闇 376(二俣川地獄変)
闇 376(二俣川地獄変)

2025/10/13 mon
前回の章

二千十六年九月二十九日後半、木曜日赤口。
旭総建工業社長の戸田。
社長と言っても中で働く事務員は、青野の奥さんだけしか聞いた事がない。
職人も今のところ十九歳の玉井だけ。
当初俺へゆくゆくは埼玉支部を任せたいなんて言っていたが、組織としての全貌がまるで見えない。
ただの零細企業なのか、もしくは俺が知らないだけで二俣川エリアでは有数な塗装業なのか……。
一つ信頼できる点は、高橋俊が昔からの知り合いである事。
それに大手旭化成がバックにあるという点である。
このマンションを二ヶ月滞納し強制退去という現状。
だから地元川越の忌々しい実家へ戻って、一から仕切り直ししかないと考えた俺。
事情を話し辞めると言っているのに、辞めさせてくれない戸田。
何を話しても仕事が嫌になったのかの一点張り。
それでいてどうするかは自分の頭で考えろと言う。
結構無茶苦茶な事を言う性格。
おそらく彼は、俺から助けて欲しいと泣きつくよう仕向けている……。
自分から救いの手を差し伸べるのではなく、あくまでもお願いされて動くという形を取りたいのだろう。
現状で考えられる選択肢は二つ。
一つはこのまま横浜を出て、川越へ戻る。
もう一つは戸田へ助けを求め、何かしらの住む場所を用意してもらう。
どちらにせよ、財布を落とした状態のままなので一度は川越へ行きキャッシュカードやら保険証の再交付をしなければならない。
このままいたら叔母のピーちゃんや、加藤皐月を殺してしまうかもしれないという明確な殺意を自覚し、川越から出た俺。
そんな俺が約四年ぶりに戻って来て、いい顔をされるはずがない。
もうおじいちゃんはこの世にいないのだ。
またあのストレスが溜まる日常を味わいながら実家へ行くのか?
目を閉じる。
俺の心には無数の傷が、鋭利な刃物という悪意によってズタズタに傷ついている。
今も傷口からは血が流れ続け、治癒する薬も無ければ手術でも治らない。
でも世の中は所詮他人事。
俺の苦しみを誰一人理解できなければ、理不尽な目に遭おうと国だって何もしちゃくれないのだ。

これらの傷の元凶となったあの家にまた戻る?
尻尾を丸めて……。
「……」
四面楚歌、背水の陣。
もう横浜で住む家はない。
従ってここで仕事など到底無理。
最初の頃みたいにまたネットカフェから?
馬鹿言え。
マゲ一家はどうする?
それに荷物だって増えた。
では戸田に頭を下げる?
正直頼れる相手なのかいまいち信用できない。
成功者独特の羽振りの良さも何も見えない人間。
冷静に考えれば、俺が選ぶ手段は一つ。
川越に戻る事だろう。
罵詈雑言を浴びようとも、失敗を積み重ねた俺の責任。
あとは精神的な苦痛のみ。
戸田に相談してどうなる?
部屋でも用意してくれるのか?
おそらくそう言う事だろう、自分で考えろとは。
「困っています。助けてもらえないでしょうか」
この言葉を俺から言わせる為だけに、会話を終わらせずあそこまで無駄な長電話をさせたのだから。
どうすれば正解か……。
実家へ戻るか、戸田へ助けを求めるか。
かと言って戸田へ甘える形で今の仕事へ残る魅力は、何一つ感じられなかった。
国破れて山河在りと言うが、俺自身様々な戦乱に破れたからこそ、このような現状になっている。
しかしそれでも自然は変わらず俺はまだ存在しているし、ましてや世の中も同じ。
大きな視点から考えてみよう。
川越と横浜。
このまま負け犬のまま地元へ戻り、またあの屈辱的な生活を堪えながら生きるのか。
それとも戸田へ頭を下げ、若い職人に扱き使われながら横浜へ残るのか。
ベランダへ出てセブンスターへ火をつける。
もう四十五歳、されど四十五歳。
ゆっくり煙を吐き出して、宙へ消えていくのを眺めた。
正直これ以上生きていく事に、疲弊し過ぎている。
皮肉な事に横浜へ戻ってきてからちょうど一年が経つ。
俺は何をしに横浜へ戻ってきた?
再起を誓ったはず。
川越では因縁と憎悪。
新宿では窃取と憎悪。
唯一残った横浜は、タカりだけで憎悪はなかった。
嫌な思い出よりも、いい思い出のほうが強かったのだ。
しかし二度目の横浜は本当に酷かった。
まず矢田部のインカジで裏切られ屈辱を……。
イワカミ工業でも裏切られ崩壊を……。
インカジ『ハッピー』では過重労働で身体への負荷と裏切りを……。
戸田の旭総建工業でも、当初の話と違う。
どこが埼玉支社をなのだ?
ペンキ職人のガキと一緒に現場を回り、単なる一人工に過ぎない。
帰るも地獄、残るも地獄。
しかし別方向で考えてみよう。
戸田が何故ああまでして、俺を辞めさせないのかを。
普通なら辞めたいと言っているのだから、そのまま手放せばいいだけ。
それをせずまだ引き留める意味合い。
一時間半もあんな電話をするか?
俺へこだわり理由。
旭総建工業の事務所の近くへ部屋を借り、ようやく内務業務へ切り替えるつもりではないのか?
「……」
こんな負け犬のようなザマで、おめおめと地元へ帰れるかよ!
無様でもいい。
俺が求めているのはどう生きたか。
鶴田師匠や三沢光晴さん、そしておじいちゃんの崇高なる魂を汚すなよ。
比べ物にならない小さな器だよ、俺なんて。
でもさ、もう一度だけ踏ん張ってみようぜ。
俺は戸田へ電話を掛けた。
大まかな一つの流れが決まる。
俺は戸田を頼る形で旭総建工業へ残る選択肢をした事。
九月一杯まで休みをもらい、財布を落としてなくなったキャッシュカードや免許類などのものを、一旦川越で手続きをして戻す事。
睦町のレオパレスのマンションはすぐ出るのは不可能なので、戸田が二俣川周辺で住むところを探し契約するまで、ここから仕事は通う事。
「それで岩上さん、今月の間にですね…。せっかく地元の川越へ戻るんですから、住民票も抜いてこちらへお願いしたいんですよ」
「え? 住民票も……」
「本腰入れるんだから当たり前でしょうが!」
ウザい男だな、コイツ。
そんな面倒な事をわざわざしているのには、こっちだって理由があるんだよ。
俺が新宿にいても横浜にいても住民票を川越へ置いたままの理由。
それは地元の先輩であり現県会議員の中野英幸が再び出馬した時、俺の一票をあげたいからというもの。
わざわざ出馬する際、俺を呼びだし報告までして筋を通してくれた英幸さん。
その理由を戸田へ伝える。
「岩上さん…、本腰入れて仕事をやるんですよね? 何を眠たい事を言っているんですか」と一蹴された。
眠たくも何でもない。
義理人情の話をしたつもりだが、戸田にその手は通じないようだ。
しかしこれからの雇い主であり、物件を探してもらう恩もある。
「でも戸田さん、川越で住民票抜いても、まだ二俣川の住み家が決まっていないんですよね?」
「だから決まったらこっちで住民票を入れればいいだけでしょ!」
「じゃあ川越戻った時に市役所で、住民票を移す準備だけしておけばいいと言う訳ですね?」
「子供じゃないんだから、いちいち聞かないでそんなの自分で考えて下さい」
「……」
選択を間違えたか……。
どうもこの戸田の卑怯な言い回し方が好きになれなかった。
何をやらせるにしても、すべて俺の口から言わせる性格。
最終的な責任を自分では取りたくないからであろう判断。
辞めると言うのに辞めさせず、じゃあどうしたらいいか聞くと自分で考えろ。
住民票も向こうの住所が決まる前から抜けと言うくせに、そのあとの事を聞くと自分で考えろ。
「あと口座番号も教えておいて下さい。九月は五日分出ていますので」
「分かりました」
単純計算で五万の給料か。
まあそれでも無いよりマシだ。
川越へ帰ったらする事。
銀行口座へ残っている残高の引き落とし。
不本意だが、実家に届いているであろうキャッシュカードを取りに行く。
市役所で保険証再交付、そして住民票を抜く。
英幸さんには申し訳ないが、今は力無き俺を許してほしい。
そして帰りに新宿へ寄り、ポイント代の手数料をもらう。
茨の道を慎重に歩いて行きながら、俺はまたいつか復活を遂げる。
それまではすべての事を受け続け、我慢しながら必死に生きよう。
面倒な作業を次々とこなす。
多少のまとまった金を手に持ち、横浜へ帰還した俺。
ゆっくり酒も飲めなくなるな……。
俺は激安居酒屋『楽』へ久しぶりに顔を出した。
あそこのリラックスできる空気に触れたかったのだ。
すべてが激安のメニュー。
そしてマスターの人の良さそうな人柄。
これらは今の俺にとって、とても心地が良い。
「岩上さんがこの辺からいなくなっちゃうと、何だか淋しいですねえ……」
「まだちょっとはいますって。仮に二俣川へ行っても、また来れる時は顔を出しに来ますって」
俺は横浜で唯一の居場所を見つけられたのかもしれない。
行ける時に行っておきたいものだ。
レオパレスからは毎日のように電話が入る。
内容はいつ出ていくのかというものばかり。
「テメーらが二ヶ月の滞納で強制的に出ろと言ったって、どこに行くんだよ? 勝手な事ばかり抜かしてんじゃねえよ!」
「早く次のところを決めたら早急に教えて下さい」
本当にこうなったのも、すべて坂本のせい。
何で俺はあんな馬鹿に数十万も貸してしまったんだ?
このマンションの家賃を代わりに半年間振り込んでくれればいいなんて、甘い条件で……。
もちろんちゃんと払っているか電話連絡の口頭確認だけで済ませてしまった俺にも非はある。
だが、払いましたとぬけぬけ抜かし、三田の店で抜きをして逃亡した坂本が全部の起因だ。
早くヤクザの情報網で捕まり、そのまま大人しく死ね。
ああ、何でこんな精神的苦痛を味わわねばならないのだろう。
マスターの顔を見に行くか。
もう横浜での居場所って『楽』ぐらいしかないもかもな。
翌日も自転車で向かう。
店内には幸代の姿が見えた。
俺の姿に気付くとさり気なく寄ってくる幸代。
いくら過去一度だけ抱いた女とはいえ、現在付き合っているケンちゃんが近くにいるので、面倒事はごめんである。
それにこの女はメンヘラ気質。
関わってもいい事が何もない。
「岩上さん、まだこっちにいるんですか?」
「あ、石川さん。今、楽で飲んでいますよ」
「じゃあ自分も手が空いたら顔出します」
石川雅之も、このようにたまに付き合って、一緒に酒を飲んでくれた。
二千十六年十月三日、月曜日大安。
十月に入り、また塗装の仕事が始まる。
毎日現場が変わるので、仕事終了時明日がどこどこの駅へ、明後日はどこで何時にと目まぐるしく変わっていく。
じわりじわりかさんでいく自腹の経費。
休みが基本土曜と日曜そして祭日なので、身体的な負担はなかった。
しかし朝早くに出て待ち合わせてから、業務終了はいつも夜。
それから睦町のマンションへ戻ってくるので、洗濯して寝るだけの生活が続く。
マゲ一家の世話だけは、まずやる事に決めていた。
酷い時は餌をあげ終わった後、そのままうつ伏せで寝てしまっていた事もあったほどだ。
二俣川の俺の新たな住むところが決まる。
旭区二俣川2ノ15ノ15、プチメゾンF〇〇号室。
戸田からそう連絡が入った。
いよいよ一年ほど住んだこのマンションともお別れ。
レオパレスへ住居が決まった事を伝え、管理会社が最後の手続きに来る日を聞かれる。
早めがいいので戸田へ休んでいいか聞くと「そんなの休みの日を使ってやればいいじゃないですか」と素っ気ない対応。
引越し代も当然ながら自腹。
カツカツの生活が続く。
平日は仕事をこなしながら、日にちだけが経っていく。
二俣川のアパートプチメゾンまで戻ると、マゲたちの世話をする。
この現状を過ごしているなど、知り合いへ恥ずかしくて赤裸々に話せる訳がない。
一体俺は何をやってんだかな……。
日付けが変わり十月十二日。
明日の十三日は、おじいちゃんが亡くなってちょうど二年。
命日だと言うのに……。
そういえば全然フェイスブックにも投稿をしなくなってしまったな。
久しぶりに簡単な今の現状を記事にして投稿した。
二千十六年十月十二日、水曜日友引。

明日でおじいちゃんが亡くなってちょうど二年経つ。
心の整理は未だついていないような感じ。
そして俺は明日引っ越し。
とりあえず今の横浜の場所を離れるわけだ。
十四、十五日は地元の川越祭り。
時間取れたら顔出したいなあ。
去年仕事で行けなかったから、今年も行けないとなると二年連続になる。
何か変化があるのっていつも九月から十月に掛けてが本当に多い。
まあ色々な意味でも仕切り直そう。
おじいちゃん亡くなってこの二年、変な意味で焦っていたように思う。
どう足掻いても藻掻いても俺は俺でしかない。
ならば自然体で日々を過ごし、ありのまま生きてみようではないか。

空を眺めたら奇妙な雲が見えたので、久しぶりに写真を撮ってみた。
この投稿に対し、地元の先輩である吉岡さんは即座に反応する。
『十五、十六日な。 吉岡』
あまりにも混乱しそうな日々で、俺は曜日感覚すら狂っていたようだ。
川越祭りは十五の土曜と十六の日曜日開催。
できればこの二日間は川越に帰りたい。
近い内十五日を休んでいいか、近くなったら戸田に聞いてみよう。
二千十六年十月十三日、木曜日先負。
荷物をまとめ引っ越しを始める。
行先は二俣川のアパート。
よりによっておじいちゃんの命日に引っ越しなんて、因果なものだ。

二俣川の質素なアパート。
坂道だらけの辺鄙な場所だったが、文句は言えない。

IHヒータのついたミニキッチン。

サビた鉄柵のあるロフト。

四畳半一間の家賃三万五千円の物件。
侘しい生活がここから再スタートする。
もちろんマゲ一家総勢十匹も、一緒に引っ越し。
近くにどんな店があるか、自転車を使って探索してみる。
驚いたのが駅前でも急な坂道があるという点。
平行な道のほうが少ないんじゃないのかと思うほどだ。
こんな坂道だらけの場所へ移り住み、本当にこれからやって行けるのだろうか?
途中でキャッシュディスペンサーへ寄り、キャッシュカードを試してみた。
「え?」
思わず出る声。
戸田の奴…、給料振り込むって言いながら、一万五千円しか振り込んでいないぞ?
九月は五回出たから単純に五万だろ?
俺は戸田へ電話を掛けた。
「アパートの家賃が三万五千円です。それは引かせてもらいました」
「あ、そうですか……」
何だよ、コイツ……。
人が金無いの分かっていて、こういう事をするのかよ。
「何か不満でも?」
人が文句を言えないのを承知で話す戸田。
引っ越し初日から二俣川へ残った選択をした事を後悔する。
しかしもう動き出してしまったのだ。
今は怒ってもしょうがない。
「いーえ、詳細を知りたかっただけです」
ぶっきらぼうに言い返すのが、俺の精一杯の抵抗。
我ながら本当に情けない姿である。
「あと引っ越しも無事終わったんで、明日の十四日の金曜、仕事休んで不動産の最終の立ち合いをしてもいいですか?」
「何でわざわざ休みを取るんですか?」
「実は地元で土曜日曜と大きな祭りがあり、みんな帰って来いとうるさいんですよ。なので金曜日に不動産の終えてから、そのまま川越へ帰ろうかなと」
「そんなのこっちには関係ないですよね? 金曜はちゃんと仕事に出て下さい。不動産のほうも土曜の休み使ってやればいいじゃないですか」
冷めた口調の戸田の台詞。
コイツ、全然融通が利かないのかよ……。
電話を切っても、耳にあの馬鹿の声がずっとこびり付いていた。
二千十六年十月十四日、金曜日仏滅。
本当なら休みたかったのを無理やり出勤。
明日はレオパレスの最終手続きがある。
これじゃ川越祭り行けないな。
日曜日だけ行ったところで、月曜は朝早くから仕事なのだ。
疲れに行くようなものである。
二年連続で祭りへ出れないのかよ……。
誰も知り合いのいない二俣川。
横浜での知り合い…、いや友達は、石川雅之一人だけだった。
顔見知りの人間ならある程度はいる。
しかしみんな、俺に金がある時だけ寄ってくる人間ばかり。
振り返れば本当に無駄な金をばら撒いてきたものだ。
そんな事を考えながらローラーを使って外壁にペンキを塗る。
塗料が服につき、また一つ普段着が駄目になった。
二俣川へ引っ越しても、仕事内容は変わらず職人と一緒。
面倒なのが今のアパートから旭総建工業までの道のりである。

距離にしたら数キロ程度だが、二俣川はとにかく山が多い。
事務所へ朝集合するまで、最低山のある坂道を二つ超えて出勤しなければならない。
行き帰りの往復で、自転車を使って山を何度も超えていく訳だ。
精神がどんどん病んでいくのを感じる。
「はい、午前中終わり」
玉井に声を掛けられ昼休みに入った。
「あ、岩上さん。この現場は午前中だけだから、道具を車に片付けて」
「はい……」
相変わらず十九歳のガキに顎で扱き使われながら働く日々。
車をコンビニエンスストアの駐車場へ停め、弁当を買いに行く。
毎日がこんな食生活。
「午後からはどこの現場へ行くんですか?」
「待機」
「え?」
「指示あるまで待機」
時刻は昼の十二時四十三分。
一時までこの状態で車の中で待つだけかよ。
それにしても本当にこのクソガキ、口の利き方知らねえなあ……。
二倍以上年上に対する敬意というものが一切感じられない。
育ってきた環境のせいなのか、もしくは本人の性格が歪んでいるのか。
通常怒らせたら絶対に喧嘩で勝てない相手には、もう少し慎重に対応するべきじゃないのか?
喧嘩一つもせず、ただ闇雲こうしてペンキ職人をして生計を立てているだけのガキ。
しかしその世界で俺はそれ以下の素人。
いつまで戸田も、こんな現場仕事を俺にやらせるつもりなのだろうか?
玉井の携帯電話が鳴り、戸田と話をしている。
「今日終わりなんで」
「はあ?」
「今日はもう現場無いから、これで帰ります」
「……」
「チッ、またこれで半給かよ……」
「半給ってどういう意味です?」
「午前中だけだから、日当の半分しか出ないって事すよ」
不貞腐れたように話す玉井。
人を昼休み車の中で自腹でコンビニ弁当を食って待機しろと命令しておきながら一時まで拘束し、午後は仕事が無いから終わりで日当半分?
随分滅茶苦茶な事をしてくるな……。
イワカミ工業時代を懐かしく感じた。
土曜は朝礼だけしておしまい。
それで日当一万八千円。
それに比べて戸田の旭総建工業は非常にしみったれている。
すべてがセコいのだ。
玉井の話によれば、日給月給でもらう給料の中から積み立ててで毎月数千円抜かれ、それを年末の忘年会費用などに当てているらしい。
こんなどうしょうもない会社へ居て、俺は本当に大丈夫なのか?
不安しか覚えなかった。
それにこんな半日しか仕事が無いのなら、無理やり人を出勤させるなよな。
川越祭りも不参加決定。
明日はレオパレス。
考えれば考えるほど憂鬱にしかならない。
二千十六年十月十五日、土曜日大安。
管理会社が手配した業者の元で立ち合いが始まる。
「借主は現状の回復義務が発生します。まず、清掃代が二万五千円…、クロス…、壁紙ですね。これの張り替えが十五万……」
「ちょっと待って下さいよ! 何ですか、その張替え費十五万って?」
「レオパレスの規定で決まっています。カーペット交換費が七万円で……」
「……」
何て悪徳業者なんだ、レオパレスは……。
「あとは事務手数料や鍵の交換費用などで二万前後になりますね」
「前後って何ですか、前後って!」
苛立ちながら口を開く。
「正確には一万四千円になりますね」
まるで他人事のように簡単に金額をどんどん上乗せしてくる業者。
「あのさー…、俺ここに住んだの一年だよ、一年?」
「レオパレスの規定で決まっている事なんで……」
退去精算書を書き出す業者。
「こちらへサインをお願いします」
合計金額しめて二十五万九千円。
「おまえさ…、ふざけんなよ? 何だ、このふざけた金額は?」
「いえ、規定通りに……」
「あのよ…、現状の回復義務だか何だか知んねえけどよ? あまりにも不当請求過ぎねえか、おい」
声のトーンが低くなる。
俺じゃなくても怒り心頭になるだろう。
そのぐらいレオパレスの提示した金額は常軌を逸している。
さすがに散々罵倒しながら脅しに入った。
すると業者は涙目になり、何度も頭を下げながら口を開く。
「すみません、お客様…。私も下請けに過ぎないので、この無茶な条件でサインをもらえないと帰れないのです……」
「テメー! 寝言抜かしてんじゃねえぞ、おい」
「誠に申し訳ございません。私がレオパレスから言われた条件はこちらしか提示できないのです」
「知らねえよ、おまえの事なんざ。何都合いい事ばかり抜かしてんだよ! 黙って聞いてりゃあポンポン舐めた金額を抜かしやがって」
業者はその場で土下座をしだす。
「お願いします! お願いします、お客様……。サインをもらえないと、私帰れないんです……」
「……」
下請けに過ぎない…、そうこの男は言った。
親会社であるレオパレスの命令は絶対。
上の都合一つで仕事もなくなるかもしれない。
俺はイワカミ工業崩壊の時を思い出す。
どんなに一生懸命頑張ったところで、上の匙加減一つで崩壊など簡単にしてしまう。
この部屋で俺も、膝を丸めて女々しく泣いたじゃないかよ……。
本当に悪いのはこの男でなく、命令を下し実行させているレオパレス。
「もういいよ。顔上げなよ」
「え?」
「サインするよ。俺がそもそも滞納したのが悪いんだ。サインする」
「あ、ありがとうございます!」
「ただよ…、素直に二十五万九千円なんて払わねえからな」
「え、そんな…、困ります!」
「馬鹿、一括でって意味だよ。月に三万ずつ…、それしかレオパレスには払いたくねえ」
「わ、分かりました! それではそれでいいのでサインをよろしいですか?」
「ああ、それでいいならしてやるよ」
「あ、そしたらですね…。来月から支払い発生しますが、まず端数の九千円…、これだけ最初お支払いして頂いて…、十二月から毎月三万でどうでしょうか?」
「ああ、分かった。それでいいよ」
「では退去精算書へ口座振り込みのレオパレスの番号…、あと下にいついつまでと日時と金額を忘れないよう書いておきますね。毎月五日までに振り込みの方よろしくお願いします」

本当に酷い悪徳不動産会社レオパレス。
いつか絶対にこの借りは返してやるからな……。
今は仕方ない。
堪えろ。
その代わりこの理不尽さを生涯きっと忘れるな。
俺はそう必死に自分へ言い聞かせた。
十六日の日曜になり地元は川越祭り本番。
参加したくても行けない俺は、フェイスブックでせめて投稿しようと記事を書く。
二千十六年十月十六日、日曜日赤口。
地元川越は、川越祭り。
二年連続参加できなかったなんて、これまでじゃ想像もつかなかったな……。
来年こそは必ず行こう。
川越の皆様方、今日の祭り頑張って下さいね。
この投稿に対し、同じ町内の人間は誰もコメントをくれなかった。
ずっと当たり前のように参加していた川越祭りを二年連続で不参加なのだ。
呆れられてしまったのだろう。
唯一以前岩上整体時抱いた事のある熊倉瑞樹の妹睦から画像付きでコメントがあった。
『お姉ちゃんと。 熊倉睦』

彼女のコメントで、少しだけ救われた気がした。
二千十六年十月二十日、木曜日仏滅。
段ボールから荷物すら取り出していない部屋で、俺はマゲ一家へ餌と水を取り替える。
今日も連絡一つ無し……。
これまで今月何日働いたんだ、俺?
旭総建工業の仕事は本当に適当で朝から晩まで扱き使われ、肌寒くなった夜道を自転車で山を越えて帰宅する日々。
それだけならまだいいが、一日の業務終了して明日はどうするか尋ねると、翌日の朝に電話をすると決まっていない。
つまり、いつも早朝になって初めて本日向かう現場が決まり、連絡が無い時は自動でそのまま自宅待機となった。
当然待機なので日当など出やしない。
今日で三日間連絡無い状態が続く。
酷い時で、週に出るのは二日だけの時もある。
それでいて自宅待機を言いつけてくるので、どこかへ出掛ける事すらできない日々。
こういうの軟禁、または飼い殺しというんじゃないのか?
金も入らず、生活費だけがジリジリ出ていく日々。
これ、今月の給料って計算したら、十万ちょっとにならないか?
こんな状況でどうやって再起できる?
日に日に病んでいく俺の心。
唯一自由に行動できるのは日曜日のみ。
たまに土曜は、急に呼び出しを受け仕事だと行かなければならない事も多々あった。
知り合いが誰一人いない土地。
話し相手はマゲたちだけ。
せめて仕事が忙しければ余計な事を考えずに済むが、その仕事すら不定期。
戸田はこんな事をさせる為に、わざわざ人を引き留めたのか?
何をしたいのかまるで意味が分からない。
一人孤独に暗い部屋にいて気が狂いそうになると、石川へ連絡をした。
人のいい彼も生活があるが、時間がある時は話し相手になってくれる。
二千十六年十月二十三日、日曜日先勝。
時間を作り、石川がわざわざ二俣川まで顔を出しに来てくれる。
厚揚げが美味しいという評判の店へ行き、久しぶりに人と直に会って会話をした。
彼の好意が本当に嬉しかった俺は、見栄を張り飲み代をすべて奢る。
「割り勘にしましょうよ、岩上さん」
そう言う彼の言い分すらも、笑顔で誤魔化して金を払う。
横浜でできた大切な友達だ。
せめて粋なところを見せたかった。
いい感じで酔った状態のままアパートへ向かう。
十月に出た日数を簡単に数えてみる。
あと一週間で十月も終わるというのに十回だけ。
しかもその内一回は半日だったので、現時点で九万五千円の給料。
残りの平日六日間で、何回仕事があるのだ?
しかもここの家賃三万五千円は引かれてしまう、いや、光熱費だ……。
月曜日になっても鳴らない携帯電話。
今日もまた仕事無し決定。
これ、何の罰ゲームだよ……。
戸田に対し悪意すら感じるようになってきた。
部屋で寝転がるだけの俺。
気付けば寝ていた。
夕方になり目を覚ます。
すると旭総建工業の戸田から着信履歴が残っていた。
電話を掛ける。
「何ですぐ電話に出ないんですか!」
「……」
こんな虫食いのような仕事のシフトで人を部屋で待機させといて、電話した時はすぐ出ろ?
随分無茶で勝手な言い分だ。
「聞こえているんですか?」
「聞こえてますよ!」
「明日は七時半にうちの事務所前で集合です」
「……」
「返事はどうしたんですか? 子供じゃないんだから返事ぐらいして下さいよ」
「は…、い…。七時半ですね……」
それだけ言うと電話を切った。
精神がおかしくなっているのを自分でも感じていた。
このままここへいたら、俺は壊れてしまうのではないか?
得体の知れない恐怖を覚えながら、俺は明日に備えて無理やり寝た。
二千十六年十月二十八日、金曜日赤口。
今月十二回目の仕事が終わる。
これでとりあえず十一万五千円は確定。
土曜日曜と休みで、月曜はまた朝になって仕事があれば連絡をすると言われた。
家賃引かれたら、手取り十万円もいかねえじゃねえか……。
暗い気分のまま洗濯機へペンキで汚れた作業着を放り込む。
小鳥たちの鳴き声が聞こえ、振り向く。

すっかり大きくなったマゲとモツの子供たち。
所狭しと家族身を寄せ合いながら巣壷に詰まっている。
何だかこの子たちが羨ましいなあ……。
強烈な孤独感に襲われ、膝を抱え込んで身体を丸めた。
俺はこのままここで朽ち果てて行くのだろうか?
祭りの時以来フェイスブックへ投稿していなかったので、マゲ一家の写真をアップした。
数名の人たちからコメントはあるものの、川越の人間からのコメントは無し。
とうとう地元の人たちからも、俺は見放されてしまったようだ。
土曜になっても節約の為、出掛ける気にもならない。
一日中部屋で寝転び、退屈な時をただ漠然と過ごす。
そんな状態でも腹だけは生意気に減る。
夜中になると、二俣川駅の近くにある二十四時間のスーパーの西友へ自転車を漕いで向かう。
この時間帯なら人も少ないので、安い弁当や総菜を買っても恥ずかしさは半減できる。
明日の分の弁当も買い、悪い事をしている訳でもないのにコソコソと泥棒のようにアパートへ帰宅。
メッセンジャーに石川雅之からメッセージが届いていた。
『最近調子はどうですか? 石川雅之』
元気のない俺を気遣った内容。
『相変わらずですね、仕事無いのは…。今日も近所に二十四時間営業の西友あって、弁当二百八十円から売ってるんで大量に買って帰ってきたところです。 岩上智一郎』
『凄い! 激安ですね! 石川雅之』
『コロッケやメンチも四十七円。 岩上智一郎』
『西友ってそんなに安いんですね。 石川雅之』
『いいのはそこぐらいで、坂多過ぎて大変です。多分ここの西友ぐらいじゃないですかね。 岩上智一郎』
『坂の街ですからね。 石川雅之』
『百円ローソンや、業務用スーパーが無いので辛いですよ。 岩上智一郎』
自虐的なメッセージ。
仕方ない。
これが今の俺の食生活なのだから。
日に日にこうして俺は病んでいく。
二千十六年十一月六日、日曜日仏滅。
すっかり寒くなった二俣川。
十一月に入ったというのに出勤回数はたった一回。
これはもう死ねと言われているようなものだ。
給料が入るまでまだ数日ある。
昨日の土曜日にまた深夜西友へ行き、二百八十円の弁当を五つ買った。
そしてメンチカツとコロッケを二つずつ。
マヨネーズと中濃ソースも切れたので買う。
坂道を手で自転車を押しながら進む時、袋の重みや手に油が移る感覚がした。
二俣川の坂道は、じわりじわり人間の向上心を蝕んでいく。
残った全財産千三百九十円。
今の俺の価値。
最後に食べたのが安い弁当。
うん、腹一杯食べたぞ。
無機質な室内。
聞こえてくるのは小鳥の囀りと、冷蔵庫が鳴らす小さな機械音だけ。
寒さで毛布に包まり身体を丸くする。
布団から突き出た足が冷たいフローリングの床に触れた。
心の芯まで冷えるような感じがする。
横浜へ戻ってきていい事あったのかな?
矢田部のインカジじゃ虐げられて、十二時間一万円まで日払い下げられて……。
イワカミ工業を必死に死ぬ覚悟で頑張っていたのに、青野のせいで簡単に崩壊。
三田のインカジは一番マシに感じるけど、あんな一日四十四時間とか休み無しで働いていたら、身体おかしくして。
雅の乳首いじっただけで、もう俺は必要無しってか?
レオパレスもふざけんじゃねえよ!
何で退去料で二十五万九千円も掛かるんだよ。
それから続いて戸田の兵糧攻めかよ……。
去年の九月の終わりに来て、今は十一月初旬。
一年ちょっとで何故こんな目に遭わなきゃいけないんだ?
いい加減にしろよ!
疲れた。
本当に疲れた。
限界だ……。
鳥籠を見た。
この子たちを外へ離したら、自然界の中じゃ絶対に生きていけないよな。
だって俺が散々甘やかして育ててしまったのだから……。
マゲたちの餌と水を大量に与える。
籠の中に置けるだけ、紙コップへ水を汲んで置いていく。
マゲマロが一つの紙コップへ飛び込み水浴びを始める。
「駄目だよ! これはおまえたちの飲み水として置いたんだから」
もう一度汲み直す。
そして誰かがこの部屋を見た時すぐ分かるように、餌の入った大袋を鳥籠の前にそっと置いた。
「ごめんね、みんな……」
フラッとドアへ鍵も掛けずに外へ出る。
俺、そんな悪い事してきたのかな?
何でこんな苦しまなきゃならないんだ?
いつもいつも考えたつもりで選択しても、待っているのは地獄だけ。
どうせあとちょっとで入ってくる給料も、十万円切るんでしょ?
こんな生活に何の意味がある?
こんな事をしていて何の価値がある?
群馬の先生は以前俺に言った。
神様に選ばれたから、人より試練が多い?
じゃあ、今のこの働いているのに貧窮な生活も試練なのかよ?
前に俺言ったよな?
そんな試練なんていらないから、地味でも平穏無事がいいってさ……。
はは…、死ねって事かよ……。
四十五歳にもなって、毎日四十七円のコロッケかメンチ食って……。
ふざけんじゃねえよ!
気付けば俺は夢遊病者のようにただ歩き、保土ヶ谷バイパスの陸橋まで来ていた。

昼間なので交通量も多い。
ほとんどの車が制限時速を守らず飛ばしている。
高い位置にいるせいか排気ガスの匂いのする強い風が身体を吹き付けた。
もう疲れちゃった……。
レスラーは攻撃を避けちゃいけないって?
避けてないよ!
受け続けたよ!
壊れちゃいけないって?
それは腹一杯美味い飯を食ってさ、エネルギーを蓄えているから大丈夫だったんだよ。
もう無理だよ、こんな生活はさ……。
おじいちゃん、本当ごめんね。
俺さ…、岩上家の大いなる恥だよね。
何かね…、もう世の中の悪意に耐えられそうもないや……。

距離を詰めて塀へ近付く。
一段高いコンクリートの上へ足を乗せる。
「……」
ここから下へ飛び降りたら、楽に終われるかな……。
遠くからサイレンの音が聞こえた。
鉄柵の手すりは氷のように冷たく、微かな振動が掌から肘へ伝わる。
風と車の唸りが、骨の中で鳴った。
おじいちゃん……。
鶴田師匠……。
三沢さん……。
やっぱ俺にあなたたちの背中は遠過ぎました。

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