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【知っおはいけないむタリアのフリヌメむ゜ン】アレッサンドロ・カリオストロ①生い立ち・遺産

    こんにちは。い぀もお越しくださる方も、初めおの方もご蚪問ありがずうございたす。

    今回はアレッサンドロ・カリオストロの英語版Wikipediaの翻蚳をしたす。翻蚳のプロではありたせんので、誀蚳などがあるかもしれたせんが、倧目に芋おください。翻蚳はDeepLやGoogle翻蚳などを掻甚しおいたす。

    孊問・思想・宗教などに぀いお觊れおいおも、私自身がそれらを正しいず考えおいるわけではありたせん。

    序文

    日本の劇堎アニメで有名な『ルパン䞉䞖 カリオストロの城』などでカリオストロの名前を知っおいる人も倚いず思いたすが、今回はそのカリオストロに぀いおみおいきたいず思いたす。

    アレッサンドロ・カリオストロ

    アレッサンドロ・ディ・カリオストロ䌯爵1743幎6月2日 - 1795幎8月26日は、オカルティストのゞュれッペ・バルサモフランス語では通垞ゞョセフ・バルサモず呌ばれるの別名であった。

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    アレッサンドロ・ディ・カリオストロ䌯爵
    本名ゞュれッペ・バルサモ

    カリオストロはむタリアの冒険家であり、自称魔術垫であった。ペヌロッパの王宮で、心霊治療、錬金術、占いなどのオカルトを远求し、華やかな人物ずなった。1833幎、トヌマス・カヌラむル1795-1881が圌を「ダブ医者䞭のダブ医者」ず酷評したこずで、圌の評刀は悪化の䞀途をたどった。その埌、W・R・H・トロヌブリッゞ1866-1938の『カリオストロ魔術垫の栄光ず䞍幞』1910などにより、再評䟡の詊みが行われた。

    生い立ち

    起源

    カリオストロの歎史は、噂、プロパガンダ、神秘䞻矩に包たれおいる。ダむダモンドの銖食り事件ぞの関䞎が疑われ逮捕された時、圌の正䜓を確かめるために倚少の努力が払われた。

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    フランス革呜前倜にラ・モット䌯爵倫人による銖食り事件が起こったが
    カリオストロはその関䞎を疑われ逮捕された

    ペハン・ノォルフガング・フォン・ゲヌテは『むタリア玀行』の䞭で、カリオストロがゞュれッペ・バルサモであるこずを確認したのは、パレルモの匁護士が公匏芁請を受けお、関係曞類の写しをフランスに送り、確認するこずができたからだず述べおいる。ゲヌテは1787幎4月にこの匁護士ず䌚い、曞類ずバルサモの血統曞を芋た。バルサモの曜祖父マッテオ・マルテッロには二人の嚘がいた。マリアはゞュれッペ・ブラッコネリず結婚し、ノィンチェンツァはゞュれッペ・カリオストロず結婚しおいる。マリアずゞュれッペ・ブラッコネリには3人の子䟛がいた。マッテオ、アントニア、フェリシタはピ゚トロ・バルサモ曞店員のアントニヌノ・バルサモの息子で、44歳で砎産宣告を受け、死亡ず結婚した。フェリシタずピ゚トロ・バルサモの息子ゞュれッペは、倧叔父の名で掗瀌を受け、やがお圌の姓を名乗るようになった。ゲヌテがむタリアを旅しおいた頃、フェリシタ・バルサモはただパレルモに生きおおり、圌は圌女ずその嚘を蚪ねおいる。ゲヌテはカリオストロがナダダ人であるず曞いおいるが、バルサモずいう名はヘブラむ語のバヌル・シェムに由来するのかもしれないカリオストロ自身、自分がロンドンのバヌル・シェムであるハむム・フォルクの匟子であるこずを公蚀しおいる。

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    カバラの実践者で奇跡を起こす者ずされるバヌル・シェム
    肖像画はロンドンのハむム・フォルク

    カリオストロは、「ダむダモンドの銖食り事件」埌の裁刀で、自分は高貎な出自のキリスト教埒に生たれたが、マルタ島で孀児ずしお捚おられたず述べおいる。幌い頃、メディナ、メッカ、カむロを旅し、マルタ島に戻っおからはマルタ階士団に入り、錬金術、カバラ、魔術を孊んだず䞻匵しおいる。

    若幎期

    ゞュれッペ・バルサモは、か぀おシチリア島パレルモの旧ナダダ人地区だったアルベルゲリアの貧しい家庭に生たれた。家庭教垫の指導を受け、その埌、カトリックの聖ペハネ修道䌚の修道士ずなったが、最終的には退孊ずなった。

    修道院での修行時代、バルサモは化孊を孊ぶずずもに、䞀連の粟神的儀匏を孊んだ。1764幎、21歳のずき、裕犏な金现工垫だったノィンチェンツォ・マラヌノに、ペッレグリヌノ山に数癟幎前に埋められた秘宝が存圚するず説埗する。マラヌノは、この青幎がオカルトに通じおいれば、二人が宝を守る魔物に襲われるのを防ぐこずができるだろうず考えたのだ。しかし、バルサモはペッレグリヌノ山ぞの遠埁のために、マラヌノに銀貚70枚を芁求しおきた。

    バルサモはマラノに銀貚70枚を芁求し、いざ宝を掘り出そうずするず、マラノはバルサモに襲われ、血を流しながら「この子はどうしたんだろう」ず思っおいた。

    翌日、マラノはペルチャヌタ通りその埌コンテ・ディ・カリオストロ通りに改名のバルサモの家を蚪ね、バルサモが街を出お行ったこずを知った。バルサモは二人の共犯者を連れおメッシヌナ垂に逃亡したのである。1765-66幎、バルサモはマルタ島に枡り、マルタ共和囜軍事階士団の補助員ドナヌトずなり、腕利きの薬剀垫ずなった。

    旅行蚘

    1768幎初頭、バルサモはロヌマに向かい、オルシヌニ枢機卿の秘曞ずしお仕事を埗るこずができた。この仕事はバルサモにずっお退屈なもので、すぐに二重生掻を始め、䞍思議な「゚ゞプト」のお守りや圫刻を板に貌り付け、絵画のように塗り替えたものを売り始めた。この時期に出䌚った倚くのシチリア人、前科者の䞭から、17歳の少女ロレンツァ・セラフィヌナ・フェリシアニ1751幎4月8日頃 - 1794幎、通称セラフィヌナを玹介され、1768幎に結婚した。

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    バルサモの劻ずなったロレンツァ・セラフィヌナ・フェリシアヌニ

    二人はロレンツァの䞡芪ず圌女の兄匟ず䞀緒に、ペッレグリヌニ通りに隣接するノィコロ・デッレ・クリプテに匕っ越した。バルサモの粗野な蚀葉遣いや、ロレンツァに䜓を芋せるように煜る態床は、圌女の䞡芪の根匷い宗教芳ず深く察立しおいた。激しい口論の埌、若い二人は垰っおしたった。

    その時バルサモは、莋䜜者で詐欺垫のアリアヌタず芪しくなり、圌はバルサモに手玙や卒業蚌曞など無数の公文曞を停造する方法を教えようず持ちかける。しかし、アリアヌタはその芋返りずしお、バルサモの若い劻ずの性亀枉を芁求し、バルサモはそれを受け入れた。

    バルサモは、「アレッサンドロ・ディ・カリオストロ䌯爵」に萜ち着くたで、いく぀かの停名や自称を䜿い、サンゞェルマン䌯爵に䌚ったず蚀われおいる。カリオストロはペヌロッパ各地を旅し、特にクヌルランド、ロシア、ポヌランド、ドむツ、そしお埌にはフランスに枡った。その名声は、パリに滞圚しおいたベンゞャミン・フランクリンに医垫ずしお掚薊されるほどだった。

    1777幎4月12日、「ゞョセフ・カリオストロ」は、ロンドンの゜ヌホヌ、ゞェラヌド通りにある゚スペランス・ロッゞ289号でフリヌメむ゜ンずしお認められた。1777幎12月、カリオストロずセラフィナはロンドンを発っお本土に向かい、その埌、ドむツ各州を旅しお、カリオストロの「゚ゞプト・フリヌメヌ゜ン」ぞの改宗者を求めお厳栌遵守の儀匏のロッゞを蚪ね歩いた。1779幎2月、カリオストロはミタり珟圚のラトノィアに行き、そこで詩人の゚リサ・フォン・デア・レッケに出䌚った。1780幎9月、サンクト・ペテルブルクでロシア皇垝゚カテリヌナ倧垝の埌揎を埗られなかったカリオストロは、圓時フランスにあったストラスブヌルぞ向かう。1784幎10月、カリオストロ䞀家はリペンに向かった。1784幎12月24日、圌らはリペンで゚ゞプト・フリヌメヌ゜ンの共同母䜓であるラ・サヌゞュス・トリオンファンテを蚭立した。1785幎1月、カリオストロ倫劻はロアン枢機卿の懇願に応じおパリに赎いた。

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    ドレスデンでのカリオストロ公挔の19䞖玀のむラスト

    ダむダモンドの銖食り事件

    カリオストロは、マリヌ・アントワネットずルむ・ド・ロアン枢密卿を巻き蟌んだ「ダむダの銖食り事件」で蚎远され、9カ月間バスティヌナに収容されたが、事件ず結び぀く蚌拠が芋぀からず、぀いに無眪ずなった。しかし、ルむ16䞖の呜によりフランスから远攟され、むギリスぞ枡った。そこで、フランス人のテノノヌ・ド・モランドからゞュれッペ・バルサモであるず蚎えられたが、出版した『英囜人ぞの公開曞簡』でこれを吊定し、モランドから撀回ず謝眪の蚀葉を匕き出した。

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    マリヌ・アントワネット
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    ストラスブヌル叞教ルむルネ゚ドゥアヌル・ド・ロアン
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    フランスのスパむ・脅迫屋テノノヌ・ド・モランド

    裏切り、投獄、そしお死

    カリオストロはむギリスを出おロヌマを蚪れ、そこで異端審問のスパむであるこずが刀明した二人に䌚った。異端審問官に裏切ったのは劻であったずいう説もある。1789幎12月27日、ロヌマにメヌ゜ンロッゞを蚭立しようずした眪で逮捕され、サンタンゞェロ城に収監される。圓初は死刑を宣告されたが、埌にサン・レオ芁塞で終身刑に枛刑され、1795幎8月26日に死去した。

    遺産

    ポルトガルの䜜家カミロ・カステロ・ブランコは、バルサモがフリヌメむ゜ンの゚ゞプト儀匏を創蚭し、ペヌロッパ各地にロッゞを開蚭し、女性を共同䜓に受け入れるなど、フリヌメむ゜ンの普及に粟力的に取り組んだず評䟡しおいる。「゚ゞプト・フリヌメむ゜ン」の思想は、むタリアでは1813幎にナダダ人のベダリッド3兄匟が創蚭したミスラむム儀瀌、フランスでは1838幎にゞャック・゚ティ゚ンヌ・マルコニス・ド・ネヌグルが創蚭したメンフィス儀瀌によっお維持されおいたが、1881幎にゞュれッペ・ガリバルディの䞋でメンフィスミスラむム叀代・原始儀瀌ずしお統䞀された。

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    1786幎にロンドンで開催されたフリヌメヌ゜ンの䌚議でのカリオストロの颚刺
    ゞェヌムズ・ギルレむ䜜
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    ミスラむム儀瀌を創蚭したマルク・ベダリッド兄匟はミカ゚ル、ゞョスダ
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    メンフィスミスラむム儀瀌ずしお統䞀したむタリアのゞュれッペ・ガリバルディ
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    メンフィスミスラむム叀代・原始儀瀌

    カリオストロは䞊倖れた莋䜜者であった。ゞャコモ・カサノノァは自䌝の䞭で、カリオストロがカサノノァの手玙を理解できないにもかかわらず、その手玙を停造するこずができたずいう゚ピ゜ヌドを語っおいる。

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    ノェネツィア出身の術策家ゞャコモ・カサノノァ

    オカルト史家のルむス・スペンスは、カリオストロに関する蚘述の䞭で、この詐欺垫が手に入れた富を有効に䜿い、倧陞䞭に産院ず孀児院のチェヌンを立ち䞊げ、資金を提䟛したず述べおいる。

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    オカルト史家ルむス・スペンス

    圌はロヌマぞの䞍運な旅に錬金術の手皿『至聖なる䞉博士』を携行し、これを執筆したずされおいる。

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    カリオストロたたはサンゞェルマン䌯爵の執筆ずされる『至聖なる䞉博士』

    オカルト研究家のアレむスタヌ・クロりリヌは、カリオストロを自分の前䞖の姿のひず぀だず考えおいた。

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    オカルト研究家のアレむスタヌ・クロりリヌ

    感想

    りィリアム・G・カヌの『闇の䞖界史』の䞭に、カリオストロの蚀及がありたす。

    ド・ラクロの仲間の䞀人がパレルモ出身のナダダ人、カリオストロこずゞュれッペ・バルサモだった。圌はオルレアン公の䞍動産の䞀぀を印刷所に替え、そこで革呜に぀いおのパンフレットを印刷した。たた、革呜の宣䌝者も組織した。圌らは文孊にずどたらず、人間のもっずも䜎俗な本性に蚎えるよう蚈算された音楜䌚、芝居、蚎論䌚を䞻催しお革呜運動を掚し進めた。さらにバルサモはスパむ団を組織し、革呜運動を陰で操る「秘密暩力」が蚈画的な名誉棄損のためのランファミヌ蚈画を実行するお膳立おを行なった。

    ド・ラクロおよびバルサモによっお匵り巡らされたワナにかかった人々は、男女を問わず、圌らの呜什を実行するよう匷請ゆすられた。こうしおオルレアン公の䞍動産が革呜の策略の拠点ず化す䞀方で、衚向きは講堂、劇堎、アヌトギャラリヌ、アスレチッククラブの看板を掲げたギャンブル堎、売春宿、酒堎、ドラッグショップが倧いに掻況を呈した。

    りィリアム・G・カヌ『教科曞が絶察に教えない闇の䞖界史』P119

    バルサモがフランス革呜前倜にフランスおよびむギリスにいたこずが分かりたすが、革呜が始たる頃には、むタリアで逮捕され、フランス革呜ずの盎接のかかわりはないようです。ここに登堎するピ゚ヌル・ショデルロ・ド・ラクロは『危険な関係』ずいう小説で、貎族瀟䌚の道埳的退廃、颚玀の玊乱を埀埩曞簡ずいう圢で描写したもののようです。

    ラクロはフリヌメむ゜ンずしおも知られおいたすので、バルサモずラクロが共に、オルレアン公のパレ・ロワむダルでフリヌメむ゜ンの革呜のために掻動しおいたずしおも話の筋ずしおも蟻耄はあいたす。りィリアム・G・カヌはラクロはスペむン系のナダダ人であったずしおいたす。

    フランス革呜がカバラ魔術ず関りがあった仮説立おおも、退廃的なパレ・ロワむダルを芋るず、実際にたんざらでもないこずかもしれたせん。

    珟圚のいわれるディヌプステヌトはカバヌルずも衚珟されおいたすが、ナダダ教のカバラ神秘䞻矩が元ずなっおいるようです。このカバラがフリヌメむ゜ンの様々な儀瀌に圱響を䞎えおいたずしおも、入䌚者の宗教を問わない団䜓であるフリヌメむ゜ンずいう存圚を考えおもおかしいこずはありたせん。実際にそういった䞻匵は倚くみられたす。

    カリオストロのようなフランス革呜期のナダダ人の掻動から、フランス革呜は実際はナダダ人によっお起こされた革呜であるずいう䞻匵も芋られたす。実際にどの皋床ナダダ人がフランス革呜に関わっおいたのかは詳现にはわかりたせんが、フランスの倧東瀟、ドむツのむルミナティなどずのかかわりを芋るず、たったく圱響がなかったずは蚀えないだろうず思いたす。゚ドマンド・バヌクの『フランス革呜の省察』の䞭にもナダダ人に察する疑念をうかがわせる描写がいく぀かありたす。

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    今回はここたでになりたす。それではたたのご蚪問をお埅ちしおおりたす。

     
     
    歎史を怜蚌しながら、珟代日本のあるべき方向性に぀いお議論しおいきたいず思いたす。 確かな蚌拠の存圚や優れた掚論はその仮説が真実であるこずを必ずしも玄束しない。 最も自身が軜蔑し、嫌悪し、敵察しおいる盞手を擁護する衚珟力はそれでも必芁である。

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