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社会派/育児サイコホラー小説『みんなちがって、みんないい』第1章

    あらすじ

    過酷なワンオペ育児に摩耗した美月は、集団行動に遅れる息子・蓮の奇行を「固有の感性」と言い換えることで自らを防衛した。「みんなちがって、みんないい」という美名は、社会の正論を拒絶するための諸刃の剣となり、他者の領域を教えられずに育った蓮は、悪意なく他人の世界をハサミで切り刻む透明な怪物へと変貌していく。クラスからのサイレントな排除の果てに、剥き出しの暴力によって社会から完全にパージされた母子。キャリアも夫も失い、閉ざされた暗闇の部屋で、美月は自らの顔写真が不気味に切り貼りされた無数の豆本に囲まれる。美しき言葉の毒に麻痺したまま、言葉の通じない我が子を抱き、二人は静かに奈落の底へ沈んでいく。


    第1章:美しい呪縛

    金曜日の午後八時。都心へ向かう上り電車の吊り革にすがりつきながら、坂乃美月(さかの みづき)はスマートフォンの画面を虚ろな目で凝視していた。
    画面に並ぶのは、仕事のタスク管理アプリと、保育園からのシステム通知、そして食材宅配サービスの注文確認画面。どれもが美月の時間を分刻みで削り取っていく。

    「住宅メーカー企画職・フルタイム勤務」
    響きはいいが、実態は綱渡りの毎日だ。三十四歳になった美月の心身は、常に薄皮一枚で繋がっている状態だった。

    「次は、終点、栂野(とがの)駅――」
    アナウンスを聞き、美月は深くため息をついてスマホをバッグにねじ込んだ。急いで改札を抜け、小走りで保育園へと向かう。夜間保育の冷たい蛍光灯の下で、五歳になる息子の蓮(れん)は、一人で静かにミニカーを床に並べていた。

    「すみません、遅くなりました!」
    美月が息を切らせて頭を下げると、担任の保育士はいつもの引きつった笑顔で「お疲れ様です」と応え、一冊の連絡帳を手渡した。

    「あの、美月さん。今日の蓮くんのご様子なんですけど……」

    その口調の重さに、美月の胃がキュッと収縮する。またか、と思った。

    「お友達のハルくんが、何日もかけてブロックで大きなお城を作っていたんです。それを蓮くん、悪気なく全部崩してしまって。自分のミニカーを走らせる『真っ直ぐな道路』が欲しかったみたいなんです」

    「……すみません。ハルくんに怪我は?」
    「怪我はありません。ただ、ハルくんが大泣きしてしまって。でも、蓮くんはそれを止められると、ひどく不思議そうな顔をして『だって、ここに道路がないと僕の車が走れないから、邪魔なんだよ』って、本当にキョトンと言ったんです。ハルくんが泣いている理由も、自分が責められている理由も、全く分かっていないご様子で……」

    保育士の目は、かすかな戸惑いと、それ以上の「気味悪さ」をはらんでいた。

    「悪気がないのは分かっているんです。暴れたり、叩いたりするわけじゃないので、こちらとしても強くは言えなくて。ただ、蓮くん、ちょっとそういう『他人の領域』に対する認識が、ワンテンポ遅いというか……」
    「……分かりました。家でもよく言って聞かせます」
    美月は這うようにして蓮の手を引き、夜道を歩いた。

    蓮は、美月の手を握りながら、機嫌良さそうに鼻歌を歌っている。家での蓮は、本当におとなしくて手のかからない「いい子」だ。激しい癇癪を起こすこともなければ、物を投げつけて暴れるような攻撃性も一切ない。聞き分けが良く、ご飯も文句を言わずに出されたものを食べ、一人で静かに絵を描いている。

    それなのに、なぜ外に出ると「おかしい」と言われなければならないのか。暗闇の中、美月の心に「育児の失敗」という黒い泥のような不安が満ちていった。

    翌週の水曜日、保育園の個人面談が設けられた。
    美月は仕事を早退し、張り詰めた面持ちで園長室の椅子に座っていた。迎えたのは、白髪の穏やかな老園長だった。美月は、連絡帳に書き溜められた「蓮の不器用さ」「集団行動での遅れ」「他人の作品を悪気なく排除する行動」を、吐き出すように告白した。

    「蓮には悪気がないんです。人を傷つけようなんて一ミリも思っていない。ただ、自分がミニカーを走らせたい、その目的に向かって進むとき、目の前にあるお友達の存在が『見えていない』みたいなんです。敵だと思っているわけでもない。ただ、自分のやりたいことの邪魔だから、どかしているだけで……」

    美月の目から、堪えていた涙がポロポロと溢れ落ちた。仕事のプレッシャー、孤独な育児。限界だった。老園長は、美月の震える手をそっと包み込んだ。そして、慈愛に満ちた声でこう言ったのだ。

    「お母さん。そんなに自分を責めないでください。蓮くんは、何もおかしくありませんよ」
    「え……?」
    「金子みすゞという詩人の、有名な言葉を知っていますか? 『みんなちがって、みんないい』。私はね、この言葉こそが子育てのバイエル、すべての基本だと思っているんです」

    園長は、部屋の壁に掛けられた額縁を指差した。
    「蓮くんは、お友達をいじめているわけではないのでしょう? ただ、自分のやりたいことに真っ直ぐなだけ。それはね、素晴らしい集中力であり、個性の形なんです。違っていていいんです。それが蓮くんの素敵なところなんですから。ありのままを受け入れて、その素敵な個性を大切にしてあげてください」

    みんなちがって、みんないい。

    その言葉は、美月の耳の奥で、信じられないほど甘く、美しい音楽のように響いた。張り詰めていた肩の力が、一気に抜けていくのが分かった。

    ――だが。
    園長室を出て、夕方の冷たい風に吹かれた瞬間、美月の胸に再びチリチリとした現実的な不安が首をもたげた。
    「ありのまま」でいい、という言葉は確かに救いだ。しかし、現に保育園の現場ではトラブルが起きている。本当にこのままでいいのだろうか。言葉の美しさに縋りたい自分と、冷徹な現実の間で、美月の心は千々に乱れた。

    「……だから、一度ちゃんと専門家に診てもらうか、行政に相談した方がいいと思うの」

    その日の深夜、日付が変わる頃に帰宅した夫の拓也(たくや)に、美月は重い口を開いた。ネクタイを緩め、冷めきった夕食を口に運んでいた拓也は、面倒くさそうに眉をひそめた。

    「病院? 大袈裟だよ。蓮が何か大暴れでもしたのか?」

    「暴れてはいないわ。癇癪もない。家では手のかからない、いい子よ。でもね、保育園でお友達の物を悪気なく壊したり、どかしたりしちゃうの。相手の気持ちが全く理解できていないみたいで……」

    「そんなの、子供のうちはよくあることだろ。男の子なんだから、ちょっとくらいマイペースな方が大物になるって」

    拓也はスマホに目を落としたまま、まともに美月の顔を見ようともしない。

    「園長先生も『みんなちがって、みんないい』って言ってくれたんだろ? だったらそれでいいじゃないか。お前、仕事もあって疲れてるんだよ。気のしすぎ、考えすぎだって」

    拓也にとって、育児のトラブルは「自分の可処分時間を奪うノイズ」でしかなかった。明確な病気や障害でもない限り、まともに向き合う労力を割きたくない。その事なかれ主義の態度に、美月の心はさらに孤立していく。
    頼れるあてを求め、週末に実家の両親に電話をかけた。しかし、返ってきたのは、美月の心をさらにすり潰す言葉だった。

    「ちょっと美月、病院だの相談窓口だの、行くんじゃないよ」

    母親の声は、心配よりも先に「世間体」への警戒に満ちていた。

    「坂乃の家にも、うちの家系にも、そんなおかしな子は一人もいません。近所の人に見られたら『あそこのお孫さんはどこか悪いのね』って、変な噂が立つじゃないの。蓮くんはおとなしくて良い子んだから、親が余計なラベルを貼って傷つけるもんじゃありません。世間っていうのはね、一度でもそういう目を向けたら、ずっとそういう目で見るんだから」

    父親も電話の奥で「そうだ、親の育て方が神経質なだけだ」と不気味そうに吐き捨てた。

    夫からの「気のしすぎ」という片付けと、両親からの「世間体を汚すな」という抑圧。誰一人として、美月が抱える「目の前の蓮の異質さ」を直視しようとはしなかった。

    誰も信じてくれないなら、公的な場所を頼るしかない。
    美月は有給休暇をとり、すがるような思いで市役所の子育て支援総合窓口、通称「子ども家庭相談」を訪れた。パーテーションで区切られた狭いブースで、くたびれたスーツを着た中年の女性相談員が対応した。
    美月は、これまでの経緯と、蓮の具体的な行動特性を必死に書き連ねたメモを差し出した。

    「暴れたり、奇声を上げたりはしません。癇癪もないです。家では本当に手がかからなくて、むしろいい子なんです。でも、他者との境界線が分かっていないようで……」

    相談員は、手元にある厚い行政のマニュアルのページをめくった。そこには、チェックリストが整然と並んでいる。

    「お母さん、蓮くんは自傷行為や、他者への明らかな攻撃性はありますか?」
    「いえ、ありません。悪気はないんです」
    「夜、眠れないとか、偏食が激しくて体重が減っているなどは?」
    「それもありません。ご飯もよく食べます」
    「言葉の遅れや、身体的な発達の遅れは?」
    「検診ではすべて平均的と言われました」

    相談員はマニュアルの項目を一つずつチェックし、ペンを置いた。そして、役所特有の、形式的で痛みのない微笑みを浮かべた。

    「そうですね。マニュアルに沿って判断しますと、現段階で医療機関へのご紹介や、特別な療育支援が必要なレベル(基準)には該当しません。癇癪や攻撃性がないというのは、非常に落ち着いている証拠です。今はまだ五歳ですし、成長のスピードは人それぞれですからね。学校に上がれば自然と集団生活に馴染むケースがほとんどです。一言で言えば……『様子見』ですね」

    様子見。

    それは、行政が「明確な基準(障害)」を満たさないグレーゾーンの子供に対して出す、最も残酷で合法的な門前払いだった。

    「園長先生も仰ったんでしょう? 『みんなちがって、みんないい』って。本当にその通りですよ。お母さん、肩の力を抜いて、蓮くんの個性をそのまま見守ってあげてください」

    相談員の口からも、あの美しい言葉が飛び出した。

    役所のブースを出たとき、美月の足元はふらついていた。
    病院に行くほどではない。行政の支援を受けられる基準にも満たない。夫は逃げ、両親は世間体を気にして怒る。
    この社会には、蓮の「ズレ」をすくい取る網の目はどこにも存在しないのだ。
    その絶望の淵で、美月の脳裏に、園長や相談員が口にした言葉が、今度は全く違う色を帯びて蘇ってきた。
    (そうか……みんな、そう言うんだ。だったら、本当にこれでいいんだ。私が悩んでいたのは、私が周りに合わせようと神経質になっていたからなんだ)

    美月の張り詰めていた心の防波堤が、音を立てて決壊した。
    「相談する、調べる、教育する、周囲に頭を下げる」という、果てしなく泥臭く、誰も手伝ってくれない重労働。そこから完全に逃れるための、完璧な大義名分を、社会全体が私に与えてくれたのだ。

    私は間違っていない。蓮も間違っていない。
    間違っているのは、一律の基準を押し付け、蓮の個性を「問題行動」と呼ぶ、外側の世界の方なのだ。

    美月は、その「呪縛」を、至高の救いとして深く胸に抱きとめた。彼女の目から、他者への不適応を恐れる「正常な不安」が消え失せ、冷たい平穏が満ちていった。
    感情形成期の真っ只中にある五歳の蓮にとって、母親は世界のすべてであり、母親の言葉は絶対的なルール(客観的事実)だった。

    🧸

    窓口相談から数日後、近所の公園での出来事だった。

    蓮は、砂場で大きな山を作ろうとしていた。その時、三歳くらいの小さな女の子が、蓮の目の前でプラスチックのバケツを使って遊んでいた。
    蓮は、山をさらに高く積み上げるために、そのバケツが必要だと判断した。
    蓮は無言で手を伸ばし、女の子の手からバケツを引っこ抜いた。

    悪意はなかった。奪い取ろうという攻撃性もない。ただ、自分の「山を高くする」という目的のために、そこにあるバケツが必要だった。女の子という人間は、彼にとって「バケツを保持している障害物(オブジェクト)」に過ぎず、その内面に感情があることなど、蓮の脳内回路にはこれっぽっちも浮かばなかった。

    「あ、ああ、うわあああん!」

    バケツを奪われた女の子が、激しく泣き出した。
    周囲の母親たちが一斉に視線を向ける。だが、蓮は女の子の泣き声に驚くことも、怯えることもなかった。ただ、不思議そうに、雲が流れるのを見るような透明な目で、泣き叫ぶ女の子の顔を見つめていた。
    彼にとって、その涙は「雨が降ってきた」という物理現象と同じだった。うるさいな、とは思う。だが、それ以上の感情の揺らぎはない。

    「蓮、ダメじゃない、お友達の使っているものを取ったら」

    美月が駆け寄ってきた。形ばかりの焦りを浮かべ、女の子の母親に「すみません、まだ上手におねだりができなくて」と頭を下げる。
    しかし、美月の心の中もまた、完全に麻痺していた。
    (蓮は悪気があってやったんじゃない。ただ、山作りに集中していただけ。癇癪を起こして暴れるわけでもない。行政だって『様子見でいい』って言った。これは蓮の『ちがい』の一コマに過ぎない。この子を責める周りの目が狭量なだけだ)

    美月は蓮の手を優しく引き、砂場の隅へと移動させた。あるいは、もう他人のいる砂場そのものが「蓮の個性を阻害する邪魔な場所」に思えていた。
    美月は、蓮の目線に合わせてしゃがみ込み、諭すように微笑んだ。

    「蓮、バケツが欲しかったんだよね。蓮のその熱中できるところは、本当にかっこいいよ」
    蓮は、じっと母親の顔を見上げた。

    「でもね、お友達が泣いちゃうと、蓮の楽しいお山作りが邪魔されちゃうでしょ? だから、次は別のおもちゃを使おうね」
    美月の声には、他者への共感も、倫理的な善悪の教えも含まれていなかった。あるのは「あなたの行動は正しい」という全肯定と、「自分の目的をスムーズに達成するための効率論」だけだった。

    蓮の頭の中で、母親の言葉がカチリと音を立てて噛み合った。
    「うん。」
    蓮は無垢な笑顔で頷いた。

    母親の言葉の通りに動き、自分の世界の邪魔をされないように立ち回る。そのための小さな知恵を、彼は今日一つ、手に入れた。
    他者の痛みを感知するセンサーを完全に骨抜きにされた、透明な怪物が、美しい言葉の苗床で静かに息を始めている。美月はその怪物の手を握り直し、「手のかからない、優しい自慢の息子」と共に、夕暮れの家路へと歩き出した。
    (第1章・了)




    #創作大賞2026 #ホラー小説部門


     
     
    noteを書き始めて一年が経っていました。 うまく言葉にならない感情や、 日常の小さな違和感を、 静かな文章として書いています。 人との距離感、 やさしさと疲労、 失ったものと、それでも残る光。 「自分だけじゃなかった」 と思える場所になればうれしいです。

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