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純粋無垢な私は死んだ

    私は人生で一度も恋人を作ったことのない人間だ。
    自分の意志ではっきりとこの人と恋愛をしたい、と思えたことがないのだ。二十数年で、一度も。


    「愛で喧嘩して、それから一緒に眠ろうよ」にて詳しく話したが、私は恋愛感情が分からない。
    他者に性欲を抱いたことがない。
    これまで他者に対して広く好意や愛を抱いてきた。

    しかし友愛と恋愛の区別が付かないクワロマンティック的な観点から見ると、アセクシャルなのかノンセクシャルなのかデミセクシャルなのか、まだ自身の性的指向の判別がつかない。
    つまるところ、私は現状クエスチョニングである。

    他者への無限の愛を胸に秘めた私は、今日もグラデーションの中に居る。


    性的指向が近しい方のnoteを読んでみると、数多の共感に出会える。
    見知らぬ誰かの葛藤や、藻掻きの末に滲み出る美しさは、「私のような人間が存在していても良いのか」と漠然とした不安を抱えた夜に、そっと優しく寄り添ってくれる。
    世間一般の普通ではないからといって、自分で自分を否定する必要はないことを思い出させてくれる。

    貴方の考え方を生き様を、綴ってくれてありがとう。
    綺麗な文章でなくとも、私も私の人生を綴ろう。





    私が友人に向ける愛には友愛以外の感情が含まれる。純粋な親愛であることもあるが、独占欲が混ざることも多々ある。


    プラトニックな関係性を求める視点だけから物を言うならば、友人らに等しく恋をしている、と捉えることもできるのだろう。
    私はそうは思わないから、彼らを友人と称しているのだが。

    彼らに恋人ができたのなら、涙が出るほど嬉しい。
    私の大切な人のことを、誰よりも大切にしたいと思って行動に出る人が現れた。めでたい。
    その人と新たな幸せを育んでいってほしい。
    貴方の幸せを何より願っている。

    彼らに恋人ができたのなら、寂しい。
    私がどんなに深く愛そうとも、貴方の一番の愛は私には生涯向けられることがない事実に直面する。
    この寂しさは、恋愛至上主義的考えの友人が過去に存在したことに由来する。

    貴方も相手の色に染められてしまうのではないか。私を置いて遠い何処かに行ってしまうのではないか。彼らが変わっていくことに怯えている。
    昨日と全く同じ人間など、居るはずもないのに。 


    心の奥底の深い深い海底には、「誰かの一番で在りたい」欲求が鎮座している。
    いつでもメラメラと燃えているものではないが、確かに存在を主張する日が在る。それに飲み込まれた人間が一気に醜くなることは、万人の知るところ。だから私は決して表には出さない。

    誰にだってこの欲求はある。
    この気持ちが大きくなり過ぎないように日々自分と向き合う必要がある。それだけだ。

    意図せずぐちゃぐちゃが溢れだしてしまう前に、私は何を怖がっているのか、本当は何を求めているのかを見よう。ぐちゃぐちゃに塗れた私と目を合わせる。美しくない私を見つめる。とても苦しい。逃げてしまいたい。
    それでももう、私は私を諦めたくない。




    他者からの愛をまっすぐに受け取りたいのに、自分が誰かの一番となる価値が在る人間だとはどうしても思えない。他の人と幸せになってほしい。私に期待しないでほしい。
    私の境界線の内側に、勝手に入ってこないで。


    誰の一番にもなれない私で居ることに、心の何処かで安心感を覚えている事実に気が付いた。


    私を一番にしてくれた人を、誰かの一番になれた私を失うことがとてつもなく恐ろしく思える。
    その人を失くしたらもう二度と誰にも愛されない予感がする。
    だからと言って、その人を縛りたいわけではない。

    私は自由を愛している。
    相手にも自由であってほしい。
    別れが来ることは怖いが、その分相手を手放す覚悟はいつでもできている。失う恐ろしさよりも、不自由を強制する恐ろしさのほうがずっと巨大だ。
    ならば私は、そんなに何に怯えているのだろうか。
    きっと私の知らない私に会うことが怖いのだろう。


    今まで歪んだ思考でどうにか抑えつけていた感情に、振り回される未来が来ることが怖いのだ。


    私は私のことを何も知らないまま生きてきた。
    私を知るのは今からでも遅くはない。
    それでも恋愛は未知の世界だ。
    大切な人に私も知らない醜い私を見せることになるかもしれない。それで離れていってしまうかもしれない。これが甚だ恐ろしいのだ。
    「結論の飛躍」である。

    そんなことで離れていく人は初めから勘弁だ。
    頭ではそう分かってはいるのだが、見捨てられ不安に思考をジャックされて、正常な判断ができなくなってしまう。
    私を知ってほしいのに、私を知らないでほしい。
    私を知りたいのに、私を知ることが怖い。
    私は私を嫌うことが癖になっている。
    私を知っていくことで、新たな嫌う理由が見つかることを恐れているのだ。





    自身は最も恋愛に向いてない人間であると、自覚がある。



    私は世間一般の人と違う、異質な存在である。
    普通ではない。嫌だ。普通で在りたい。ぐちゃぐちゃな私を隠して、ハリボテの鎧を纏わなければ。普通にならなくては。正解でいなければ。正常な人間で、在らなくては。

    私は誰の目を気にしているのだろうか。

    世間一般の普通に自分を当てはめ続けることが、本当はずっと苦しい。
    年頃の男女が当然のように行う「恋愛をする」という選択肢を己に与えなかったのは、私を数々の恐怖から無意識に守っていたのだろう。

    恋愛をする上では、見ないふりをしていたぐちゃぐちゃな私に向き合わなければならないことに、幼くして私は何処かで分かっていたのだ。
    当時は向き合う勇気が持てなかった。
    これ以上自分を嫌いになりたくなかったから。

    大丈夫。
    私を知ることで、私は私を嫌いにならないよ。
    どんな私も一緒に生きてきた私なのだから。
    今の私は向き合う勇気を持てている。




    私が恋愛に向いていないと考える大きな要因は3つ。

    1つは家庭環境から、愛されることへの自己肯定感が形成されず、ありのままの私を見せることを怖がるがあまりに、他者からの愛を純粋に信じられないこと。
    1つは中学の経験から、他者が向けてくる性欲に対して過剰に反応してしまうこと。
    恋愛的好意から逃げたくなってしまう。
    ここまでは今まで内省を綴る中で、少しずつ向き合えてきたように思う。

    そして、もう1つ。
    これが要因だと認めたくなかったのだが認めざるを得なくなった、と言おうか。これは私の数少ない誇れる長所でもあるのだが、今向き合う時が来た。


    私が人間を好きで、友人を深く愛してしまうこと。


    おや、人間が好きであるのなら、恋人を作ることは一見向いていそうではないか。なんだかんだ言って人に好かれないから恋人ができないだけでは?

    そう思う貴方の為にも、本noteを記している。
    冗長な自分語りとなる。
    ここまでの前振りで1本のnoteにしても良いくらいの文章量だが、まだまだつらつらと書き連ねている。なんと全体で10,000文字もある。
    今までで最長のnoteとなった。
    ゆるりとお付き合い願おう。

    今回話す「純粋無垢な私」は、性欲を怖いと感じるようになって異性から逃げ惑う前までの私を指す。





    私はこれまで幾度も「人間が好きだ」と綴り続けてきたのだが、友人への愛の話を練り込んだことはあっても、具体的に私がどのような認識で人と関わっているのかを、詳しく明記したことはなかった。


    人と関わる際にその人の「性別」を意識して関わるという視点が、元来の私にはない。


    性別が異なっていても、私たちは平等に同じ人間である。いつだって対等な存在だ。

    まず「性別」があって興味を抱くのではなく、「目の前の貴方」に興味があって関わり始める。
    これを読んでいる貴方にも、幼い頃はそのように人と関わってきた期間がきっと在ったはずだ。
    ただ、大人になるにつれてその考え方は次第に許容されなくなる。
    外見上の性別に従い、男らしく、女らしく在ることを求められる。他者が私たちを常に査定する。

    いつから「ひとりの人である私で、ひとりの人と接する」という当たり前は、社会で機能しなくなってしまったのだろうか。
    貴方も思いを巡らせてみてほしい。




    私が他者からジャッジの目を向けられていると明確に感じ始めたのは、中学生の頃である。
    外見上の男女が共に居るだけで、私が男の子と話しているだけで、恋仲だと噂された。


    「最近〇〇くんと仲良いよね!付き合ってるの?」
    「✕✕くんのことが好きなの?」
    「〇〇くん、実は▽▽さんの好きな人だと言ったら、どうする?」
    「〇〇くんと✕✕くん、実際どちらが好きなの?」
    「✕✕くん、他に好きな人居るらしいよ!残念」


    散々好き放題言われた。

    私はただ、人として興味があるから目の前の人と関わっているだけなのに、傍から見るとそれは恋愛的好意を隠す言い訳に聞こえるようで、全ての行動に恋愛的な意味付けをされた。他者から好奇の目で見られ続ける思春期において、私の普通は尽く否定された。


    「私、□□くんが好きなんだ!」と聞かされることは、「私が先に好きになったのだから、貴方は好きにならないでね」と遠回しに牽制をかけられることと同義である。

    例外的に誰かの好きな人を奪うことが好きな人も居たが(まだ当人らで交際は始まっていないため、かろうじて横取りにも浮気にもならないが、倫理的にどうなのか、とよく一派に吊るされている人が居た。私は正直どちらでも良いと思う。全員フリーなら、誰が誰を好きになろうと当人らの自由だと思うのだ)、基本的には言ったもん勝ちの世界。


    「貴方の好きな人であれば、私は話してはいけないの?どうして?私が誰と話そうが私の勝手じゃないか。貴方の好きな人と誰が話していたって、そんなの貴方には関係ない。相手の意志決定に、貴方の意思は関係ないだろう」


    喉から出かけたこれらの言葉を全て飲み込んだ。
    釈然としないが、この女社会で波風立てずに生きていくには、そのトンデモ論を受け入れる他ない。
    お門違いな嫉妬や憎悪の念を向けられるのは、もうごめんである。


    「いいよ。私からは関わらないようにするね」


    そう言ってその場をやり過ごしてきた。
    全然良いと思っていないのに、私の感情を隠した。相反する言葉を並べた。彼らが安心するように。




    誰が誰に思いを寄せているのか、というような情事に私はめっぽう疎い。直接言われでもしない限りは分からない。自分への好意にはある程度敏感でも、友人としての親愛と恋愛的な情の違いが分からない私には、他者による他者への恋愛的好意は、皆目見当もつかないのだ。

    分からないのならもう、全員避けたほうが早い。
    私はゼロヒャク思考の持ち主だ。
    「全か無か思想」である。



    目の前に居る人が自身の興味の対象であれば、誰に何を言われようが自分の意志で関わる選択をしてきたのだが、それが途端に許されなくなった。

    私の普通は世間一般の普通ではない。
    この頃から私は、家でも外でも他者にレッテルを貼られることに慣れてしまっているのかもしれない。
    他者が望む私で居ることで誰かを安心させられる。私が感情を抑えれば皆が幸せなんだ。そう思った。感情を素直に表現して行動に起こせるありのままの私では、社会に拒絶されることを学んでしまった。

    今回は「ひとりの人である私で、ひとりの人と接する」ことが許されていた、私が私らしく居られていた頃を詳しく振り返るとする。






    さて、やっと本題だ。
    私の小学生時代を振り返ろう。



    当時から人見知りは激しいものの、人間が好きなところは何ら変わっていない。
    この人素敵だな、面白いな、不思議だな。
    そう感じたら積極的に人と関わった。行動派だ。

    ほうきで取り切れないゴミを何の気なしに素手で拾うところを見た時。
    消しゴムのカスを床に払わずに、手に包んでゴミ箱に捨てに行くところを見た時。
    虫に優しく話しかけているところを見た時。
    食べられる草を知っていて、目の前でむしゃりと食べるところを見た時(これは私が、食べられると聞いたのならなんでも草花を口にしてみるという、中々ロックな心を持つ子どもであったことに由来する。同志を見掛けたら、そりゃ気になりもするだろう。人より胃腸が強いのは、この時の経験に由来していると考える)。


    私は自分の目で見た世界を何より信じていた。

    自分の感情に正直で、まっすぐに人と関わることを厭わない。
    自分の信条を貫き通す、そんな子どもであった。




    貴方は何が好きで、貴方は何に心を動かすの?
    貴方は普段何を考えているの?貴方って何??
    私、貴方のことが知りたいの、たくさん教えてほしい!私のこともたくさん教えてあげるね!

    この頃は私を知られることに何の抵抗も抱かなかった。皆分かり合おうの精神性。

    自由気ままに生きる姿は一定層の人に好印象を与えていたようで、好意を伝えられたり、交際を提案されることもあった。
    これは断じて私に魅力が有ったという話ではなく、人間皆、単純接触効果の奴隷であるのだ。


    あらゆる人に興味を持つことが私にとって自然なことであるならば、自分に関心がある人、全くない人、自分にはない視点を持つ人を好きになる人が居ることもまた、自然なこと。


    恋人が居る生活ってなんだか想像がつかないや。
    私はこの人のことを恋愛的に好きではないだろうし、交際したところで何をするの?
    友人で十分じゃない?
    どうして恋人関係を望むの?
    恋愛的な好きって、なんだろう?


    上記のような疑問を当時から抱いていたため、決まって返事は「付き合うことはできないけれど、ありがとう!」であった。
    相手がどんなに好意を寄せてくれているとしても、恋愛的な好きが分からない状態で人と付き合うことは、誠実ではないと捉えていた。

    まさか今の今まで同じ疑問を抱いていることになるとは、夢にも思わなかった。
    いつか周りと同じように、普通に誰かを好きになって、普通に交際をすると思っていた。
    私は何処までも普通で在りたかった。






    近所に住む同年代の人は男の子がほとんどで、そこから男勝りの負けず嫌いの性格が培われた。



    性別問わず、売られた口喧嘩は必ず買った。
    泣いたほうが負け。負けてたまるか。
    相手の発言を妨げたり、声の大きさは荒げないことがマイルール。
    より瞬発的に、論理的に話を組み立てられたほうが勝ちだ。相手が泣くまで論破を止めない。
    当時はクラスで一番背が低かったのだが、そのちいさな身体には誰よりも勝ち気なエネルギーを蓄えていた。


    毎日果敢に挑んできた男の子が居た。
    当時の私にとって、喧嘩はコミュニケーションの一環であったため、真っ向勝負に受けて立ち続けた。

    彼と毎日喧嘩をしていたあの頃、実のところ私はとても幸せを感じていた。私が女の子であっても手を抜かず、ひとりの人間として全力でぶつかってきてくれたことが嬉しかったのだ。
    遠慮せずに連日泣かせまくってごめんね。 



    対話がほとんど存在しない我が家において、唯一相手の腹の底が知れる手段が喧嘩であった。
    だから私は全ての口喧嘩を買っていた。
    目の前の貴方のことを知りたかったのだ。

    この考え方自体が歪んでいると気が付いたのは、いつの頃かは分からない。
    今ではめっきり人と喧嘩をしなくなった。人を知ることを諦めるようになったのか、私を知ってもらうことを諦めるようになったのか。境界線を意識できるようになったからなのか、対話を知ったからなのか。恐らく理由は複合的だ。


    昔の私と今の私が口喧嘩をしたら、100%勝てない。
    常に家庭内で不測の事態に備えていたため、話の切り返し力は磨きに磨かれていた。

    当時の私の頭脳は無数のルートを辿り、唯一絶対の正解を叩き出すことができる機械のようであった。

    その正解は、当時の私が無意識的に信仰していた私の中の正しさに由来するものであり、場合によっては世間一般的なものとは外れていることがあったことも、今の私は理解している。
    所詮小学生の思考の及ぶ範囲には限界がある。

    それでも当時の私の話には、言葉には、眼差しには、ある種の説得力と熱量が有った。
    だから皆負けたのだ。






    負けん気が強い反面、身体的にも精神的にも暴力を仄めかされるとすぐに涙を流す子どもであった。


    ある日近所の男の子が、外で兄と大喧嘩をした。
    普段は両者温厚であるから、互いに(とても優しく)掴みかかるのを誰も止めることもできずに為す術もなくハラハラと見守る中。
    彼が兄に向かって「しね」と言った。

    「本当にしんじゃったら、どうするの、!」

    何故か私がその場で大泣き。焦る群衆。
    嗚咽を上げながら息をするのもやっとな状態で家に帰り、そこからまたおいおい泣いた。
    「なんであんたが泣いてるの?!」と窓から一部始終を目撃していた母にも動揺された。

    分からない。でも、凄く切なくてやるせないの。おぼろげな仄暗い気配に包まれている。胸が苦しい。息がうまく吸えない。誰か助けて。怖いよ。やだよ。人に死を願うだなんて、そんなのってないよ。


    夜な夜な彼の「しね」という言葉を思い出し、ひとりでぼろぼろと泣いた。
    自分に向けられた言葉でもないのに、どうしてだろうか。今でも記していて少し涙が出てきた。
    私は暴力が怖い。


    その後の喧嘩の収束の仕方は分からず仕舞いである。翌日双方ケロリとしていた。なんやねん。
    私だけ泣き腫らした目元で登校して、皆に驚かれたことを覚えている。私を包んだ仄暗い気配、邪気が消え去るまでにはかなりの時間を要した。

    ※適切な言葉が見つからないため、「邪気」という単語を今回使用していくが、決してスピっていない。なんか嫌な感じの空気感といった感じだ。
    ちいかわ的に言えば「いやくう」であるが、語呂が悪すぎるし字面も好みではない、不採用。


    思えばこの頃からネガティブな言葉に引っ張られやすい。女社会のコミュニケーションの一環の陰口も大の苦手だ。
    邪気のある言葉には己から近付きたくない。
    自身も積極的に発したくない。寄せ付けたくない。

    だから私は、優しい人で在りたいのかもしれない。






    高校生時代、毎日母が父に呪いの言葉をかけ続けていた頃は本当に辛かった。

    あの頃は母と寝室を共にしていた。夜中に目が覚めると、ぶつぶつと呪いを呟いている声が聞こえた。胸がずんと重くなった。私の心がどんどん沈んでいく。暗くて冷たいほうへ。ぐちゃぐちゃで息苦しくて、でも一度それを乗り越えれば何も考えなくて済む楽なほうへ、誰かに誘われた気がした。


    この経験から確実に邪気に鈍くなった。
    母の呪いが私に染み込み我が身となってしまった邪気が在ることで、他者が纏う邪気に恐れを感じにくくなってしまった。平たく言うと、人に死を願うという選択が私の中に生まれてしまったのだ。
    私の場合は己に対して。






    嫌なところがあるのなら、面と向かって言えば良いじゃないか。私はずっとそう思っている。



    悪口には一定の耐性がある。悲しいが、そう言わせる原因が私に在るのだ。泣かずに向き合いたい。
    誰しも思うところはあるだろうから、正々堂々ぶつけておいでよ。ただ、相手にもぶつけられる覚悟がないのなら、それは口に出すべきではない。
    私はそのように考える。

    相手へのマイナスな感情は、心の中に無理に閉じ込めずに紙に書き出してみるなどして何かしらの形で体外に排出する必要がある、と私は実体験から学びを得た。
    もしこれを読んでいる貴方が、現状そのような相手と離れられない環境であるのなら一度試してみてほしい。貴方の心に押し留めないで良い。
    相手にぶつけなければ、消化して良い。
    心に邪気が溜まってぐちゃぐちゃに飲み込まれる前に、自分を嫌いになる前に、手放してしまおう。



    小学生の頃、女の子たちはいつも一緒に居る友人が居ない場では、どうしてあんなにも恐ろしい言葉を平然と放つことができるのか、分からなかった。
    自分にとっては都合の悪いところも含めて、その人なのに。それだから人間は面白いのに。

    今では分かる。
    彼らは自分が悪者にならずに誰かのことを蔑んで、優位に立ったと錯覚したかったのだろう。
    そのような形でしか承認欲求を満たせなかったのだ。なんとまあ、浅ましい。


    私が友人を厳選するようになったのは、間違いなくこの頃からだ。私の心を邪気から守るために始めたのだ。

    私は純粋で居たかった。綺麗な私で居たかった。無邪気な私で居たかった。正しい私で居たかった。人を信じられる私で居たかった。
    純粋無垢な私のまま、一生を終えたかったのだ。

    よく話しよく笑い、よく走りよく転び、よく泣く。まさにお転婆娘。私は小学生の頃、無敵の生命体であった。


    元来の私は常にロックで、人間が大好きで、自分の中にいつも正しさを持っていて、ちょっとばかし偏屈で、それでも誰かに愛される人間であった。
    自ら死を望むことなんて考えすら過ぎらない、エネルギーに満ち溢れた美しい人間であった。

    ありのままの私の根源は、ここに在るのだ。


    だから今の私を淑やかだとか言われてしまうと、ついつい笑いたくなってしまうのだ。
    貴方は私を何も知らないね、と。





    友人の陰口は何があっても言わない。
    そもそも陰口を言いたくなるような人はその時点で、私の友人ではないのだ。


    大人になってからも変わらず人の悪口や陰口を連日叩く人は、よっぽど暇な人なんだと思う。
    悪口や陰口は妬み由来のものが多い。
    嫌いという感情ともまた別だ。
    憎しみとかとなるとまた別だ。
    これらの違いは攻撃性の段階の差なのだろうか。


    友人に対しては、そこまで結晶化させてしまう前に、愚痴なら幾らでも聞いてあげたい。

    貴方の苦しんでいることを教えて。
    貴方の許せないことを教えて。
    貴方の大切にしていることを教えて。
    貴方はどう在りたいのかを、思い出して。
    貴方のやわらかな心が、邪気で汚れてしまう前に。ぐちゃぐちゃを溜め込まないで済むように。
    貴方が貴方のままで居られるように。
    貴方が貴方を見失わないように。




    あまりにもクソデカ感情を抱えている自覚はある。もうどうしようもない。私はそういう人間なのだ。

    人間が好きだ。
    友人を深く愛する。
    それが私の普通なのだ。

    彼らと私の愛の大きさは一生釣り合うことはないだろう。
    それでも良いから、愛することを赦してほしい。

    彼らには「いつでも私を頼ってね」と伝えてある。

    私を頼るのかは、あくまで友人次第。「頼れない」と「頼らない」は違うから、あくまで選択肢のひとつとして私の存在を知覚していてくれれば良い。

    ただ、私のできる提案はいつも、貴方が私に自己開示をしてくれる前提のもとに成り立つ。
    人に開示することに疲弊してしまった段階では、私は貴方の心を軽くできないだろう。無力だ。
    私の前でだけは、ありのままの貴方で居てもらう。そんな心づもりで会うことしかできない。

    無理に聞き出さない優しさで包んで、ただ、側に居ることしかできない。
    私は他者で価値を計りがちだ。
    何もできない私で会うことを、もどかしく思う。


    私が限界を迎えて命の灯を己で消しにかかりながら、心の何処かでは生きることへの赦しを求めていた時、友人らはこんな気持ちだったのだろうか。
    案外気付いていなかったかもしれない。
    私は気丈に振る舞っていたから。

    私の中の正しさを捨ててでも。
    私の思う世間の普通から逸脱したとしても。
    純粋無垢な美しい私は死んでしまったけれども。
    ぐちゃぐちゃを抱えながら、私は生きる。
    そう決めたのだ。


    解決に向けて話を聞いてほしいのか、共感を求めて話を聞いてほしいのか、事実として整理するために話を聞いてほしいのか。これらの判別は難題である。相手の性格や状況によって、対応は臨機応変に変える必要がある。

    変に時間をかけて悩んだ挙げ句に不正解を引くのなら、いっそ直接聞いてしまっても良いだろう。
    どんな姿勢で貴方の話を聞けば良いのか、と。
    無論そこまでの信頼関係を構築している前提あっての話ではあるのだが。






    友人厳選を始める前までは、クラスの30人中28人(つまり、その人と私以外)が嫌っているか避けていたとしても、その人を知らずして避けるなんてことは私の選択肢に無かった。


    「人には必ず良いところがあるのだから、嫌われている事実よりも私が目で見たことを信じて、仲良くするかを自分で判断したい」


    そのような考え方をしていた。
    私は元来人間が好きなのだ。
    今ではやりたくても、やらない。できない。
    過去の経験を経て、自分が確実に潰れる未来が見えているからだ。



    友人を、厳選している。
    言い換えれば、人との関わりを己で制限している。
    以前よりも心の平穏を守れてホッとしている私と、人を切り捨てていくことを悲しく思う私とが同居している。


    心のHPを削ることに繋がる人たちの傾向を、歳を重ねるにつれて少しずつ学んできた。
    関わる人を厳選した今、怪しい人とは距離を取るようになり、結果としてHPを削りすぎないように調整できるようになった。
    良いことだ。間違えてない。求めていた目的は叶っている。限りなく正解に近い。

    それでも私は複雑なのだ。


    私は本当は、「ひとりの人である私で、ひとりの人と接する」ことを生涯通してやり遂げたかったのだ。

    全ての行動に恋愛的意味を求められ、性的トラウマを植え付けられ、純粋無垢な私は死んだ。
    社会に適合する為に、大人になる為に。





    私らしさを拾い集めてみると、私の普通は案外世間一般の普通ではない事実に向き合うこととなる。
    普通とは一体なんだろうか。
    逸脱し過ぎても、基準値の真ん中に居ても、私はきっとひどく虚しくなるだろう。


    思うに普通とは、他人軸の極みの言葉なのではないだろうか。


    自己受容においては、恐らく私の普通を、私のものさしを大切にすることが求められるのであろう。

    世間一般の普通と私の普通、重なる部分も相違する部分もある。あえて言おう。それが普通だ。
    私は替えの利かない、ひとりの普通の人間なのだ。

    正解が存在しない恋愛は、私にとって怖いものだ。それでも、今の私は段階を踏んで知っていきたいと思う。恋愛とは何たるかを。
    私とは、どういう人間であるのかを。



    普段敢えて関わらないであろう集団の中から「おもしれー人間」探しを行うアプリでの一連の流れは、とてもワクワクする。
    小学生の頃に戻ったような気持ちになる。
    集団がたまたま全員男性というだけであって、やっていることは同じなのだ。

    しかし、とうの昔に純粋無垢な私は死んだ。
    全員と平等には関われない。
    私の心を守るために、彼らをふるいにかける日々。

    私は人間として興味を抱いて会いたいと思う。
    相手は女性として興味を抱いて会いたいと思う。

    そもそも本来ならこんなギャップは存在しないのだ。ややこしいことをしてしまっている自覚はある。すまない。



    なりたくなかった大人になった私は、「喧嘩しよう」と言えなくなった。貴方を知りたいとは、もう無遠慮に言えなくなった。恋愛的な意味で全てを捉えられることに、こんなにも疲れてしまった。

    アプリのプロフィールには「色々と対話をしましょう」と記載している。
    私は今でも「ひとりの人である私で、ひとりの人と接する」ことを夢見ている。




    純粋無垢な私は死んだ。
    致命傷を負った私を手にかけたのは、他でもない私だ。社会に馴染めない存在。他者に受け入れられない存在。今後私が無難に生きていくために殺した。

    この内省は、彼女への弔いも兼ねている。
    彼女を燃やし、骨を拾う。
    そんな心づもりで彼女と歩んだ人生を振り返った。

    本当は、私は彼女と共に生きたかった。
    彼女が生きている間に愛してあげたかった。
    私は彼女を殺した罪を抱えながら、生きている。
    なりたくなかった大人になった。
    死んだように生きることをやめた。
    私は私が責任を持って選択した道を歩みたい。
    どんなに苦しくとも、私の人生を生きたいと思う。
    私の愛する美しい彼女に恥じない人生を。




     
     
    私を知るために、気ままに内省を記します。 投稿して24時間以内は文章修正しまくります。 自由人ですね。 いつでも自分の言葉で話せる私で在りたいな。 アイコンは冨田マリー様より。 『気持ちだけでも貴族になりたくて横になって飯を食う』

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