
小田急江ノ島線・鵠沼海岸駅──海の見えない駅前でアイスコーヒーを買い、湘南を歩き始める午後
小田急江ノ島線 の車両が、本鵠沼駅 を出る。
窓の外には住宅街が続いている。
湘南と聞くと海を想像するが、この区間にはまだ水面の気配はない。
あるのは低い建物と生活道路、それから初夏に近づき始めた午後の光だけだ。
それでも、この沿線には独特の抜け感がある。
東京とも横浜とも違う。急いでいる人が少ないというより、急ぐ必要を少しだけ脇へ置いているように見える。
電車はゆっくりと減速し、鵠沼海岸駅 に到着した。
ホームに降りる。
駅は大きくない。
青色のラインや看板が、小田急の駅であることを自然に伝えている。
観光地の玄関口のような派手さはなく、どちらかといえば住宅街の延長に近い。
改札も小さい。
だが、その小ささが、この街には合っている気がした。
海は見えない。
それでも、ここが海へ向かう途中の駅であることは、空気の軽さでなんとなく分かる。
駅前には、控えめな商店街が続いている。
ドラッグストア、小さな飲食店、美容院、魚屋、ラーメン屋、インド料理店。
どの店も、肩に力が入っていない。
「湘南らしさ」をわざわざ演出していないのに、結果として湘南に見える。
自転車にサーフボードを積んだ男が、脇を通り過ぎていく。
日焼けした腕と、少し色の抜けた髪。
急いでいるようには見えないが、止まっているわけでもない。
この街の時間は、そういう速度で流れているのかもしれない。
ファミリーマート に入る。
冷たいものが欲しくなる気温だった。
アイスコーヒーを選ぶ。
透明なカップの中で氷が鳴る。
レジを済ませ、外へ出る。
一口飲むと、苦味より先に冷たさが広がった。
特別な店のコーヒーではない。
だが、この街では、それくらいがちょうどいい気がする。
洒落たカフェに入るよりも、コンビニのコーヒーを片手に歩いている方が、この場所に馴染めるような気がした。
駅前から海の方へ向かって歩き始める。
もちろん、まだ海は見えない。
だが、道の先にあることは分かっている。
風の匂いなのか、空の広さなのか、自分でもよく分からない感覚が、そう思わせる。
この先では、たぶんサーファーたちが波を待っている。
誰かがボードを抱えて砂浜を歩いているかもしれない。
だが、それを確かめなくてもいい気もした。
海へ向かっている時間そのものに、すでに意味がある。
もう一口、アイスコーヒーを飲む。
氷が少しだけ溶けていた。
湘南の午後は、まだ始まったばかりだった。