
地味な恋愛|朱さんの翻訳ー上海⑮ー
高速道路の脇を歩く人がいる。
クラクションを鳴らしながら
朱さんは笑いながらわざと吠える。
汚い上海語の悪口。
なんども助手席で聞いてきた煩わしさ。
これが中国よ。
日本じゃ考えられないでしょ。
広州ホンダの車。
静かな乗り心地。
シートに沈む身体。
街から遠ざかると地面から伝わる
ずさんな舗装の振動が響く。
上海は小さな街だったことが分かる。
上海を中国だと思ったらダメよ!
朱さんは軽快に喋る。
人が多いでしょ。
うんざりしているようで
諦めているような物言い。
彼女は共産党の悪口ばかり言っている。
財産を没収された話。
文革、幼少期の食べれない記憶。
ほんの30年前まで
上海でも餓死が日常にあった。
大陸の田舎は圧倒的に足りない。
木々もお金もトイレも。
荒んだ景色が流れていく。
人の目に余裕がない。
羊の群れが道路を横断し始める。
クラクションも鳴らさず
当たり前に止まる。
朱さんは優しく言った。
あなたはあの父親とは違うモノを持っている。
それが何なのか
僕にはよく分からない。
あなたの父親は優しい。
あなたも優しい。
不一样。
優しさが違うのよ。
不管别人怎么说,
你一定要走自己的路。
例え人から何を言われようとも
あなたは、あなたの道を行きなさい。
自己的路
自分の道
一定要
必ず?
そう必ず。
なんで?
それを見つけられない人はね。
苦しんで
人を傷つけるのよ。
要らないよ。
自分の道なんて
見つかる気もしない。
まだきっと先の話よ。
それでも朱さんの中国語を
書き留めては
眺め直した。
朱さんは父より
父みたいだった。
彼女と父の関係は
聞かなくても分かった。
父は戦友だと笑っていた。
朱さんの家に住むようになって
一年が経とうとしていた。
ふと
朱さんと当たり前に会話をしているな
と思った。
僕らは何でも話し合っていた。
会話しない空気さえも
一緒に過ごしていた。
インインのこと、
Rinのこと、ジンジンの行末。
日本語でもあまり話したことがない。
お互いの事情。
父は事件以降、特別変わらない。
僕に遠慮して
何も言ってこない空気は伝わる。
時々朱さんの家に来ては食卓を囲む。
サボりの言い訳。
汚い悪口の応酬。
政治と金の話。
なんとなく
巡っている。
日本も中国も
上海の食卓にいる。
車は一面の綿花畑についた。
煉瓦積みの薄暗い家。
朱さんは玄関口で
鼻を膨らませ
ここに一泊するのよ
勇気がいるでしょ。
と笑う。
朱さんの方が心配だった。
子供達が騒いでいた。
連れられるまま家を案内される。
古びた鉄の細長い型枠。
赤いモノがこびり付いている。
ローソクを作っていた。
小さな丸太の断面
中華包丁が刺さっている。
ごまを絞って
瓶底まで極細の糸が伸びては
途切れている。
ハチミツのような油。
幼い頃の北京の街角が
目の前にあった。
子供達は携帯に忙しそうで
争って遊びながらも、
綿花を摘みに行くと、
無邪気に後ろについて走り回る。
本当に白いモノが植物にくっついている。
弾力のあるワタを掴んでは握る。
夕食を囲う。
子供達は大人と同じ席には座れない。
朱さんがヒソヒソと僕に耳打ちした。
この辺は孔子の故郷だから
儒教の儀礼にすごくうるさいのよ。
そういうのもあるのか。
不思議だった。
何千年も続いている。
当たり前の日常。
誰も気に止めない。
僕とは遠いところにある生活。
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