防缶者よ、酸素を受け取る準備はできたか
ツナ缶が大好きだ。
若い頃は1缶で3合いったこともある。
今日も今日とて
ツナ缶を開ける。
腐蝕を防ぐように、ツナはオイルに浸されている。
ふと考える。
ぼくの心を腐蝕から守ってくれるオイルは、ないものだろうか。
……いや、そんな都合のいい「救いの綱(ツナ)」はないか。
少しこじつけすぎたかな。
けれど、たしかに「救いの糸」を探してい
る自分はいる。
——外の世界を怖れ、傷つかないように蓋をして、静かに保存されている“防缶者”としての自分。
モウ キズツキタク ナインダヨ
そういえば
腐蝕ってなんで起きるんだっけ?
あぁ、酸化か。
ぼくを蝕むのは、世間の評価かもしれない。
いや、正確に言えば——その評価によって、自分自身が自分を酸化させているのだろう。
匿名の軽口も、ひとつの酸化の例かもしれない。
リプライや「イイネ!」といった小さな反応が、やがては腐臭を放つ中傷へと変わっていくこともある。
それはまるで、種火に酸素を送り、炎上へと増幅させるようだ。
酸化への関与を避けること。
つまり「参加しない」ことも、ひとつの方法だと思う。
でも一方で——
投稿に「イイネ!」を押すこと、
誰かの言葉に小さくリプライすること、
それは孤独という真空の中に酸素を供給し呼吸を許されるような気持ちにもなる。
共感という栄養を取り込み、ため息まじりの二酸化炭素を吐き出す。
そんな代謝が明日への活力にもなるのだ。
────だから思う。
「参加しない」はただの傍観になりうる。
大事なのは、どんな主張に参加するのか。
どんな言葉に酸素を送り、小さくも活力あるエネルギーを生み出していくのか。
腐蝕だって見方を変えれば
酸化による生命の循環プロセスだ
自分のある一面が腐食しているのであれば
いっそ酸化・分解させればいい
いや
発酵という道もある
とても感銘を受けたのが
著・小倉ヒラクの『発酵文化人類学』
微生物の力で発酵させるという考え方
自分の腐蝕に置き換えると
自分以外の誰か
友人やリスナーやビューワーなどに
酸素を送り発酵を手伝ってもらい
自分をリビルド(再構築)していく。
微生物は不確かで環境が大事で
命令で動くわけでもない。
でも大きな助力となっている。
固く蓋をし世間を傍観し
酸素を拒み呼吸をやめた“防缶者”の自分よ
蓋を開け酸素を受け取るように
他と対話し発酵していこうではないか
防缶者よ、酸素を受け取る準備はできたか
そう自問自答する
そんな今日この頃
