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プルタブは決意の引き金

過去記事、ブラッシュアップシリーズ
今回はこちら。 それでは、どぞ。



最近、心の疲れを感じ、若い頃からの心の安定剤――“ツナ缶”を棚から取り出す。

オイルをこぼさぬように、
慎重にプルタブに手をかける。

この中では、腐蝕を防ぐために、
ツナがオイルに浸されている。


ふと考える。

同じように、
ぼくの心を腐蝕から守ってくれるオイルは、
ないものだろうか。

腐蝕は、酸素に触れることで進む。
つまり、『酸化』だ。

では、
ぼくの心を酸化しているものは、なんだろう。

考えていくうちに、
『参加』という言葉が浮かんだ。

匿名の軽口や陰口への『参加』。

それ自体は、ただの種火にすぎない。
けれど、リプライや「イイネ!」や同調といった
小さな反応で『参加』することで、
そこに『酸化』のように酸素が送り込まれ、炎上する。

自分が対象になることもあれば、その場に参加させられることもある。
多かれ少なかれ、
他者との関わりに『参加』することは、
心を酸化させ、腐蝕させてしまうのだろうか。

それなら『参加』をやめて、
外の世界を傍観するだけの傍観者になりたい。

いや、もっと傷つかないように、
蓋をして、
オイルに浸り、
静かに保存されている『防缶者』になりたい。

でも、きっとしばらくすると、
酸素を欲しがってパクパクする自分が、
簡単に想像できてしまう。

酸素がなければ、生きていけないのだから。

noteでスキをもらったとき。
コメントが届いたとき。
確かに、酸素を取り込み、
呼吸ができた気がした。

『参加』による『酸化』は、
ときに腐蝕となり、
ときに活力にもなるようだ。

軽口や悪口の種火ではなく、
誰かの記事を肺に見立てて、
スキで『参加・酸化』する。

それによって、
活力を与えることができるかもしれない。

――いや。

活力を与えたいという思いは、
『酸化』を腐蝕ではなく、
発酵というプロセスに変質するかも知れない。
腐らせず発酵させる発酵菌の働きは大切だ。

他者との関わりへの『参加』は、
傷つき、蝕まれる可能性を含んでいる。

同時に、
気力や活力をもらい、
また与える可能性も含んでいる。

頼みのツナも、
心地よいツナがりも、
『参加・酸化』を前提にしているのだろう。

固く蓋をし、
オイルに浸り『防缶者』になるのではなく、
他者との関わりの中で、
発酵できる可能性に、ぼくはかけてみたい。

そんな思いを込めて、
ぼくはツナ缶のプルタブにかかる指に、
静かに力を込める。

全ての関わりに
『防缶者(傍観者)』にならず、
『酸化(参加)』する覚悟を持って。