
#09 影の、在り処
夕方のスターバックス。ダブルのエスプレッソを啜る謎の老紳士「ドッピオさん」と、悩める若手デザイナー「ハナ」。 二人の他愛のないおしゃべりから広がる、世界の見え方が少しだけ変わるデザイン対話の物語。 (※二人の出会いを描いた #00 プロローグはこちらから お読みいただけます)
水曜日の夕方、ハナは両手で抱えるようにしてベンティサイズのフラペチーノをテーブルに置いた。ストローを突き刺す音が、いつもより少しだけ鈍く響く。
「おや、ハナさん。今日は一段と大きなため息ですねえ。その大きなカップが、心なしか重そうに見えますよ」
向かいの席で、小さなデミタスカップを傾けていたドッピオさんが、眼鏡の奥の目を細めた。
「重いっす……。物理的にも、気持ち的にも」
ハナは椅子に深く腰掛け、テーブルの上のノートPCを睨みつけた。画面には、いくつかのWebデザインのラフが並んでいる。
「今、老舗の日本酒ブランドのブランディングサイトを作ってるんです。海外向けに、圧倒的な『高級感』とか『プレミアム感』を出してくれって言われて」
「高級感、ですか。また難しそうなお題ですねえ」
「そうなんですよ。だから私、スタジオのピカピカのライトでボトルを綺麗に撮影した写真を使って、背景も真っ白にして。海外向けだからコテコテの和風明朝は避けて、あえてすっきりと洗練されたモダンなゴシック体を並べて、製法や歴史もたっぷり書いて、非の打ち所がないくらい綺麗に作ったんです。見落としがないように、隅々までクリアに」
ハナはフラペチーノを一口啜った。キャラメルの甘さが口に広がるが、頭のモヤモヤは晴れない。
「なのに上司に『スーパーのカタログかよ。綺麗だけど安っぽいんだよな』って突き返されて。ちゃんと高解像度で見せてるのに、何がダメなのか全然わかんなくて……。ドッピオさん、高級感って、どうやって画面に置けばいいんですか?」
ドッピオさんは「ふむ」と顎に手を当てた。そして、自分のグレーのジャケットのポケットから、小さな黒い小箱を取り出してテーブルの上に置いた。
「ハナさん、ちょっとこれを見ていただけますか」
「あ、それ、お香を入れるやつですか? シブいですね」
手のひらに収まるほどの、黒い漆塗りの香合(こうごう)だった。表面には、かすれた金箔で波の模様が描かれている。しかし、スターバックスの明るい天井照明の下では、漆の表面の細かな擦り傷や、剥げかけた金箔の痛みが丸見えで、どこか古ぼけたお土産品のように見えた。
「さっき、近くの骨董品屋で見つけましてね。こうして明るい場所で見ると、なんだかくたびれて、少し寂しげに見えませんか」
「まあ、ちょっと歴史があるというか……でも、普通の黒い箱ですね」
「そうですねえ。では、ちょっと失礼」
ドッピオさんは香合を指先でつまみ、テーブルの下、ちょうど二人の膝のあたりに広がる暗がりへと、そっと下ろした。
「え?」
ハナは思わず身を乗り出して、テーブルの下を覗き込んだ。
頭上のLEDライトが遮られた木陰のような暗闇の中で、その香合は一瞬で表情を変えていた。 黒い漆は周囲の闇を吸い込んで深く沈み、その境界線が消えかかっている。そして、剥げかけていたはずの波模様の金箔が、床から反射する微かな光を捉えて、まるで暗闇の奥から自ら呼吸するように、ぼんやりと、だが圧倒的な存在感で温かく黄金色に輝き始めたのだ。
「……すごい。光ってるみたい」
「ふふ、不思議でしょう。これは電気もなく、蝋燭や行灯の微かな光だけで暮らしていた時代のものですからね」
ドッピオさんは香合を暗がりに置いたまま、穏やかな声で続けた。
「かつて作家の谷崎潤一郎は、『陰翳礼賛(いんえいらいさん)』という本の中で、日本の漆器や金箔の美しさは暗闇の中でこそ完成すると言いました。真っ白な部屋や、まばゆい電灯の下では、漆は安っぽくテカり、金箔は品のない成金趣味に見えてしまう。けれど、影の中に置いた瞬間、それらは微かな光を吸い込んで、言葉にできない奥行きを持って輝き出すんです」
「影の中に、置くから……」
「ええ。彼は『美は物体にあるのではなく、物体と物体との作り出す陰翳のあや、明暗にある』と書いていましてね。すべてを白日の下に晒してしまうと、見る人はその奥にあるものを想像するのをやめてしまう。あえて隠すこと、影の中に置くことで、人は『もっと見たい』と惹きつけられ、そこに神秘や価値を感じるのかもしれません」
ハナは、自分のPC画面を見た。 真っ白な背景。スタジオのストロボで影ひとつなく照らされたボトル。すべてが説明されつくした、平らなレイアウト。
「私、サイトの中で、ボトルのラベルも、色も、全部を100%明るく照らして見せてました。だから、何でも手に入るスーパーの陳列棚みたいに見えちゃったんだ。高級ブランドに必要なのは、全部を見せることじゃなくて、あえて影を置いて、『この奥に何があるんだろう』って想像させる余白だったんだ」
ハナはノートを開き、ペンを走らせた。
「すべてを照らしちゃいけない。影があるからこそ、その奥にある光が美しく輝くんだ」
「いい言葉ですねえ。ハナさんは気づきを言語化するのがほんとに上手ですねえ」
ドッピオさんは嬉しそうに目尻に皺を寄せた。
「……ありがとうございます。ドッピオさんに言われて、なんだかすっきりしました」
ハナは嬉しそうに笑って、それからノートPCを引き寄せた。
「ちょっとだけ、今ここで直してみていいですか? 方向性だけでも見てほしくて」
「ええ、もちろん。楽しみにしていますよ」
ハナはトラックパッドの上で鮮やかに指を滑らせ、Illustratorを操作した。背景をまばゆい白から、温かみのある深い漆黒へと変更する。そして、ボトルの画像を、背景の闇に溶け込ませながら、側面の美しいガラスの曲線と、金箔押しのロゴマークだけが光を湛えて浮き上がるような、コントラストの強い「ローキー(暗調)」なビジュアルへと置き換えていった。
画面の中に、静かで、冷たくて、けれど吸い込まれそうなほど深い「影」が生まれていく。ハナは画面を少し傾けて、ドッピオさんに見せた。
「どうですか? まだラフですけど、さっきよりは『気配』が出た気がします」
ドッピオさんは画面を覗き込み、満足そうに頷いた。
「いいですねえ。闇の中に浮かぶ一杯の酒。私なら、これを見ただけでつい注文してしまいそうですよ」
「よかった。これで明日、自信を持って上司に出せます。……ドッピオさん、今日も本当にありがとうございました」
「どういたしまして。良いデザインになるといいですね」
ドッピオさんは穏やかに微笑むと、冷めかけたエスプレッソの小さなカップをそっと持ち上げ、静かに口に運んだ。
夕方の深い影が、二人のテーブルの上をゆっくりと包み込んでいった。
※この物語は、『デザイン解体新書』のコラム「【江戸時代×光と影】デジタル空間に「影」を取り戻すUXデザイン論」とペアでお楽しみいただけます