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「何もない」と思っていた人生が、誰かの道しるべになる|舟の語り#6🐯🛶

    湖を渡る風は、今日も穏やかだった。


    男は舟のへさきに座り、水面を眺めていた。


    しばらく沈黙が続いたあと、男が口を開く。


    「船頭さん。」


    「今日は何を考えている。」


    「人の記事を読んでいると、みんなすごいんです。」


    「仕事で結果を出した人。何かを成し遂げた人。人生を変えた人。」


    男は水面に目を落とした。


    「それに比べて、自分には何があるんだろうって。」


    「会社員として働いて、子育てをして、毎日を過ごしているだけです。」


    船頭は櫂を動かしながら尋ねた。


    「何かを成し遂げなければ、語るものはないのか。」


    「……どうなんでしょう。」


    男は少し考える。


    「少なくとも、誰かの役に立つような経験はない気がします。」


    船頭は櫂を水から上げた。


    船頭は足元に転がっていた、小さな石を一つ拾った。


    「これは何に見える。」


    「石です。」


    「ただの石か。」


    「……ただの石でしょう。」


    船頭はその石を、男の手のひらに乗せた。


    「では、分かれ道に置いてあったら?」


    男は石を見つめる。


    どこにでもありそうな、小さな石だった。


    「目印……ですか。」


    「そうだな。」


    「道しるべにもなるかもしれません。」


    船頭は静かに頷いた。


    「石は変わったか。」


    男は首を横に振る。


    「いえ。同じ石です。」


    「なら、何が変わった。」


    男はもう一度、手のひらを見る。


    しばらく考えてから答えた。


    「……置かれた場所と、見る人でしょうか。」


    船頭は何も言わず、櫂を水へ戻した。


    舟がゆっくりと進み始める。


    男は手の中の石を見つめたまま、黙っていた。


    やがて、ぽつりと口を開く。


    「経験も……同じなんでしょうか。」


    船頭の金色の瞳が静かに男を見る。


    「僕にとっては、何でもない毎日でも。」


    男はこれまでの日々を思い返した。


    時間がないと嘆いていた日々。


    布団に入っても、考え事が止まらなかった夜。


    書きたいのに書けず、立ち止まったこと。


    誰かのために頑張ることと、自分を大切にすることの間で迷ったこと。


    どれも、特別な成功ではない。


    むしろ、できれば人に見せたくないような迷いや失敗もあった。


    「今、同じことで悩んでいる人がいたら……。」


    男は石を握った。


    「僕が何に悩んで、何を考えたのかを伝えることで、その人の役に立つこともある。」


    船頭は小さく頷いた。


    「かもしれんな。」


    男は思わず笑った。


    「そこは『そうだ』って言ってくれないんですね。」


    「お前の経験が誰に届くかなど、俺にも分からない。」


    船頭は前を向いたまま答える。


    「だが、ふところに入れたままでは、誰にも見つけられん。」


    男は手のひらを開いた。


    小さな石が、月明かりを受けて淡く光っている。


    「失敗したことも、迷ったことも……誰かにとっては、道しるべになるかもしれないんですね。」


    男は石を見つめた。


    「それなら、僕にも書けることがありそうです。」


    「そうか。」


    船頭の返事は、それだけだった。


    二人の間に、再び静かな時間が流れる。


    舟の横を、小さな波が通り過ぎていく。


    男は水面に映る自分を見つめた。

    少し前まで、「自分には何もない」と思っていた。

    けれど、何もなかったのではない。

    ただ、自分で「大したことではない」と片づけていただけなのかもしれない。




    「船頭さん。」


    「なんだ。」


    「この石、捨てなくてもいいですか。」


    船頭は男の手の中を見る。


    「好きにしろ。」


    「でも、ずっと持っているだけじゃ駄目なんですよね。」


    船頭は少し笑った。


    「さてな。」


    「またそれですか。」


    男も笑った。


    やがて霧が湖の上を流れ始めた。


    舟を包み、船頭の姿を少しずつ白く隠していく。


    男は手の中の石を握った。


    「僕にも、誰かに渡せるものがあるのかもしれない。」


    霧の向こうから、船頭の声がした。


    「なら、書いてみればいい。」


    ――。


    男が目を開けると、自宅の机に向かっていた。


    男は自分の手を見る。


    何も握っていない。


    それでも、あの石の感触が手のひらに残っているような気がした。


    パソコンを立ち上げる。


    何を打とうか迷って、少しだけ手が止まる。


    以前なら、そこで閉じていたかもしれない。


    男はしばらく考え、一番上にこう打ち込んだ。


    『今日、自分は何に迷った?』


    そこから、一日のことを書き始めた。


    少しずつ言葉が画面に並んでいった。


    手のひらにはもう何もない。


    けれど、あの小さな石は、確かにそこにあった。



    この物語を現実に落とし込みたい方、
    解説記事を読みたい方はこちらから

    「何もない人生」なんてない。あなたの経験が誰かの道しるべになる|船頭の道しるべ#6


    「人生の船頭」を最初から読みたい方はこちら。
    →「人生の船頭|はじめての方へ」


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    →「人生の航海図」

     
     
     
    人生の船頭|久居 人生という舟を、自分らしく進むために。 「自利利他」を軸に、子育て・夫婦 時間・生き方について発信しています。 🐯虎の船頭との物語 🧭日常に活かす「船頭の道しるべ」 物語で心に届け、解説で日常へ。 立ち寄れる港のような場所を目指しています。 週一で更新予定です。

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