メインコンテンツへスキップ

雨の音と音の楽。創作という営みの観察。


    「今日は雨でした」


    「どんな雨だったかって?そうですね。曲にしますね。」


    あったかい雨。
    冷たい雨。
    暴風雨。
    春雨。




    ーーーーーー


    作者は別に曲で「声をかけている」わけではないかもしれない。
    アートギャラリーで作者が滞在していることもあれば、していないこともある。声をかけられたら、困ってしまう作者がいるかもしれない。けど、僕は


    ああ、そう言う気持ちで、記事を書いてもいいのかな。ぼかれびゅをしてもいいのかな。とおもった。(hitoikiは反省している)。


    ーーーーーー


    僕は寝つきが悪かった。うまく眠れない。

    だらだら

    だらだら(汗)


    だらだら、というのは、擬音。何かを表している。何を?
    音楽というのは、まず音であって、

    楽しむ
    楽になる
    それから、儀式、の意味がある(と僕はおもっている)。



    人に溢れている。
    滅入る。
    しんどい。
    そんな暮らしの中で、僕は人の音楽だけが音楽じゃないな。と改めて感じた。


    音楽と言う言葉自体、英語ではどこか歌と区別されていたように感じる。音楽、と言う言葉自体、どこか「正統」の響きがある。folksong、民謡。それが僕らの、ホモ・サピエンスの作る最初の音楽だった。とってみたい。声を合わせること。みんなで歌うこと。受け取って、共に生きること。


    チューニング。
    お互いに、生きるために同期すること。
    あるいはお互いに、互いを変調しあうこと。


    声は音楽だ。


    音楽は声だ。


    僕はそう思っているから、作者に興味がある。作者の姿を想像しようとする。音は、言葉は、その一つの現れ方。


    ある曲は「助けて」といっている。
    ある曲は「楽しもうぜ」といっている。
    ある曲は「これであなたが楽になれば」といっている。


    「楽しもうぜ」といっている曲が「助けて」に聞こえることもある。


    日記のような曲もある。その時々の感情を、思考を、認識を、書き出した日記。ほとんどが、そうなのかもしれない。語りかけている。

    「わたしは、こんなことを感じたよ」

    そこに「いい」も「わるい」もない。「好き」も「嫌い」もない。

    僕は音楽がそういうものだとおもっている。



    ーーーー


    曲を雨音として聴く。今日は雨が降ったな。

    渇きが潤う

    雨音に、チューニングしてもらう。


    楽しさへのチューニング
    楽さへのチューニング(気が楽になる、安心する)
    あるいは、デチューニング。(←そんなのあるか?)


    ここには作者の透明さがある。と感じた。雨の音が透明であるように。
    雨は勝手に降っている。
    雨はただ降っている。
    雨に僕らは干渉できない。
    雨には感情がない。
    雨は人ではない。

    (透明って、ふつうのことなのかな?)


    雨は「なぜ」降っているのか。


    ーーーーー


    「助けて」というメッセージを僕は学校でたくさん感じてきた。
    もはや「助けて」とは口にしてはいっていない。
    本人は助かる見込みがないとおもっている。
    透明になる。黙って下を向いてスマホをタップしている。
    そこで僕が声をかけると、「困っている」ことを話してくれる。
    透明であることに、困っている。

    なぜかぼくは、その「困っている」に敏感だ。
    僕自身が「困っている」で塞ぎ込んで、爆発したことがあるから。
    「困っている」を自分一人でなんとかしようとして、迷惑をかけてきたから。(hitoikiは、自分の「困っている」をなんとかしなさい)。


    ーーーー


    「助けて」に気づいて

    そういう気持ちが曲の作り手さんにはあるのかもしれない。


    ーーーー


    春浅葱さんの記事を見つけた。

    誰かを見返してやる!とかいう激情もなく。ボカコレで52位をとって、色んな人からたくさんのコメントをいただいた時、なんだか自分が今まで渇望していたものが手に入ったような心地がして、うわ~~~もうこれで、終わってもいい…。となりました。その節は本当に感謝…(¨̮🙏)

    誰かに気づいてもらえた。見てもらえた。眼差しをもらえた。それだけでもホモ・サピエンスは安心する。

    (そうして再生数に躍起になっている人がいるかもしれない。いるだろう。)

    というわけで、自分の力ではもうこれより上には行けないかもな~~~と思いつつ、それでも現状維持のような創作を続けたいかと言われるとえ~~~あんまり苦しい思いはしたくないけどな~~~とクネクネしつつ、なんだかんだ創作を続けるのかな~~~と思っています。最近は作ってる時ちょっと楽しい時もあるし。まだまだシリーズのストックもあるし…(ズーン)

    どうして曲を作るんだろう?

    自分の感情を、思考を、認識を、ネットという虚空に放って、誰かが聴いたら何か起きるかな。そんな「期待」があるのかもしれない。(あの脳汁を出したいと脳が叫んでいるのかもしれない)。

    誰かの感情を、思考を、認識を、ネットという虚空に放って、その人が聴いたら何か起きるかな。そんな「期待」があるのかもしれない。

    この曲は、春浅葱さん自身だっただろうか。この動画へのコメントは、「好き」は、春浅葱さんがこの感情と生きる、この感情をマニュピレートする助けになっただろうか。視聴者にとってもそうだっただろうか。

    痛みを、苦しみを、「かっこよく」音にする?
    この曲で春浅葱さんはそんなことをしていたんだろうか。僕は知らない。
    「かっこよく」苦しむ。少なくとも苦しみの見せ方の「かっこよさ」を感じる人がいたようだ。


    だれかが、この雨で潤う。

    よろこんでくれる


    雨に浸る


    どう受け取られようが、雨は降る。雨を降らす。


    わかんない、きっとこういうところで私には創作しかない!とか言った方がいいかもですけど、別に案外生きていけんですよね。
    倒れてピーポーに乗ったり具合悪くて外に出られなくなったりメンタルがやられたりして「私って正社員になれないのでは…?」と絶望していた時もあったけど、少しずつ散歩してみたり漢方を毎日頑張って飲んだりバイトを始めてみたり出来ることからはじめて、今は「週5出社いけるかもしれないぞ」の気持ちになったり。昔は創作で自分の気持ちを吐き出したりしていたけど、最近は人に弱音をこぼせるようになって、薬に頼って、徐々に色んな成功体験を積んで創作に頼らなくても全然生きていけるようになったり。私の人生には創作しかないわけではなくて、創作に縋り付くことで目を背けたい現実から逃げていたわけです。私に足りないのは才能ですらなく、現実ときちんと向き合う勇気でした。将来のこと考えるのは誰だって怖いよね~~~!?!?(⚲□⚲)

    創作者にとって創作とはなんだろう。
    作品は、一体なんの表れなんだろう。
    僕は人間に興味がある。

    春浅葱さんは記事で、透明だった春浅葱さんを見せてくれた。
    僕はそんなふうに感じている。


    雨が降る現象は科学的に説明されている。
    そこに感情が、思考が、認識が読み取れない、という点で、透明だ。

    僕は春浅葱さんのこの記事を読んで、「音楽」という営みをする一人の人間の姿を想像できた。ありがとうございます。



    ーーー



    さて、渇きを潤したら、また歩いていこうか。
    それとも?
    渇きに耐えかねて、また歩き出そうか。



    今日は、晴れだ。(外に出ろhitoiki)



    花鳥風月。
    ただただ、人に恋する僕に、おあつらえの、春が来る。




    安心したい。

    創作は、その欲望への一つの応えなのだろう。


    楽しみたい。

    誰の目にも止まらず、それ自体で潤うあそびのような創作も、あるのかもしれない。あそびたい。


















    あなたへのおすすめ