがあります?」
《その人》は思わず答えた。
「人に嫌われているのかもしれなくて」
言ってから後悔した。初対面の人に何を話しているのだろう。
でも主任研究員は驚かなかった。
「そう感じたんですね」
「はい」
「それで、嫌われていると決まりました?」
「……決まってはいないです」
「では、そこを空けておきましょう」
主任研究員は、何も置かれていない椅子を指した。
「空いてますね」
「はい」
「もったいなくないんですか」
「空いているから、座れるでしょう」
《その人》は椅子を見た。
「何もないことにも役割があるんですか」
「あります。ここでは、それを《余白》と呼んでいます」
仏教研究室がお茶を置いた。
「どうぞ」
「頼んでないですけど」
「飲まなくてもかまいません」
「……飲みます」
温かかった。
物理学部がプリズムを少し動かす。机の上の虹が移動した。
仕事のことは何も解決していない。誰にどう思われているかも、分からないまま。
でも、分からないものを分からないまま置いていい場所が、少なくとも今ここにはあった。
帰り際、主任研究員が言った。
「また来てもいいですよ」
「ここ、普通の人も来るんですか」
「普通の定義によります」
「やっぱり怪しい」
主任研究員は笑った。
扉を開ける。
ちりん。
外へ出る直前、《その人》は振り返った。机の上にはまだ、小さな虹が残っていた。
世界には一色しかないように思えた日だった。
その日の最後に、ほんの少しだけ、別の色を見た。