
第12章 コロナ襲来「止まってわかった、儀礼の正体」#13お葬式で、なぜお坊さんがお経をあげるのか
お葬式で、なぜお坊さんがお経をあげるのか。
誰もが知っている風景です。
しかし「なぜ」と問われると、答えに詰まる。
「昔からそうだから」——その先を、
私たちはほとんど考えたことがありません。
仏教はもともと、
海外から輸入された最新鋭の統治OSでした。
それが1500年をかけて巨大化し、解体され、
やがて葬式仏教として人々の暮らしに残った。
そして今、少子化・墓じまい・AI進化の波の中で、その仕組みは限界を迎えつつあります。
本書は、その栄枯盛衰を歴史と
ビジネスモデルの両面から読み解く試みです。
そしてこの旅の終着点は、過去ではありません。
1500年間、制度に預けてきた葬送という
「当たり前」に、一度疑問を持つこと。
そして、自分なりの考えと基軸を持つこと。
そのための入口です。
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第12章
コロナ襲来「止まってわかった、儀礼の正体」
2020年、世界が止まった。
人が集まれなくなった。移動できなくなった。「当たり前にやっていたこと」
が、突然できなくなった。
葬儀も、止まった。
遠方の親族が集まれない。
参列者を呼べない。
お坊さんを呼ぶことへの躊躇も生まれた。
1500年続いてきた
「当たり前の儀礼」
が、ウイルスという予期しない力によって、
強制的に止められた。
■ 「できない」が暴いたもの——削れるものと、削れないもの
コロナが葬儀に与えた最大の影響は、
費用でも形式でもなかった。
「何が本当に必要で、
何が慣習に過ぎなかったのか」
を、強制的に可視化したことだ。
削れたもの
——大勢の参列者、
豪華な祭壇、会食、長時間の儀式。
これらは「体裁」や「慣習」
に属するものだった。
なくても、本質的な問題はなかった。
削れなかったもの
——故人に手を合わせる時間、
遺族が「送り出した」
と感じる区切り、
家族が集まって死を共有する時間。
これらは、どんなに簡略化しても、
なくすことができなかった。
コロナは、1500年分の
「慣習の堆積」
を強制的に剥ぎ取った。
そしてその下から、
人間が本当に必要としているものの輪郭が、
初めてはっきりと見えた。
■ 「呼べない葬儀」が教えてくれたこと
コロナで参列者を絞ったとき、
遺族の多くが気づいたことがある。
「参列者は、遺族のためではなく、
社会的な体裁のためにいた」
という事実だ。
家族だけの葬儀を経験した遺族の多くが、
「かえってゆっくり送り出せた」と語った。
葬儀の「規模の縮小」が、
葬儀の「質の向上」につながった。
これは逆説的な発見だった。
■ お経は必要か——コロナが問いかけた根本の問い
「お坊さんを呼べない葬儀でも、ちゃんと送り出せるのか」
という問いが生まれた。
「お経がなくても、ちゃんとお別れできた」
という声が上がった。
しかし一方で、こういう声もあった。
「お経がないと、何か終わった気がしない」
「お坊さんに来てもらえなかったことが、ずっと引っかかっている」
この二つの声は、矛盾しているように見えて、実は同じことを指している。
人は、「区切り」を必要としている。
コロナは、「お経が必要かどうか」を問いかけたのではない。「あなたにとって、死を受け入れるための区切りは何か」を問いかけていた。
■ コロナが残したもの——「自分で決める」という経験
コロナが去った後、葬儀の風景は少し変わった。
家族葬が
「例外」から「標準」へと変わりつつある。
「お坊さんを呼ばない選択」
が、以前ほどタブーではなくなった。
しかし同時に、
「コロナで満足な葬儀ができなかった。落ち着いたら、ちゃんとしたお別れをしたい」
——そういう「お別れ会」「偲ぶ会」が増えた。形式にとらわれない、その人らしい送り出しの場を、自分たちで作ろうとする動きだ。
「型に従う」のではなく、「自分たちで作る」。
1500年間、
「当たり前」が答えを用意してくれていた。
しかしコロナ以降、
「自分で選ぶ」
という経験が、多くの人に刻み込まれた。
この変化は、もう後戻りしない。
その話を、次章で見ていこう。
前回|第11章「バブル崩壊——葬儀費用は、なぜ重荷になったのか」
次回|第13章「少子化・無宗教化・墓じまい——旧来OSではもう体制維持できない」