
#00 エスプレッソとフラペチーノ
夕方のスターバックスは、ゴールデンウィーク最終日の気怠い光で満たされていた。窓際の席で、ハナは小さく笑った。向かいの席では、いつものようにドッピオさんが小さなカップを傾けている。
「その話、前にもしてませんでした?」
「おや、そうでしたか。困ったな、年寄りは同じ話を繰り返すと言いますが、本当ですね」
悪びれる様子もなく、彼はまた一口啜って、ちょっと肩をすくめた。——この人と、もうこうして話すようになって半年か。そう思いながら、ハナはあの日のことを思い出していた。
半年前の、よく晴れた火曜日だった。
その日のハナは、最悪な気分でスターバックスに駆け込んだ。上司の「なんか違うんだよね、もっとこう、ガツンと来る感じで」という、いつもの感覚的ダメ出し。修正の方向もわからないまま、とにかくコーヒーを飲んで頭を冷やしたかった。
「ベンティのフラペチーノ、キャラメル追加で」
レジに向かいながらスマホを探る。——あれ。ない。ポケットにも、バッグの中にも。
「お客様?」店員の視線が気まずく揺れる。後ろに並ぶ人の気配。ハナの頬が熱くなる。財布は、今日に限って置いてきた。いつもスマホ一つで済ませているから。
「あの、すみません、キャンセルで——」
声を出しかけたその時だった。
「こちらでお願いします」
横から伸びた手が、カウンターに千円札を一枚置いた。使い込まれた茶色の革財布から、折り目のついた札。
振り返ると、グレーのジャケットを着た老紳士が立っていた。穏やかな表情でメニューボードを見上げている。目も合わせずに、彼はそのまま自分の注文を続けた。
「ドッピオを、ひとつ」
店員が復唱する。「いつものドッピオですね、お作りします」
ハナが何か言おうとするのを察したのか、彼は小さく首を振った。
「お気になさらず。後ろに並んでいらっしゃる方が、お気の毒ですから」
それだけ言って、先に席へ向かってしまった。
受け取ったフラペチーノを手に、ハナは彼のテーブルに近づいた。窓際の二人席の片側で、彼は既にエスプレッソを啜っている。
「あの、本当にすみませんでした。すぐにお返しします。PayPayで送らせてください、QRコードを——」
言いかけて、ハナは自分の手が空っぽなことを思い出した。スマホがない。だから今、こうして困っているのだ。顔が、さっきよりもっと熱くなる。
「あ……えっと、私、スマホも忘れてきたんだった……」
彼はカップをテーブルに戻して、ふっと小さく笑った。
「ふふ。まあ、お座りになったらいかがですか。立ったままだと、フラペチーノが溶けてしまいますよ」
ハナは恐縮しながら、向かいの席に腰を下ろした。
「PayPayというのは、私にはちょっと、難しくてですね」彼は続けた。「現金でいただけると、助かります。明日でも明後日でも、お気が向いたときで構いませんよ。私はたいてい、この席におりますので」
「毎日、来られてるんですか?」
「ええ、まあ、暇なものですから。家にいても仕方がないし、ここはコーヒーが美味しくて、椅子も座りやすい」
彼は自分のエスプレッソを一口啜って、それから、ふと思いついたように付け加えた。
「ああ、でもね、このフラペチーノというやつ、私は飲んだことがないんですよ。どんな味がするんです?」
思わず、ハナは笑ってしまった。千円立て替えてもらった相手に、その飲み物の味を説明することになるとは思わなかった。
「甘いです。ものすごく。キャラメル追加したので、もっと甘いです」
「ほう」
「正直、今日みたいな日は、これくらい甘くないと」
「なるほど。今日は、甘いものが必要な日だった」
そう言って、彼はまた小さく笑った。目尻に皺が寄って、悪戯っぽく見えた。追求しない、深入りしない、でも気にかけていないわけでもない——そんな笑い方だった。
翌日、ハナは千円札を握りしめてスターバックスに来た。彼は本当に、昨日と同じ席にいた。
「昨日はありがとうございました」
「ああ、わざわざ, どうも。すみませんね、きちんと受け取ります」
札を受け取って、彼はそれを財布にしまった。そして、それきり、会話は途切れた。彼は窓の外を眺めながらエスプレッソを啜り、ハナは何となく向かいの席に座ったまま、昨日とは違うドリップコーヒーを飲んだ。
気まずくはなかった。沈黙が、不思議と居心地がよかった。
その日から、ハナは夕方のスターバックスに通うようになった。彼はいつも同じ席にいて、いつも同じ小さなカップを持っていた。何度目かの来店のとき、緑のエプロンの店員が試飲のカップを持ってきた。
「新作のオーツミルクラテ、いかがですか」
ハナは受け取った。彼は、穏やかに首を横に振った。
「ありがとうございます、私は結構です。ドッピオを、もう一杯お願いします」
そのとき、レジの方から別の店員の声が聞こえた。
「いつものドッピオですね、お作りします」
——ドッピオ。
ハナは、その響きを心の中で何度か繰り返した。いつも小さなカップを傾けている、この穏やかな老紳士。ドッピオさん。なんだか, しっくりくる。
「ドッピオさん」
窓際の、夕方の光の中で、ハナは彼をそう呼んだ。半年前に心の中で勝手につけた名前が、ある日うっかり口から出てしまって、それ以来の呼び方だ。
「はい」
彼は顔を上げて、いつものように少し笑った。
「今日も、新作の試飲、断ったんですね」
「ええ。私はドッピオで結構ですから。——ああ、でもね、さっき隣の席の方が飲んでらっしゃった、あの桜色の飲み物。あれは少し、気になりました」
「桜のフラペチーノですよ。期間限定の」
「ほう、期間限定ですか」
「飲んでみます?」
「いや、やめておきましょう」彼は笑った。「期間限定というものは、気になって頼むと、たいてい拍子抜けしますから」
ハナも笑って、ノートPCを開いた。さて、今日はどんな話をしよう。