50代からの知的冒険|切手と国家の物語⑨なぜ、軍神・乃木希典の切手に「ポパイの錨」が描かれたのか?
50代からの知的冒険
自身の切手コレクションをもとに日本近現代史を読み解くシリーズ。今回は、乃木希典を描いた昭和切手を取り上げる。
私の手元に、陸軍の「軍神」乃木希典に、海軍の「錨」をかたどった穿孔が入った田型ブロックがある。穿孔は乃木切手を海軍が使っていた証だ。

よく見ると、目打は粗く、穿孔の位置も一枚ごとに微妙に異なる。戦前・戦中の時代の手作り感が残っている。
戦時期、陸軍と海軍は国策をめぐってしばしば対立した。陸軍は、日中戦争の長期化の中で資源獲得のために南進に傾き、対米戦争も不可避との認識を強めていく。
一方、海軍には、対米戦になれば日本の国力では長期戦に耐えられないとの現実的な見方があり、開戦に慎重な空気があった。
国策や予算をめぐって激しく対立していた陸海軍。その象徴である「陸軍の軍神」と「海軍の錨」が、一枚の切手の上で同居している。
しかも、その穴の並びが、のちの敵国である米国の漫画キャラクター、ポパイの腕に刻まれた錨のタトゥーを思わせる。軍神、海軍、錨、そして米国が一枚の古い切手の上で調和している。どことなくユーモラスに思えてくる。
しかし、この切手がたどった歴史を振り返ると、日本が経験した苦難の時代を思わずにはいられない。
葉書の乃木希典、封書の東郷平八郎
乃木希典を描いた2銭普通切手は、通常葉書の料金が1銭5厘から2銭に引き上げられたのに伴って、昭和12年5月10日に発行された。
大正期から長く使われた田沢切手は、菊花紋章と唐草模様を基調にした意匠で、大正デモクラシーの香りを残していた。

対照的に、国家を前面に出した第1次昭和切手の登場は、激動の昭和を暗示しているかのようだ。

乃木希典は明治天皇の大喪の日に殉死し、当時の社会に大きな衝撃を与えた人物だ。殉死は江戸時代にすでに禁じられていた。
軍人としての乃木は、日露戦争で旅順攻略を指揮したことで知られる。のちに軍神とされた乃木だが、その人生は苦難の連続だった。西南戦争では軍旗を喪失し、旅順攻略で数万の将兵を戦死させている。
乃木は、自らが司令官として指揮した旅順攻略戦で、二人の息子も失っている。人生最大の苦難を背負いながら、国家と天皇への忠誠を貫いた。乃木は学校教育、乃木神社、出版物、記念絵葉書などを通じて顕彰され、やがて「軍神」と仰がれるようになった。

乃木切手の発行から遡ること31年。明治39年に逓信省が発行した陸軍凱旋観兵式記念絵葉書には、すでに乃木の姿が見える。左から3人目が参謀総長の山縣有朋、4人目が日露戦争では満洲軍総司令官だった大山巌。一人置いて、右から3人目が乃木だ。

当時の乃木は満56歳。写真からも貫禄が伝わってくる。いまの私と同世代とは到底思えない。
東郷平八郎は、乃木から遅れること約3ヶ月、昭和12年8月1日に国内封書用の4銭切手として登場する。

東郷は日本海海戦で連合艦隊を率い、ロシアのバルチック艦隊を破った海軍の英雄だ。日露戦争の日本海海戦(1905年)開戦の際にZ旗を掲げて全艦隊を鼓舞した次の一節はあまりに有名だ。
「皇国の興廃この一戦にあり、各員一層奮励努力せよ」
日本は、日本海海戦を経て日露戦争に勝利し、近代国家としての地位を確立する。東郷の言葉の通り、仮にわが国があの一戦に敗れていれば、日本の近現代史は大きく変わっていただろう。
日露戦争勝利の立役者となった海軍の英雄・東郷は封書用の4銭切手に、陸軍の軍神・乃木は葉書用の2銭切手になった。二人の軍神は、国民の日常の通信に貼られることになったのだ。逓信省が、覇を競っていた陸海軍のバランスを取ったのだろう。
標語の消印が押された乃木切手
大正から戦中にかけて、郵便物は単なる通信手段ではなかった。国は、人々が日々目にする郵便を通じて、今でいう政府広報を行っていたのだ。
通常葉書に貼られた乃木2銭に数多く残された標語印は、その現場記録だ。乃木の顔に押された標語は、それぞれ実に興味深い。

「国債の力で築け、新東亜」からは、戦費の調達に必死だった政府の姿が窺われる。これ以外にも、「偲べ戦線、求めよ国債」「胸に愛国、手に国債」「先ず国債でご奉公」などの標語の消印がある。

「大東亜、築く力だ、この一票」は、昭和17年(1942年)の翼賛選挙の際の標語だろう。生前の乃木は、自分の肖像がまさか選挙運動に利用されるとは思わなかったのではないか。

「滅私奉公」は、乃木希典の生きざまと重なる。それに続く「政治の基調」という言葉は、国民の私生活や権利が二の次に置かれていた時代の空気をうかがわせる。この郵便の受取人は、乃木と標語を目にして何を感じたのだろうか。
時代を追うにつれ、標語印は戦時色を濃くしていく。
乃木切手の物語は、ここでは終わらない
戦意高揚の手段となった乃木切手は、戦況が悪化するにつれ、紙質は落ち、印刷も粗悪になっていく。そして、日本は敗戦を迎える。
後編では、敗戦を越えてなお使われ続けた乃木切手が、やがてまったく別の役割を担う姿を追ってみたい。
(コラム)穿孔切手の豆知識
最初に紹介した穿孔切手は、主に大正から昭和戦前・戦中期にかけて使われた。政府機関や軍が、切手の私用や盗難を防ぐため、あらかじめ文字や記号の穴を開けて使用していたものだ。
興味深いのは、郵便を大量に扱う民間企業にも、穿孔切手の使用が認められていたことである。
私の手元には、昭和13年(1938年)8月、横浜から敦賀、ウラジオストクを経て、シベリア鉄道に接続し、デンマーク・コペンハーゲンへ向かった外信書状がある。

富士鹿20銭に「SA」の穿孔が施されているのが分かるだろうか?

海軍の「錨」の穿孔と同じように、Seitaro Arai & Co., Ltd.、すなわち新井清太郎商店のイニシャルを切手に穿孔することで、社用切手であることを示している。

新井清太郎商店は、1888年に横浜で創業した、食品原料や雑貨などを扱う老舗輸出入商社だ。大量の郵便物を扱っていたため、独自の穿孔を施した切手を日常的に使用していたのだろう。
穿孔切手は、図案に穴が開いているため、美しい切手を好む収集家には敬遠されることもある。私は、官庁や企業が郵便を大量に使っていた時代の痕跡として、興味深いと思う。
次回は、乃木切手のその後について、「海を渡った軍神、占領下で追放切手に」というタイトルで書く。
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