
「意駆り」と「怒り」
私は、この世界に怒っている。それはもう、子供の頃からずっと。
理不尽だ、と心が叫んでいた。自由を渇望していた。
だから、子供の頃は、賢く厳格な父の断定が大嫌いだった。
家を出てからは、やりたいことをやってきたし、やりたくないことはやらなかった。
自分で選べる状況があるのに、やりたいことをやらずに、文句や愚痴を言いながらやりたくないことに溢れた日々を送る人々を見ると、怒りが溢れる。
まるでサーカスのゾウだ。子ゾウのときについていた足枷はもう外れているのに、大人になった今も逃げ出さずにいる。
だったら、なぜ今抱えている望みを叶えないのか。
叶うことを願っていても始まらない。
状況を変えるために一歩踏み出すのは、結局自分にしかできない。
人はいつか死ぬ。これは紛れも無い事実だ。
そのことから目を逸らし続けて、外から与えられる情報に踊らされ、将来への不安を抱え続けて、やりたいことを我慢してやりたくないことを続けていく。
私からしたら、そんな生き方はゾンビと一緒だ。もはや生きているとは言えない。空っぽの自分の中に、メディアから与えられる不安を詰め込んで動き続けてる肉袋たち。
全員に「目を覚ませよ」とビンタしたい。「自分を生きろよ」と伝えたい。
心の違和感を拾え。体の声を聞け。ご飯一つから、欲望に真剣に向き合え。
社会のゾンビ状態になった肉袋は、欲望がわからない。
望もうとしても、その脳機能が麻痺して望みが出てこないのだ。
そういうときは「怒り」の声を聞く。
「怒り」は「意駆り」だ。
自分にやらせたくないことをやらせているとき、もしくは自分にとって大切な価値観が眠っている事象に対して湧いてくる。
そこの声を見つめて、自分の心と対話する。
怒りや不安といったネガティブな感情は良くないものとされているが、人間の尊い心の動きの一つでしかない。そこに蓋をしていくと、中で腐ってカビが生えていく。
見つめろ。向き合え。心の声を聞け。