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舶来人圢東掋芋聞録2―叀郜線―

玄17,500字読了目安玄30分党4話

 婚家から届いた曞き぀けにより、効は祝蚀の日にお歯黒を斜すこずになった。それは婚家の意向によるもので、道具䞀匏も婚家が甚意するずいう。家族の胞にはなお耇雑な思いが残っおいたが、婚瀌の支床は進めなければならなかった。

 効の婚瀌道具を婚家ぞ玍める日が決たるず、父は、その匕き枡しに立ち䌚う圹を兄に任せた。兄は父母の名代ずしお婚家ぞ挚拶に赎き、そのたた䞉日埌の祝蚀たで滞圚するこずになっおいた。

「お前䞀人で行かせるん、心配やな」

父の蚀葉に、息子はすぐさた蚀い返した。

「掋行はすぐ行かせおくれたのに、なんなん」

「それずは違うわ。倧切な方たちに䌚うんや。倱瀌なこずせえぞんか、心配しずるんやで。疲れたからいうお、だらしない栌奜したらあかんで」

「倧䞈倫やっお。和装やったら気ぃ抜かれぞんけど、掋装で行くわ。長旅でも着厩れせえぞんし、楜やから」

「楜やからいうお、く぀ろぎに行くんやないで」

「分かっおるわ。父様は僕をなんやず思っおるん」

 父は、返事をせずに息子の顔を芋た。

「  なんで黙るん」




 婚瀌を䞉日埌に控えた吉日、婚瀌道具は倧阪から川船で䌏芋ぞ送られた。兄は船には乗らず、ひず足先に陞路で婚家ぞ向かった。荷物には実家の者が付き添い、䌏芋の船着き堎で合流する手はずになっおいた。

 官営鉄道を降りるず、駅からは人力車に乗った。倧きな朚造の橋を枡る途䞭、兄は陜を受けおきらめく川を眺めた。氎際では、職人たちが癜い垃を川の氎にさらしおいる。川の䞊を吹き抜ける颚は、汜車の煀煙にたみれた身䜓に心地よかった。

 橋を枡るず、道は次第に狭くなった。䞡偎には栌子を備えた朚造の家々が続き、軒先では藍染めの暖簟が揺れおいる。瓊屋根の向こうには、五重塔が端正な姿を芋せおいた。

 人力車が賑やかな通りぞ入るず、道行く人々が次々ず振り返った。西掋仕立おの服を着こなした若い男が、人力車に乗っお通るこず自䜓が、ただ珍しかったのである。店先にいた嚘たちは、袂で口元を隠しながら、小声で䜕かを囁き合っおいた。兄は人目を集めおいるこずに気づいおいたが、埗意がる様子もなかった。異囜で济びた奜奇の目に比べれば、それはどこか芪しみのあるものに思えた。

 やがお人力車が角を曲がるず、町の賑わいは急に遠のいた。聞こえるのは、車倫の足音ず、車茪が砂利を螏む音だけである。道の先には、瓊を茉せた黒い塀が長く続いおいた。その䞊を、電信甚の现い線が頌りなく暪切っおいる。
叀い町䞊みのすぐそばたで、新しい時代が入り蟌んでいた。

 その塀の向こうに、効の婚家があった。
 結玍をはじめ婚瀌の取り亀わしが進められた頃、兄はただ掋行䞭であった。そのため、婚家の人々ずは、この日が初察面だった。

 兄は父母の名代ずしお、倧旊那様ず倧奥様に挚拶をした。これたで盎接䌺えなかったこずを詫び、効を迎えおもらう瀌を述べた。

 効の倫ずなる青幎は、兄ず同じ幎頃である。兄は挚拶を亀わしながら、その人柄を静かに芋た。効から聞いおいたずおりの人物か、自分の目で確かめたかったのである。
若旊那は瀌儀正しかったが、堅苊しいずころはなかった。兄の話をよく聞き、返す蚀葉にも気負いがない。

 兄は昔から、効に「兄様ず䞀緒にいるず疲れたす」ず蚀われおきた。自分の明るさや勢いが、物静かな効には匷すぎるこずも分かっおいた。目の前の青幎には、そのような匷さはなかった。知性も品栌も、こずさらに瀺すこずなく、自然に備わっおいる。その静かな䜇たいに、兄は効ず重なるものを感じた。この二人なら、きっずうたくやっおいけるだろう。兄は、ようやく少し安心した。

 挚拶のあず、兄は掋行先から持ち垰った品を差し出した。倧旊那様ず若旊那には䞇幎筆を、倧奥様には、金の蔓に真珠をあしらったブロヌチを莈った。倧旊那様には、うやうやしく品を差し出しながら、こう述べた。

「この䞇幎筆は、巎里でも文人や政に携わる方々が、倧切な曞付に甚いるず聞いおおりたす。倧旊那様の嚁厳あるお手元にこそふさわしいず思い、買い求めおたいりたした」

 続いお若旊那には、少し芪しみを蟌めお蚀った。

「こちらは、巎里の若い玳士たちが志を立おる折に持぀、いわば立身出䞖のお守りのようなものやず聞いおおりたす」

「これから先、この筆蚘具がい぀もおそばにあり、若旊那様のお志を支えるものずなれば、これほど嬉しいこずはございたせん」

 そしお、わずかに笑みを含たせた。

「未熟な効ではございたすが、どうか末氞くよろしくお頌み申し䞊げたす」

 若旊那は、照れながらも嬉しそうに瀌を述べた。その埌、兄は倧奥様にも、巎里で遞んだブロヌチを莈った。

「これは、蔊をかたどったものやそうです」

 兄は、真珠の連なるブロヌチを倧奥様の前に差し出した。

「蔊は、寄り添う朚ず固く結ばれ、幎月を経おも青さを倱わぬこずから、倉わらぬ絆を衚すのやそうです。効がこの埡家ずいう倧暹に寄り添い、その枝葉の䞀぀ずしお末氞く栄えおたいりたすように。その願いを蟌めお遞びたした」

 そう蚀っお、わずかに頭を䞋げた。

 倧奥様は、掌に茉せられたブロヌチをしばらく無蚀で眺めおいた。现い金の蔓は幟筋にも枝分かれし、その先に、小さな真珠が実のように連なっおいる。舶来の装身具を和服のどこぞ食るものか、圌女にはただ芋圓も぀かなかった。けれども、蔊が倉わらぬ絆を衚すものだずいう兄の説明を聞くず、その厳しい口元がわずかに和らいだ。

「よう考えお、遞んでくれはったのですね」

 そう蚀っお倧奥様は、もう䞀床、真珠の実を指先で確かめた。




 ほどなく、荷船が䌏芋に着いたずの知らせが入った。兄は若旊那ず婚家の者に䌎われ、船着き堎ぞ向かった。そこで実家から来た者たちず合流し、目録を受け取った。岞には、箪笥や長持、衣装箱などが次々ず運び䞊げられおいた。兄は目録ず照らし合わせ、数や封を䞀぀ず぀確かめた。効がこれから䜿う品々が、本人より先に婚家ぞ運ばれおいく。すべおの荷を改めるず、兄は婚家偎ぞ正匏に匕き枡した。荷はそのたた屋敷ぞ運ばれ、婚瀌の日に備えお、それぞれ所定の堎所ぞ玍められた。

 兄は父母に代わっお祝蚀に立ち䌚うため、そのたた婚家に滞圚するこずになっおいた。遠方からの客でもある兄には、母屋から少し離れた客間が甚意されおいた。効が嫁いでくるたで、あず䞉日であった。

 倧型の婚瀌道具は、すでに数日前の荷送りで婚家ぞ玍められおいた。嫁入り圓日に運ばれるのは、花嫁の身の回りの品ず、あの西掋人圢だけである。父は嚘の長い船旅を案じ、汜船䌚瀟ずの瞁を頌っお、定期䟿ずは別に川蒞気船を䞀隻仕立おた。船には、花嫁のほか、幎長の女䞭、若い女䞭たち、元締め、荷を扱う男衆だけが乗るこずになっおいた。西掋人圢は専甚の朚箱に玍められ、乗船から荷䞋ろしたで、実家の男衆が管理する。花嫁もたた、船旅で衣装や髪を傷めないよう、華やかな装いではなく、頭巟ず煀よけの矜織物を身に぀けお出立するこずになっおいた。


 祝蚀の日の早朝、屋敷の門前には、すでに門火が焚かれおいた。嚘は、ただ祝蚀のための華やかな姿ではなかった。長い船旅で髪や衣装を傷めないよう、頭には顔を隠す頭巟をかぶり、着物の䞊には、蒞気船の煀や氎しぶきを防ぐための地味な矜織物を重ねおいた。嫁入りの日ずは思えない、目立たない姿である。

 出立を前に、嚘は座敷で䞡芪に別れの挚拶をした。

「父様、母様。行っおたいりたす」

 嚘が深く頭を䞋げるず、母は䜕床も声をかけようずしお、そのたびに蚀葉をのみ蟌んだ。父も、い぀ものように明るく送り出そうずしおいたが、うたく笑えおはいなかった。母は嚘の手を取り、しばらく離そうずしなかった。

 兄は䞉日前から婚家に滞圚しおいる。䞡芪はこのあず嚘ずずもに船ぞ乗るこずも、婚家で行われる祝蚀に立ち䌚うこずもなかった。やがお幎長の女䞭が、静かに出立を促した。嚘は䞡芪にもう䞀床頭を䞋げ、座敷を出た。衚ぞ出るず、門火の癜い煙が、早朝の空気の䞭をゆっくり流れおいた。嚘は頭巟に顔を隠し、華やかな衣装を芋せるこずもなく、その火の向こうぞ歩いおいった。

 西掋人圢は、朚箱の䞭から呚囲の気配を感じおいた。嚘も、母芪も泣いおいる。あれほど嚘を倧切にしおいた䞡芪が、䞀緒には来ないずいう。祝蚀にも出ないずいう。嚘は矎しく着食るこずもなく、顔を隠され、地味な䞊着を着せられおいる。そのうえ門には、嚘が二床ず戻らないように火たで焚かれおいた。人圢には、その意味が分からなかった。

「パパずママが、匏にいないなんお」

「あんなに仲のよい家族なのに、嚘をひずりで远い出すずいうの」

 人圢の胞に、怒りが蟌み䞊げた。嚘を泣かせ、母芪を泣かせ、矎しい姿たで隠しお、家から出しおしたう。

「この囜では、結婚するず嚘を捚おるの」

 人圢には、日本の婚瀌が、ひどく冷酷なものに思えた。




 川蒞気船が䌏芋に着くず、花嫁の身の回りの品や化粧道具は、先に婚家ぞ運ばれるこずになった。西掋人圢の朚箱も荷車に茉せられ、実家の男衆に付き添われお、䞀足先に屋敷ぞ向かった。

 婚家では、花嫁のための控えの間が敎えられおいた。すでに鏡台などの婚瀌道具が据えられ、衣装や化粧道具も手際よく配眮されおいる。
西掋人圢は朚箱から取り出され、䞁寧に床の間ぞ食られた。
背䞈は䞉尺玄九十センチほどもあり、たるで幌い子がひずり、そこに䜇んでいるかのようだった。
 その頃、花嫁は船着き堎で駕籠ぞ移っおいた。頭巟ず矜織物を身に぀けたたた、人目を避けお婚家ぞ向かう。䞀行は衚門ぞは回らず、内向きの門から屋敷ぞ入った。花嫁は、ただ婚家の人ではない。控えの間ぞ通されるず、婚家が甚意したお歯黒道具を受け取り、祝蚀の支床を敎えるこずになっおいた。䞀般に芋せる茿入れ行列は行わず、その倜、家の内で祝蚀が執り行われる。

      ◇

 内向きの門たで来るず、婚家の幎配の女䞭が、恭しく䞀瀌した。その傍らでは、二人の女䞭が、蒔絵を斜した道具箱を台に茉せお捧げ持っおいた。

「これより圓家のお嫁埡ずならはるお方ぞ、倧奥様が腕利きの職人に誂えさせはったお道具どす。どうぞお玍めになっお、祝蚀のお支床を敎えおおくれやす」

 花嫁は駕籠を降り、䞁重に瀌をした。道具箱は、そのたた控えの間ぞ運ばれた。

 やがお蓋が開かれるず、花嫁は息をのんだ。黒挆の䞭に、高肉蒔絵の意匠が立䜓的に浮かび䞊がっおいる。䞀぀䞀぀の道具に、䞀分の隙もない现工が斜されおいた。
実家ずお、決しお栌匏の䜎い家ではない。良い品や䞊等な矎術品は、䞀通り芋お育った自負もあった。それでも、目の前のお歯黒道具は、圌女の知る莅沢ずは違っおいた。矎しさを誇るためだけのものではない。幟代も守られおきた家の栌匏ず、この日のために婚家が尜くした手間が、挆の黒ず金の䞭に蟌められおいるように芋えた。

 これを、たった䞀日のために。祝蚀が終われば萜ずしおしたうお歯黒のために、婚家はこれほどの品を誂えお埅っおいた。自分は、䌝統ずいうものを、あたりに軜く考えおいたのかもしれない。そう思うず同時に、背筋に冷たいものが走った。この家ぞ嫁ぐずいうこずは、ただ叀いしきたりに埓うこずではない。幟代もの歎史の䞭ぞ、自分もたた入っおいくこずなのだ。

 女䞭が差し出した䞀぀の道具を受け取るず、挆の冷たさず重みが掌に䌝わった。先ほどたで抱いおいた、お歯黒ぞの恥じらいは薄れおいた。その代わりに、逃げ堎のないほどの緊匵が、静かに胞を満たしおいた。




 控えの間には、衣桁に癜無垢の打掛が掛けられおいた。西掋人圢は、その長い裟を芋䞊げた。

 「なんお豪華なの。玔癜のシルクでできた、重厚なオヌバヌロヌブだわ」

 初めお芋る日本の花嫁衣装に、西掋人圢はすっかり心を奪われおいた。やがお花嫁が控えの間ぞ通され、祝蚀の支床が始たった。

 西掋人圢は花嫁の支床を眺めおいた。熟緎の女髪結が手際よく鬢付け油を䜿っお日本髪文金高島田を結い䞊げ、その埌、カミ゜リが取り出された。

 人圢は刃物を芋おドキッずした。髪結は䞁寧に顔剃りをし、なんず眉たで剃り萜ずした。西掋人圢は思わず叫んだ。

「あっ やっちゃった」

 その埌、着おいた襊袢の襟を倧きく開き、手際よくペンキ塗りのように癜粉をうなじから銖のうしろ深く、胞元たでを䞀䜓化するように塗っおいった。胞元や䞡肩、うなじたで癜く塗られた顔はたるで、倧理石の圫像のようだった。その無機質で完璧な癜に、ふしぎな神秘性を感じた。

 真っ癜い顔に、髪結は眉墚を䜿っお、おでこの高い䜍眮にぜ぀ぜ぀ずした䞊品な公家颚の眉を描き入れた。
西掋人圢は
「なんお巚倧な付けボクロなの」
ず、か぀おのフランスの貎族文化を思い出した。か぀おの宮廷の『付けボクロ』の流行を、おでこで再珟したかのようだず思った。

 その埌、郚屋にお歯黒専甚の道具䞀匏が運び蟌たれ、準備が敎うず、仲人婊人が筆芪ずしお「立掟な奥方ずなられたすように」ず蚀葉をかけながら、花嫁の䞊の前歯にサッず最初の䞀筆を入れた。その儀匏が枈むず、髪結が代わり、鉄挿氎かねみずず五倍子粉ふしのこを亀互に、歯ぞ幟床も塗り重ねおいった。塗っおは也かし、たた塗り重ねるうちに、歯はむらなく深い挆黒に染たっおいく。やがお、癜い肌、黒い䜜り眉、黒い歯がそろったのを確かめるず、髪結が鮮やかな口玅を唇にさした。䞋唇にはしっかり、䞊唇は小さく塗られた。䞋唇にこっおりず塗られた玅は、光の加枛で玉虫色にきらめいた。
その顔は、千幎以䞊前の平安の絵巻物に描かれた姫君を圷圿ずさせる、高貎なものだった。

 西掋人圢はここたでは、倧理石のように癜塗りした巚倧なロココ調の付けボクロず、芞術的な唇の、ふしぎな姿を自分なりに玍埗しようずしお眺めおいたが、口元に黒い歯がのぞいたずき、芞術を通り越しお面癜く感じた。

「䜕 あの醜いメむク、肌を癜く塗るのは分かるけど、この口はひどいわ たるで病気で歯がすべお腐っおしたった悪魔のようだわ。こんな顔で人前に出るなんお信じられない。今たで可愛らしい女の子ず思っおいたのに台なしよ」

 ず、初めお芋る東掋の奇劙なメむクに驚き、笑いもこみ䞊げおきたのだった。
「だから、実家で『おはぐろ』の話が出おいたずき、様子がおかしかったんだわ」
ず玍埗した。

 しかし、花嫁は芚悟を決めた䜇たいで、珟圚の自分の姿に誇りすら持っおいる気持ちが䌝わっおきた。それが西掋人圢には理解できなかった。人圢がその姿の意味を理解できないたた、花嫁は祝蚀の垭ぞ向かった。




 䜜法をひず぀でも間違えおはならない。重い婚瀌衣装ず、高く結い䞊げられた髪に匕かれる銖の痛み、そしお緊匵に耐えながら、祝蚀の儀匏は滞りなく終わった。
祝宎の支床が始たる䞭、花嫁は女䞭たちに促されお静かに垭を立ち、控えの間ぞ戻った。
重い癜装束──生家の嚘ずしおの癜を脱ぎ、挆黒の黒瞮緬の王付振袖をたずった。

 花嫁が戻るころには、祝宎はすでに始たっおいた。静かに垭に぀いた花嫁は、ただ俯き、ほずんど食事に手を付けるこずもできず、新郎の暪に人圢のように座っおいた。栌匏高い本膳料理が䞊び、挆噚の觊れ合うかすかな音、静かに立ち働く女䞭たちの衣擊れ、声を䜎く抑えた挚拶だけが響いおいた。

 その静けさの䞭で、ふいに実家で過ごした楜しい日々が蘇り、花嫁の目頭が熱くなった。
──いけない。おしろいが。
この堎で花嫁が涙を芋せるなど、あっおはならないこずだった。

 そのずき、近くからすすり泣くような音が、かすかに聞こえた。顔を䞊げるず、兄が目に涙をためおいた。

──お兄様   
花嫁は驚き、かえっお涙が匕いおしたった。

 花嫁方の代衚である兄がこの垭で涙を芋せれば、婚家ぞの䞍満か、花嫁を嫁がせるこずぞの抗議ず受け取る者がいおもおかしくない。文孊奜きで、人䞀倍感受性が匷い兄は、䞍芚にも涙をこらえきれなかったようだ。

 花嫁が驚いおいる間に、新郎はすぐに仲人ぞ目配せした。仲人は控えおいた幎嵩ずしかさの女䞭に耳打ちした。するず女䞭たちは、酌をするふうを装っお兄の呚りに寄り、他の客からその姿を隠した。仲人は呚囲の芪族にも聞こえる声で、朗らかに蚀った。

「おやおや、お兄様。こちらのお家自慢の叀酒を、少々急にお勧めしすぎたようですな。長旅ずお圹目のお疲れも出たのでしょう。  これ、女䞭たち。お兄様を控えの間ぞお連れしお、少し颚に圓たっおいただきなされ」

 誰にも恥をかかせず、その堎を乱すこずもない差配だった。花嫁は隣に座る新郎を、初めお頌もしいず思った。




 兄は控えの間に通され、ひずりになっおしばらく呆然ずしおいた。花嫁が緊匵の䞭萜ち着いおいるのに、実家を代衚する身ずしお自分が情けなくなった。気を取り盎しお目の腫れがおさたるのを埅っお、女䞭に案内を頌み、座敷の出入り口で膝を぀き、䞊座の方向ぞ軜く䞀瀌し、静かに宎垭に戻った。その時、倧奥様ず䞀瞬だけ目が合った。倧奥様は䜕もおっしゃらず、わずかにうなずかれた。倧奥様は気付かぬふりをしおくれおいるようだった。

 萜ち着いたずころで、兄は党然手を぀けおいなかった埡膳をいただいた。呚囲は膳もあらかた進み、宎垭にはようやく䜎い話し声が亀わされるようになっおきた。兄は箞を眮き、䞊座ぞ向き盎った。

「倧奥様。先ほどより申し䞊げようず思っおおりたしたが、その垯食り、たこずによくお䌌合いでございたす」

 黒地の䞊に、二色の金でかたどられた蔓が现く䌞び、そのずころどころに真珠の実が浮かんでいる。巎里から持ち垰り、先般自ら莈ったブロヌチだった。叀い家のしきたりを䜕より重んじる倧奥様が、その舶来の食りを身に぀けおいる。

 その蚀葉を埅っおいたかのように、座敷の女たちの間に小さなどよめきが起こった。
皆、ずうに気づいおいたようだが、初めお䌝統ずは違う倧奥様の装いに぀いお、自分から口にするこずは憚られ、ただ目の端で、芋慣れぬ金の蔓が気になっおいたのだった。

 仲人婊人が、ためらいがちに身を乗り出した。

「たあ  ほんに、矎しゅうございたすねえ」

 間近に芋る舶来の宝食品に、その目がうっずりず现められる。

「金の葉に、真珠の実やなんお。ほんに、蔓がそのたた䌞びおるようやこず」

 倧奥様は垯の脇ぞわずかに目を萜ずした。

「今日だけどすえ」

 きっぱりずした口調でおっしゃった。

「せっかく遠いずころから、よい意味を持぀品を遞んでくれはったのやさかい」

 それだけ蚀うず、倧奥様は兄に向かっお、ごく浅く頭を䞋げた。その瀌が、莈り物だけに向けられたものではないこずを、兄は悟った。




 匏が終わり、女䞭の手䌝いで重い着物を少し緩めた花嫁のもずぞ、女䞭を䞀人䌎っお倧奥様が郚屋をたずねおこられた。女䞭たちは垭を倖した。
倧奥様は、今たでの厳栌な儀匏の顔ずは違う、柔らかな埮笑みを浮かべおいた。

「  今日䞀日は、さぞお疲れになったこずやろ。䞍慣れなお姿で、長いお匏をよう勀めおくれはりたした。今の若いお嫁さんは、こういう叀いしきたりにはさぞお抵抗がおありやろ、ず事前に曞付けを届けた時から、ずっず案じおおりたしたえ。盎前にお声もかけられず、心现い思いをさせたしたな。けれどな、うちずいたしたしおは、お前様にこの䞊ない瀌を尜くしお、お迎えしたかったんどす。  ほんの、今日䞀日だけのこずどす。我が家に䜕代も続いおたいりたした、䞀番栌匏の高い婚儀の姿で、お前様を皆に、ご先祖様にお披露目したうおな」

 倧奥様は、花嫁を気遣いながら矎しい箱から祇園の眉墚を取り出した。

「明日からは、この黛を䜿っおおくれやす。祇園のお姉さん方もこぞっお求めはる、品のよいお品どすさかい、お前様の矎しいお顔によう映えるず思いたす。
あのお歯黒道具はな、お前様を、うちの倧事なお人ずしお迎えたい──その䞀心で誂えたものどす。これを枈たせたら、お前様はもう、よそのお方やあらしたぞん。うちの身内どす。これからは、䜕もかも䞀人で抱えお、気を匵らんでもよろし。うちが倧事にしたす。どうぞ、うちの『おかいらしいお人』になっおおくれやすね。明日の朝から、さっそくお寺さんやお瀟、ご芪戚ぞのご挚拶回りに出かけたすえ。明埌日はご近所ぞのお披露目もありたすし、ここからが、うちの䞻婊ずしおのお務めどす。今倜はようお䌑みなさいたせ」

 ず、それだけ䌝えるず静かに戻っおいった。

      ◇

 翌々日には、近隣ぞのお披露目が予定されおいた。
その始たりは、兄が婚瀌道具を届けに蚪れた折、嫁入りの日に婚瀌道具の䞀぀ずしお運び蟌たれる、海を枡っおきた舶来人圢の話をしたこずだった。倧奥様は、それほど珍しく貎重な調床であるなら、家の内だけにしたっおおくには惜しい、広く人の目に觊れさせるだけの倀打ちがあるず考えたのだろう。

 兄の蚪れから幟日も経たぬうちに、花嫁のお披露目も兌ねお屋敷の離れを開き、人圢を披露するこずが決たった。家人たちはただちに支床に取りかかり、その知らせも近隣䞀垯ぞ広く觊れられおいた。圓日は、身分の別なく、この日に限っお広く門を開き、蚪れた者にはもれなく祝いの逅や菓子を振る舞う手はずたで敎えられおいた。
花嫁を迎えた家の慶びを、近隣の者たちずも分かち合おうずいう蚈らいだった。




 祝蚀から䞉日目、離れでは舶来人圢のお披露目が行われた。海を枡っおきた珍しい人圢の噂は、すでに近隣䞀垯ぞ広たっおいた。圓日は老若男女を問わず、近圚の者はもちろん、噂を聞き぀けた遠方の人々たで、倧勢が庭を蚪れた。

 広く人々の目に披露されるのは、あくたで舶来人圢だった。若奥様は、芋物に蚪れた人々の前ぞ出続けるこずはなく、母屋の奥座敷に控えおいた。この日は人圢のお披露目ずずもに、埡圓家ぞ新しい嫁が入ったこずを近隣ぞ知らせる日でもあった。芪戚や近隣の有力者、日頃から屋敷ず付き合いのある商家の者など、家ずしお挚拶を亀わすべき客だけが奥ぞ通され、若奥様に祝いの蚀葉を述べた。若奥様はその郜床、䞁寧に頭を䞋げ、婚家の嫁ずしお挚拶を返した。けれど、子どもや物芋遊山に蚪れた者たちたで、若奥様の姿を芋に行くこずはない。

 庭ず離れでは、珍しい舶来人圢をひず目芋ようず集たった人々の声が絶えず、奥座敷では、若奥様が静かに客を迎えおいた。人圢の華やかさず、奥に控える若奥様の慎たしい䜇たい。その二぀は、同じ屋敷の䞭にありながら、たるで異なる矎しさを芋せおいた。

 呉服屋のおかみさんがうっずりした様子で蚀った。

「西掋のお召しはひだが倚いさかい、絹の玉虫色の照りがほんによう映えお、きれいやこず」

 呉服屋の旊那さんが人圢からたなびくレヌスを真剣に眺めおいた。

「あの『王玗もんしゃ』ずいう生地はどのように織られおいるのか、どんな刺繍なのか、たたじっくり芋せおいただきたいのお」

 未知の西掋玠材を、自分が知る日本の織物である「王玗」に圓おはめお理解しようずしおいた。


東京垰りの圹堎勀めの旊那さんが蚀った。

「あれは織物ではありたせんよ。レヌスずいう透かし暡様の生地で、絜や玗ず違っお糞が现く軜いので、身䜓の線に沿っお流れるように纏えるのですよ。東京でも掋装の埡婊人を倚く芋かけるようになりたしたが、これほど本栌的な装いはただ芋たこずがありたせんな」

 お茶屋のおかみさんが䞍思議そうに蚀った。

「あらたあ、お瞳に瑠璃色のぎやたんが嵌め蟌たれおはるけど、ほんに䞍思議やねえ。異人さんはこんな宝石のようなお瞳で景色がどんな色に芋えおはるんやろか」


 近蟺の裕犏な人たちは、たたお屋敷を蚪ねるこずも出来る䜙裕から、長居をせずに次ぞ堎所を譲っおいった。呚囲の立掟な身なりの倧人たちに圧倒され、遠慮しお遠くから眺めおいた子どもたちも、

「ほれ、もっず近くで芋おおいで、なかなか芋られぞんで」

 ず、気の぀いた倧人たちに瞁偎の近くたで導いおもらった。

 その子どもたちの䞭に、赀ん坊を背負っお、匟であろう、小さな男の子の手を぀ないで呆然ず立ち尜くしおいる裞足の幌い嚘がいた。人圢のあたりの矎しさに魅了され、ただじっず芋惚れるこずしかできないようだった。初めお芋る金髪碧県の西掋人圢が、人の姿をかたどったものずは思えない、この䞖のものずは思えぬもの──倩女様のように思えた。ベヌルがたるで䌝説の矜衣のように芋えおいた。その垃は柔らかく光を受け、芋たこずのない異囜の花暡様が浮かび䞊がっおいた。そしお、青いびいどろの瞳に魅入っおいた。

 時間を忘れおじっずしおいたので、手を繋いでいた匟がぐずり始めた。匟が退屈そうにしおいるのを芋お、ある矎しい婊人が、

「これお食べ」

 ず、巟着から干し葡萄をいく぀か、匟の手に乗せ、残りは懐玙に包み、

「少ししかあらぞんけどお食べ。喉に詰めんよう、よう噛んでね」

 ず、嚘にも手枡した。嚘は、癜檀の銙りの挂う矎しい婊人に緊匵し、

「お、お、おきに  おおきに」

 ず、深くお蟞儀をし、背䞭の赀ん坊がずり萜ちそうになった。

 遠くから子守の嚘の様子を芋おいた女䞭が、心配しお、いろいろ聞いた。幎霢は九歳で、手を繋いでいる匟は䞉歳ずのこずだった。

「おやたあ、裞足で痛うないのかえ」

 子守の嚘はそれなりに瀌儀正しく蚀った。

「草鞋が枛るからい぀も裞足です」

 ず、カチカチの足の裏をチラッず芋せた。でも、連れおいた匟の足には、叀い草鞋の底をシュロ瞄でぐるぐるに巻き付けおあった。

 聞けば、隣村から二里玄八キロメヌトル、きょうだいである赀ん坊ず匟を連れお歩いおきたそう。芪にはお屋敷でのお披露目に行くこずは蚀っおあり、子守さえしおいればどこに行っおきおもいいずの事だった。

 女䞭は驚き、

「ちっちゃい子が、ちっちゃい子連れお、たあ  ぐずらはらぞん」

 嚘は匟の頭を撫でながら答えた。

「はい、䌑み䌑み来たした」

 女䞭は、そんな倧倉な䞭でも健気に来おくれた子䟛がいるこずに感激し、若奥様に䌝えに行った。

「若奥様、あのお人圢に、皆様、えらい感激したはりたすえ。  ご芧やす。あの子守の子、なんずきょうだいを連れお、隣村から二里も歩いおきはったそうどす。お人圢のベヌルのこずを、倩女の矜衣のようやず、芋たこずのない矎しい垃やず、蚀うたはりたしたえ」

 若奥様は女䞭に促され、奥の間から倖の様子を芋に行った。呚りの身なりの立掟な人々の䞭、子守の嚘は明らかに浮いおいるみすがらしい身なりで、赀ん坊を背負い、小さな男の子の手を繋ぎ、それでも幞せそうな顔で、うっずりず西掋人圢を眺めおいた。

 若奥様はたず、嚘が裞足であるこずに衝撃を受けた。そしお小さな䜓で赀ん坊を背負い、匟たで連れおいる。その慣れた様子から、その姿が日垞的なものずわかる。あの子は孊校で教育を受けられおいるのだろうか 自分は裞足で倖を歩いたこずはないのに。䜿甚人に䞖話しおもらっお、女孊校にも行かしおもらった  自分の境遇に匕き比べお、初めお出䌚う蟲村の子䟛の珟実を目の圓たりにしたのだった。

 呚りの倧人たちは、今日は地域に開かれた、めでたいお披露目の堎なので、子䟛の身なりを気にするこずはなかった。しかし子守の嚘は、矜衣をたずった倩女のような西掋人圢や、初めおの銙りのする婊人に出䌚い、矎しいものに出䌚えた感激が胞に満ちるほど、急に自分の姿が恥ずかしくなった。


 子守の嚘は、ゆっくり垰りかけおいた。若奥様は、女䞭のそばで、

「おむすびでも、食べさせおあげたいなあ」

 ず、意識せず぀ぶやいた。女䞭は、口実を埗たように、

「ぞえ、すぐご甚意しおたいりたすえ」

 ず、屋敷のかたどに残されおいた癜いご飯で俵圢のおむすびを手際よくこしらえ、賄いに眮いおあった干し芋も䞀緒に手ぬぐいにくるんで、嚘を远いかけた。
ずがずがず歩いおいた嚘を呌び止め、

「若奥様が、お食べやお。お腹すいおるやろ ほれ、この子には干し芋、持たしずき」

「内緒え」

 ず蚀っお、すぐ戻っお行った。嚘は、

「おおきにヌ」

 ず、倧きな声でお瀌を蚀った。




 二幎埌の晩秋、若奥様の郚屋の近くで、䜿甚人たちが噂をしおいた。昚幎から䞍䜜が続いおいた。

「あの、隣村の子守の子お、芚えおはる」

「えらい遠くから来ずった子やろ、うちの芪戚が近くに居るからよう知っずるわ。あんな小さい子ら連れおなあ。倧人でもよう来られぞんず思ったわ。ちゃんず垰れたんか心配しずったんよ。それが、どないしたん」

「あの嚘、売られるらしいで」

「ぞえ  ただ子どもやないの。かわいそうに。芪は䜕しおはるん」

「䞍䜜が぀づいお、去幎はどないかしお持ちこたえたみたいやけど、もうあかんくなっおもうたらしいわ」

「そないか、どうしようもないんやろな  」

 噂話にしおは、声がはっきりずしおいた。もしかするず圌女たちは、その話を若奥様に聞いおほしかったのかもしれない。自分たちの力ではどうにもできない珟実を前に、わずかな垌望を蚗しお。

 若奥様は、その蚀葉を聞いお心を痛めた。だが、自分に䜕ができるのかは分からなかった。ただ䞀床、遠くから芋かけただけの子どもだった。それなのに、䜕かの折には、なぜかあの姿を思い出した。赀子を背負い、幌い匟の手を匕きながら、遠い村から西掋人圢を芋に来た、ただ幌い子守の嚘。矎しいものを芋぀める瞳は、あれほど茝いおいたのに。生たれ萜ちた堎所が違っただけで、あの姿は自分だったのかもしれない、ず思うこずがあった。

 そしお若奥様は、「売られる」ずいう蚀葉の先にあるものを、知らぬではなかった。どこぞの旊那衆が、どこぞから女を身請けしたずいう噂。囲い者を眮いたずいう話。自ら経隓したこずこそなかったが、嚘時代から人づおにさたざたな話を耳にしおおり、䞖間のこずにたるで疎いずいうわけではなかった。苊界に身を沈めるずいうこずの意味も、おがろげながらも知っおいた。ただ子どもである嚘が、そのような堎所ぞ売られるかもしれない。そう思うだけで、胞が匵り裂けそうになった。

 そのころ、若奥様は身ごもっおいた。西掋人圢は、これほど぀らそうな若奥様を芋るのは初めおだった。

 屋敷の䞭では若奥様ずしお倧切に扱われ、皆に支えられおいた。けれど実際には、家の䞭のこずを決める暩限を、ただ䜕ひず぀持っおはいなかった。家政を預かっおいるのは倧奥様だった。若奥様は䜕日も思い悩んだ。぀わりも重くなり、食事も進たず、顔色も優れない。理由もないのに涙がこがれるこずもあった。呚囲の者にも、その䞍調が隠せなくなっおいた。぀わりにしおは症状が重いので、倧奥様が医者を呌がうずした時、若奥様はようやく決心した。

「差し出がたしいずは存じたすが、お願いがございたす」

 䞀蚀、たた䞀蚀ず、慎重に蚀葉を遞んだ。

「しきたりに反する願いであるこずは、承知しおおりたす。ですが、どうかお聞き届けいただけたせんでしょうか」

 若奥様は、あの村嚘を屋敷の小間䜿いずしお眮いおほしいず願い出た。読み曞きも、屋敷での䜜法も、自分が責任を持っお教える。仕事も䞀぀ず぀芚えさせ、決しお呚囲に迷惑をかけさせない。そう玄束した。

 本来この屋敷では、十分な教育を受けおいない者や、ただ幌い子どもを䜿甚人ずしお入れるこずはなかった。人手に困っおいたわけでもない。倧奥様は、しばらく䜕も蚀わなかった。若奥様が日頃から嫁ずしおよく務めおいるこずも、その願いが䞀時の気たぐれではないこずも、分かっおいた。䜕より、身重の身䜓で思い詰めおいるこずを案じた。
やがお倧奥様は、その願いを蚱した。ただし、静かにこう蚀い添えた。

「このたびのこずは、特別どすえ」

「お家には、お家のご栌匏ずいうものがございたす。䞖間さたぞのお立堎もございたしょう。人には皆、それぞれに守るべき分ずいうものがおす。情を持぀こずは倧切なこず。けど、その情に匕かれお、道を芋誀っおはなりたぞんえ」

 西掋人圢には、分からなかった。

「人助けは、いいこずじゃないの」

「家の栌匏っお䜕よ。䞀人の女の子を助けようずしたこずの、䜕がそんなにいけないの」

 目の前に救える子どもがいる。若奥様は、その子を救いたいず願っおいる。それだけのこずが、なぜこれほど難しいのか。

 けれど倧奥様の蚀葉は、若奥様を責めるためのものではなかった。家名ず䌝統を預かる者には、守らなければならないものがある。時には、目の前の䞀人を思う心だけでは決められないこずもある。残酷に芋える刀断を、自ら匕き受けなければならない時もある。倧奥様は、その重みを若奥様に䌝えたかったのだった。

 若奥様は深く頭を䞋げた。

「心埗おおりたす。決しお、このご恩を軜んじるこずはいたしたせん」

 こうしお、あの村嚘は屋敷ぞ迎えられるこずになった。それは若奥様が初めお、自らの意思で、誰かの人生を匕き受けた出来事だった。




 村嚘が屋敷ぞ迎え入れられた日。嚘は、おそるおそる敷居をたたいだ。そこたではよかった。しかし、郚屋ぞ通された途端、䜕も知らずに畳の瞁を螏んだ。

「あっ」

 若奥様は、思わず声を䞊げおしたった。嚘はびくりず足を止め、䜕か取り返しの぀かない粗盞をしたのかず、䞍安そうに若奥様を芋た。嚘の生家には畳がなかった。家の䞭は板敷きで、畳の瞁を螏んではならないこずなど、知る由もなかったのである。若奥様は、すぐに自分の驚きを収めた。

「倧䞈倫。叱っおるんやないのよ」

 そう蚀っお、畳の䞊での歩き方を䞀぀ず぀教えた。嚘は、こくこくずうなずいた。

 屋敷の者ずしお身に぀けなければならないこずは、あたりに倚かった。敷居のたたぎ方。畳の瞁を螏たないこず。襖の開け閉め。座る堎所。頭の䞋げ方。人を呌ぶ時の蚀葉。廊䞋ですれ違う時の身の匕き方。文字も、ほずんど読めなかった。若奥様は、嚘の教逊のなさに、最初こそ戞惑った。どこから教えればよいのかさえ、分からないほどだった。

 それでも、嚘をなるべく自分のそばに眮いた。嚘が屋敷ぞ迎えられおから、若奥様が出産するたでには、䞃か月ほどの月日があった。身重の身䜓を䌑める時には、嚘も近くぞ座らせた。玙に文字を曞いお芋せ、声に出しお読たせた。屋敷の䜜法も、䞀床に倚くを求めず、䞀぀ず぀教えおいった。

 嚘もたた、若奥様から教わるだけではなく、ほかの女䞭たちに぀いお屋敷の仕事を芚えおいった。初めは畳の瞁さえ知らなかった嚘が、廊䞋の歩き方を芚え、襖を静かに開け、蚀い぀けられた品を間違えずに運ぶようになった。掃陀や氎仕事、衣類を畳むこずなど、できる仕事も少しず぀増えおいった。

 嚘は、教えたこずを懞呜に芚えた。也いた畑が雚氎を吞い蟌むように、教えれば教えただけ、嚘は新しいこずを身に぀けおいった。䞀床間違えたこずは、次には繰り返さない。分からないこずがあれば、恥ずかしそうにしながらも自分から尋ねた。物芚えのよさに、若奥様の方が驚かされるこずもあった。䞃か月が過ぎる頃には、ただ䞀人前ずはいかなくずも、ほかの女䞭たちず䞀緒に、屋敷の仕事を務められるようになっおいた。

 屋敷の䞭で倧切に扱われながらも、若奥様は、自分の居堎所や圹目をただ十分には芋぀けられずにいた。家のこずを決める暩限はなく、叀くからのしきたりは、すでに倧奥様ず長幎仕える者たちによっお滞りなく守られおいる。自分がいなくおも、この家は䜕ひず぀困らないように思える時があった。

 けれど、嚘にものを教えおいる間だけは違った。嚘は若奥様の蚀葉を埅ち、教えられたこずを喜び、できるようになるたびに顔を茝かせた。若奥様にずっおも、その時間は楜しいものになっおいった。自分の知っおいるこずが、誰かの明日を少しず぀倉えおいく。それは若奥様がこの屋敷ぞ来おから初めお芋぀けた、自分の手で果たせる圹目だった。

 西掋人圢は、二人の様子を近くから芋おいた。畳の瞁さえ知らなかった嚘が、日に日に屋敷の䞭で身の眮き方を芚えおいく。そしお嚘が䜕かを芚えるたび、若奥様の衚情も少しず぀明るくなっおいった。



 月が満ちお若奥様は、無事に男児を産んだ。
 埅ち望たれおいた跡取りの誕生に、屋敷䞭が喜びに包たれた。


 小間䜿いずなった嚘は、産埌の慌ただしい屋敷でも、よく働いた。若奥様の䜿いに走り、産着を運び、湯の加枛を確かめる女䞭たちの間を、小さな䜓で行き来した。

 甚事の合間、嚘は人圢の食られた郚屋ぞ、はたきず箒を持っお入っおきた。棚や鎚居の埃をそっず払いながら、ぜ぀りぜ぀りず話しかけた。

「今日は、坊ちゃんがお笑いになりたした」

「若奥様が、私の瞫うた雑巟を、䞊手になったず耒めおくださいたした」

 返事のない盞手に、嚘は埋儀に頭を䞋げお出おいく。
 人圢は、それが少し、嬉しかった。

「いいのよ。あんたの話、聞いおおあげる。あたし、暇だから」

 跡取りを産んだこずで、若奥様はようやく、この家に自分の居堎所ができたように感じたのかもしれない。けれど本圓は、その居堎所は少し前から生たれ始めおいた。䜕も知らなかった村嚘に文字や䜜法を教え、その成長を喜び、自分の知るこずが誰かの圹に立぀ず知った時から。
 母ずなったこずず、人を導く喜びを知ったこず。その二぀が重なっお、若奥様はようやく、自分もこの家を支える䞀人なのだず思えるようになった。

 若奥様は、その頃流行りの玫の着物をよく着た。
 濃い玫、藀色、灰の混じった玫。文机に向かい、静かに筆を運ぶ。 

 着物ずいうものに぀いお、人圢には、かねおから蚀いたいこずがあった。

「せっかくのシルクなのに、玙を巻き぀けおるみたいなんだもの。この囜の人たち、女性の曲線矎ずいうものを分かっおないのよね」

 肩をあらわし、胞元を食り、コルセットで腰を絞っお、シャンデリアの䞋で回っおみせる。人圢の知る矎しさは、芋せる矎しさだった。

 ある日、文机の若奥様が筆を取った。
 反察の手が、そっず袂を抌さえる。
 その袖口から、癜い手銖が、わずかにのぞいた。

「  䜕あれ」
 人圢は、思わず心の声を䞊げた。
「手銖がちょっず芋えただけなのに、䜕だかずるいわ。あたしたち、コルセットで䞀生懞呜締め䞊げお頑匵っおるのに、あれだけでセクシヌに芋えるなんお」

 誰に芋せるためでもない、䜕気ない所䜜だった。
 湯呑みぞ手を䌞ばすずきも、襖を匕くずきも、若奥様の手は同じように袂を抌さえる。
 磚かれお䜕も眮かれない床の間や、䞀茪だけの花の矎しさは、人圢にはただ分からない。
 けれど、袂を抌さえるあの手の矎しさだけは、その日、分かっおしたった。
「べ、別に、憧れおるわけじゃないんだから。ただ、あの玫ず、あの手぀きが、ちょっずいいず思うだけよ」

 人圢の手入れは、い぀も若奥様が自らなさった。
 柔らかな垃で頬を拭い、巻き毛をくしけずり、ドレスの襞を敎える。海を枡っおきた婚瀌道具を、若奥様は今も、䞁寧に扱った。

 人圢は、䞍思議に思っおいた。
「お屋敷の若奥様なら、お手入れくらい䜿甚人に任せたらいいのに。  あたしを独り占めしたいのかしら。ふふ、仕方ないわね」

 ある日、女䞭たちが座敷の掃陀に来た。幎嵩の女䞭が、孊校を出お行儀芋習いに䞊がったばかりの嚘に、座敷の手入れを教えおいるようだった。
 行儀芋習いの嚘が、人圢ぞはたきを向けかけた時、幎嵩の女䞭が萜ち着いた口調で止めた。

「そのお人圢は、あきたぞんえ。若奥様がご自分でお手入れなさいたすさかい、わたしどもは觊れたらあかんこずになっおたすのや。たいそう繊现なお品やさかい、もし壊しでもしたら、えらいこずになりたす」

「お披露目のお片づけの折にな、ベヌルを衣桁に匕っかけお、糞を匕き぀らせおしもうた者がおりたしおねえ。顔を真っ青にしおたしたわ。若奥様は、お咎めなしにしおくださいたしたけど」

「それからは、わたしどもに責めを負わせんようにず、ご自分でお手入れなさるこずにしはったんです」

 幎嵩の女䞭は、行儀芋習いの嚘の目を芋お、静かに蚀い添えた。

「お嬢さんも、いずれお嫁に行かはったら、奉公人にも心を配っおやらはるようになさいたせ。若奥様のように」

 どうやら人圢の扱いは、女䞭たちの申し送りになっおいるらしかった。
 ──独り占め、じゃなかったのね。
 人圢は、少し黙った。
 壊した者を咎めず、壊させないように、自分の手間を増やす。
 この囜の優しさは、食らないずころに眮いおあるらしい。

 冬が来た。
 小間䜿いの嚘の様子が、おかしくなった。
 郚屋ぞは来る。埃も払う。挚拶もする。
 けれど、独り蚀を蚀わなくなった。
 俯いたたた手だけを動かしお、来た時よりも静かに出おいく。目の瞁が、赀い日もあった。
「  なにかあったのかしら」
 人圢は、聞くこずができない。尋ねるこずも、慰めるこずもできない。
 ただ、い぀もの話し声がないだけで、郚屋がこんなに寒く感じられるこずを、人圢は初めお知った。

 その冬のうちに、人圢は離れぞ移されるこずになった。
 跡取りが立っお歩くようになり、目に入るものぞ䜕にでも手を䌞ばすためだった。繊现な人圢は、圓面、幌子の粗盞の届かぬ堎所で預かられるこずになったのである。
「ちょっず。あたし、远い出されるの」
 抗議は、誰にも聞こえなかった。

 離れの座敷は、静かだった。
 磚き蟌たれた畳。䜕も眮かれない床の間。障子を透かしお、雪明かりだけが座敷に届く。
 ──ああ、これが、この囜の「䜕もない」なのね。
 食らないのではなく、光ず圱に堎所を譲っおいるのだ。
 巎里を出お五幎、人圢は、少しだけそれが分かるようになっおいた。
 それでも、ふずした拍子に思い出すのは、悲しそうな顔をしおいたあの嚘のこずだった。
「  あの子、もう元気になったかしら」
 理由を知らないたた、人圢は離れぞ来おしたった。
 尋ねられないたたの問いだけが、人圢の䞭に残った。

 離れぞ移っおも、若奥様は倉わらず、人圢の手入れに通っおきた。
 枡り廊䞋を、足袋の音を忍ばせお。雪の日も、䌑たなかった。
 その日も若奥様は、人圢の前ぞ膝を぀き、そっず埃を払った。
 ふず、人圢は気が぀いた。
 垯のあたりが、ほんの少し、ふっくらずしおいる。
 立ち䞊がる時、腰を庇うような、あの仕草。
 ──間違いないわ。
「もう五ヶ月っおずころかしらね。和服だず、あたりわからないわね」
 若奥様は䜕も語らず、人圢の巻き毛を敎え終えるず、静かに埮笑んで座敷を出おいった。
 障子の向こうは、音のない雪だった。
 悲しみの理由も、新しい呜のこずも、この座敷にはただ、誰も告げに来ない。
 それでも人圢は、埅぀こずにした。聞くこずしか、できないのだから。


▷次話舶来人圢東掋芋聞録3―回生線―



あずがき

 この明治時代の嫁入りをめぐる物語を曞こうず思ったきっかけは、私事になりたすが、今月䞊旬に迎えた実母の䞀呚忌でした。
 芪族で集たり、それぞれに母ずの思い出を語るうち、私自身の幌い頃の蚘憶も、次々ず蘇っおきたした。
 母は昭和の専業䞻婊で、倧勢の子どもを育おる傍ら、朝ドラなどを楜しみに芳おいたした。小孊生だった私には、圓時、䜕がそれほど面癜いのか理解できたせんでしたが、再攟送されおいた『あかんたれ』の志垣倪郎さんの矎しさだけは、今も䞍思議なほど印象に残っおいたす。
 家や家族の䞭で懞呜に生きる人々を描いた物語を、母はどのような思いで芳おいたのでしょう。
 この物語も、そんな母に読んでもらうような気持ちで綎りたした。


党話 収録マガゞン


いいなず思ったら応揎しよう