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一メートルの凪⑪【最終話】

    ※一話はこちら 一メートルの凪①|タナベヒトシ

     四月だった。

     コインランドリーの自動ドアを開けると、外の空気が変わっていた。湿り気を含んだ、やわらかい夜気だった。自転車を漕いできた手は素手だった。灰色の手袋はポケットの中で小さな塊になっている。

     店内はいつもと同じだった。蛍光灯が白い。乾燥機が低く唸っている。洗剤の匂い。それだけの場所だった。

     五番の洗濯機に洗濯物を入れた。硬貨を入れて、ボタンを押す。ベンチに座った。

     ミナはまだ来ていなかった。

     洗濯機が回っている。その音を聴いていた。窓の外を、ときどき車が通る。ヘッドライトの光が店内を横切って、また暗くなる。

     自動ドアが開いた。

     ミナだった。薄いカーディガンを羽織っていた。冬の間のダウンジャケットはもうなかった。髪は束ねていたが、いつもより少し緩く結んでいた。

     自分を見て、手を挙げた。

     「こんばんは」

     頷いた。

     ミナは三番の洗濯機に向かった。いつもの手順。洗濯物を入れて、硬貨を入れて、ボタンを押す。何も変わらない動作だった。

     ミナがベンチに向かってきた。隣の座面に洗剤の粉が落ちていた。手で払った。白い粉が床に散って、蛍光灯の光に一瞬だけ光った。

     ミナが座った。いつもの距離。一台分もなかった。

     洗濯機が二台、回っている。三番と五番。少しずれたリズム。

     「暖かくなりましたね」

     ミナが言った。

     「うん」

     それだけだった。

     ミナは文庫本を取り出した。前と同じ本だった。しおりの位置が、少しだけ進んでいた。

     「それ、進んだね」

     「家で読んでるんです。最近」

     「ここでは」

     「読まない」

     ミナは笑った。本を膝の上に開いたまま、窓の外を見ていた。ページはめくられなかった。街灯の光が歩道を照らしている。ミナはそれをぼんやりと眺めていた。手は本の上に置かれたまま、指先が表紙の角を撫でている。

     洗濯機が回っている。蛍光灯が白い。外を車が通る。いつもの夜だった。

     しばらく二人とも黙っていた。沈黙が重くなかった。沈黙でも会話でもなく、もっと手前の何かになっていた。

     洗濯機が止まった。二台、ほぼ同時だった。立ち上がって、五番の蓋を開けた。ミナも立ち上がって、三番の蓋を開けた。並んで洗濯物を取り出して、それぞれの乾燥機に移した。隣同士。ボタンを押す。二台が同時に回り始めた。

     ベンチに戻った。

     ミナが窓の外を見ていた。街灯の光が、冬とは違う角度で歩道を照らしていた。

     「ねえ」

     「うん」

     「今日、仕事帰りに、桜が散ってるのを見たんです。歩道にいっぱい」

     「もう終わりだね」

     「うん。それで、なんか、来たくなって」

     何も言わなかった。乾燥機が回っている。二台分の振動が、ベンチを通じて伝わっていた。

     ミナは少しだけ笑った。それから乾燥機の窓に目を戻した。衣類が回っている。二台並んで、少しだけずれたリズムで。

     
         *

     ミナが先に帰った夜だった。

     洗濯物を畳み終えて、店を出ていくミナの背中を見送った。薄いカーディガンの裾が、自動ドアの風に少しだけ揺れた。ドアが閉まった。

     乾燥機がまだ回っていた。自分のだけ。ミナの乾燥機は止まっている。さっきまで回っていた機械が、静かに熱を残している。

     隣の乾燥機の扉に触れた。まだ温かかった。

     
         *


     外に出ると、夜の空気がやわらかかった。

     自転車の鍵を外した。ポケットの中で、灰色の手袋に指が触れた。

     コインランドリーの窓越しに、店内を見た。蛍光灯が白い。洗濯機が並んでいる。三番と五番が、どちらも止まっている。ベンチには誰もいない。

     自転車を漕ぎ出した。風が顔に当たった。どこかで沈丁花の匂いがした。

     
     
    小説を書いています。普段の生活の中で感じたことを、静かな文章で表現したいなと思っています。1作目「線」、2作目「一メートルの凪」、今は3作目「アスカ」という作品を書いています。

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