
『消えたい夜用の便箋』
終電後の街は、不思議なくらい静かだった。
昼間はあんなに騒がしい駅前も、
終電が行ってしまうと、
まるで役目を終えたみたいに息を潜める。
コンビニの白い灯りだけが、
夜に置き去りにされたみたいに滲んでいた。
私は、冷えた缶コーヒーを片手に、
人気のないシャッター街をぼんやり歩く。
私が死んでも世界はまわる。
それは、誰が死んでもそうなんだろうけど、
死んだ後に誰かの中にその人がいるかどうかは、
その人の生き方による、気がする。
私が死んだら、
私は誰かの心の中に存在させてもらうことができるのだろうか。
そんな、考えても仕方のない問いを、
今日もぐるぐる考えている。
別に理由があって死にたいわけじゃない。
でも、生きる理由もない。
なんか疲れちゃった。
吐いた息が、夜の空気に白く溶ける。
その時だった。
閉まっているはずのシャッター街の奥に、
ぽつりと灯りが見えた。
古びた、小さな文房具店。
こんな時間に開いているはずがないのに、
店先のランプだけが静かに揺れている。
私は吸い寄せられるみたいに、
その店の前で立ち止まった。
硝子戸の横。
手書きみたいな小さな文字で、
こんな言葉が貼られていた。
『書けなかった人へ』
硝子戸に触れかけた指が、止まる。
私はその小さな貼り紙を見つめたまま、
なぜだか動けなくなっていた。
『書けなかった人へ』
その文字は、
まるでずっと前から、
私が来るのを知っていたみたいだった。
私が死んでも、
誰か私のこと覚えていてくれますか。
私が死んでも、
誰か私のこと、ときどき思い出してくれますか。
それとも。
私が死んだら、
この世界から私の存在は完全に消えて、
何もなかったみたいになるんだろうか。
わからない。
考えても仕方ない。
そんなこと、誰にもわからない。
でも、
夜になると時々どうしようもなく怖くなる。
自分が、
誰の記憶にも残らないまま消えてしまうことが。
「——入らないんですか」
不意に声がした。
びくりとして顔を上げる。
店の奥。
暖色の灯りの向こうに、
ひとりの男が立っていた。
年齢のわからない人だった。
静かな目をしている。
その人は私を急かすでもなく、
ただ当たり前みたいにそこにいた。
「そのままだと、冷えますよ」
私は少し迷ってから、
硝子戸を開けた。
小さなベルが、
夜に溶けるみたいに鳴った。
店の中は、
古い紙の匂いがした。
図書館とも違う。
学校のプリントとも違う。
もっと静かで、
もっと誰かの体温に近い匂い。
棚には、
万年筆やインクや便箋が整然と並んでいる。
けれど、そのどれにも、
小さな札が添えられていた。
『泣けなかった夜のためのインク』
『戻れない人へ送る便箋』
『言いそびれた「ごめんね」用』
私はそれを見て、
少しだけ息が詰まる。
「書けなかった人って、なんですか」
男はすぐには答えなかった。
棚の奥へ歩き、
ガラス瓶に入った深い青色のインクをひとつ取り出す。
それをカウンターへ置いてから、
静かな声で言った。
「言葉にできなかった人たちのことです」
「……」
「助けて、が言えなかった人。
死にたい、を書けなかった人。
本当は寂しかったのに、
平気なふりをしてしまった人」
彼はそこで少しだけ目を伏せた。
「人は、本当に苦しい時ほど、
ちゃんと言葉にできなくなるので」
店の奥で、
古時計が小さく鳴る。
私はなぜだか、
その言葉から目を逸らせなかった。
「私、何にも苦しくないし……」
反射みたいにそう言って、
私は視線を逸らした。
苦しい人なんて、
もっとちゃんと苦しそうな顔をしていると思う。
眠れなくて、
泣いて、
食べられなくて、
明確な理由があって。
私はただ、
毎日をなんとなくやり過ごしているだけだ。
仕事に行って、
愛想笑いして、
帰って、
スマホを見て、
気づいたら夜になっている。
ちゃんと生きている。
だから、
こんな場所に来る資格なんてない気がした。
男は何も言わなかった。
ただ、
カウンターに置いたインク瓶を、
指先で静かに回している。
深い青色が、
灯りの下でゆっくり揺れた。
「人は」
彼は独り言みたいに言った。
「本当に壊れる直前まで、
自分のことを“大丈夫”だと思い込もうとするんです」
私は笑おうとした。
でもうまくできなかった。
その代わり、
喉の奥に小さな棘みたいなものが引っかかる。
「……別に、死にたいわけでもないです」
「ええ」
「でも、生きたい理由もなくて」
男は静かに頷く。
まるで、
それを何度も聞いてきた人みたいに。
「それは案外、
いちばん疲れる状態かもしれませんね」
「疲れる状態」
私はその言葉を、
頭の中でゆっくり転がした。
悲しい、とは少し違う。
苦しい、とも言い切れない。
でも、
ずっと浅く息をしているみたいに、
どこかが張りつめている。
それはなんか、そうかもしれなかった。
店の奥で、
時計が小さく時を刻んでいる。
私は並んだ便箋をぼんやり見つめながら、
小さく言った。
「……私に合う便箋、ありますか」
男は少しだけ目を細めた。
それから棚の一番下へしゃがみ込み、
ひとつの箱を取り出す。
白でもなく、
灰色でもなく、
雨が降る前の空みたいな色の便箋だった。
触れると、
少しざらついている。
「これは、“消えたい夜”用です」
「そんな便箋あるんですね」
「よく出ます」
淡々とした声だった。
でもその静けさが、
変に嘘っぽくなくて、
私は少しだけ安心してしまう。
「書くんですか、みんな」
男は便箋を一枚、
ゆっくり机へ置く。
「いいえ」
そして静かに言った。
「書けない人のほうが、多いですよ」
その言葉に、
胸の奥が少しだけ痛んだ。
「そっか」
私は便箋を指先でそっと撫でた。
雨の前の空みたいな色。
綺麗、というより、
静かな紙だった。
「……これ、持って帰ってもいいですか」
男は「どうぞ」と小さく頷く。
値札は見当たらなかった。
「いくらですか」
そう聞くと、
彼は少しだけ考えるみたいに沈黙してから言った。
「書けた分だけで」
「……変なお店」
「よく言われます」
初めて、
彼がほんの少しだけ笑った気がした。
私は便箋を胸の前で抱える。
なぜだろう。
それだけなのに、
少しだけ、
何かを持ち帰れる気がした。
私は、ゆっくり考えたかった。
ゆっくり、
全部吐き出したいと思った。
死にたいわけじゃない。
でも、
このまま何も感じないふりを続けていたら、
いつか本当に、
自分が消えてしまう気がした。
部屋は静かだった。
冷蔵庫の低い音だけが、
夜の隅で小さく鳴っている。
私は机に便箋を置いて、
しばらく何も書けずにいた。
白い紙を前にすると、
頭の中にあったはずの言葉は、
急に輪郭を失ってしまう。
何を書いたらいいかわからない。
わからないけど、
何か書かなくちゃと、
よくわからないけどそう思った。
私はゆっくりペンを握る。
インクが紙に滲む。
『私、なんで生きてるんだろうね。
別につらくてつらくてってわけじゃないけど、
生きるのはなんだか得意じゃないみたい。
この便箋、“消えたい夜用”だって。
私、消えたいのかな。
よく考えてみても、
自分の気持ちって案外わからないものだね。
死にたいって言っちゃいけないって、
子どもの頃よく言われたよね。
でもさ、
死にたいって言うことで、
自分の気持ちに気づけて楽になることもある気がするんだ。
私は、死にたいの?
ううん、たぶんね、
私は生きたい。
器用には生きられないってわかってるけど、
死にたい気持ち抱えたまま、生きたい。
そんなわたしでいいよって、
認められたい。』
書き終えた瞬間、
私は大きく息を吐いた。
誰かに見せるわけでもない。
送る相手もいない。
それなのに、
胸の奥に沈んでいた何かが、
ほんの少しだけ浮かび上がった気がした。
死にたい。
その言葉は、
本当に死を望む声だけじゃないのかもしれない。
ちゃんと苦しいって認めてほしい、とか。
消えたいくらい疲れた、とか。
このままじゃ駄目だって、
本当は誰かに気づいてほしい、とか。
そういう、
行き場をなくした感情の名前なのかもしれなかった。
私は便箋をそっと折りたたむ。
窓の外では、
夜明け前の空が少しだけ薄くなり始めていた。
「……書けた」
誰に聞かせるでもなく、
私は小さく呟いた。
たったそれだけのことなのに、
胸の奥が少し熱かった。
私はまだ書ける。
まだ、
自分の気持ちをちゃんと探そうとできる。
ぐちゃぐちゃでも、
矛盾してても、
綺麗じゃなくても。
それでも、
言葉にしようと思えた。
私は便箋をそっと折りたたむ。
インクはまだ少しだけ湿っていて、
触れると滲みそうだった。
お店に持っていくのはやめよう。
これは、
誰かに読んでもらうための言葉じゃない気がした。
たぶんこれは、
消えかけていた私自身を、
ちゃんと繋ぎ止めるための言葉だ。
「……大事にしよう」
私は引き出しの奥へ、
その便箋を静かにしまう。
窓の外では、
朝がゆっくり街を薄く照らし始めていた。
世界は今日も、
何事もなかったみたいに動き出していく。
電車が走って、
誰かが仕事へ向かって、
コンビニには新しいパンが並ぶ。
たぶん、
私がいなくなっても、
世界は同じようにまわり続ける。
でも。
それでも私は、
今日、
自分の言葉をひとつ残した。
それは案外、
生きるってことに近いのかもしれない、と思った。
すこしだけ寝よう。
それで、明日もまたがんばろうね。
※本作『消えたい夜用の便箋』をベースに、Webtoon(縦スクロール漫画)用のシナリオを作成しました。文章がスマホ画面のコマに落ちていく感覚をぜひお楽しみください。