
― ②家業の原点と「信用」が会社を支えるという教えから大阪へ、焼け野原から始まった資源循環 ― 第二章 父から受け継いだもの 韓国生活と経営危機
第二章 第一話 バブルという熱狂
あらすじ
高度経済成長を経て、日本は世界第二位の経済大国へと駆け上がった。その勢いは多くの企業と経営者に大きな夢を与えた一方で、バブル経済という熱狂を生み出した。大城商店(仮名)もその時代を生きた一社だった。祖父から父へと受け継がれた会社は成長を続けるが、時代の空気はやがて経営判断を大きく揺さぶる。本話では、父の人物像と現場の記憶、そして後の経営危機へとつながる時代背景を描く。
祖父が会長となり第一線を退く頃、大城商店(仮名)は父の時代を迎えていた。祖父は数字に対して誰よりも厳格な人だった。一日の売上は一円たりとも狂わせない。帳簿が合うまで帰宅しない。その姿勢が会社の信用を築き、戦後の焼け野原から会社を育て上げた原動力だった。
父は高校卒業後から祖父とともに現場へ入り、長年スクラップ業一筋で働いた。自由よりも責任が先にある人生だったと、後に母から聞いた。祖父母は仕事に厳しく、父も母も自分たちの時間を持つ余裕はほとんどなかったという。
高度経済成長の中で父は仕事だけではなく株式投資にも興味を持ち、勉強を重ねた。投資で得た利益は私たち兄弟の教育にも使われ、家族を支える力となった。しかし、その成功体験はバブル経済の熱狂の中で、より大きな投資へと父を導いていく。
当時の日本は世界第二位の経済大国であり、『土地は値下がりしない』『株は持っていれば必ず上がる』という空気が社会全体を包んでいた。銀行は積極的に融資を勧め、多くの経営者が設備投資や不動産投資へ踏み出していった。父もまた、その時代を生きた一人だった。
私が子どもの頃、大城商店に土日という概念はほとんどなかった。忙しい時期には父と夜中まで現場で作業をしたことが何度もある。お盆前や年末になると会社の前にはスクラップ回収業者のトラックが何台も並び、運転手たちは順番を待ちながら殺気立っていた。鉄の匂い、フォークリフトの音、現場に響く怒号。それが私にとっての日常だった。
当時は近隣住民との摩擦も少なくなかった。屋根も壁もないヤードでは粉塵や騒音が絶えず、地域の方々に迷惑をかけることもあった。それでも父や社員は家族を守るために懸命に働き続けていた。
私はまだ学生で、家業を継ぐ現実を深く考えてはいなかった。しかし、現場で流した汗や父の背中は、知らないうちに私の価値観を育てていた。そして、その穏やかな日常が永遠には続かないことを、この時の私はまだ知らなかった。
やがてバブルは崩壊し、父の挑戦は六億三千万円という重い負債となって会社に残る。
その現実が、後に私の人生を大きく変えることになる。
今振り返ると、父が背負っていたものは借金ではなく、家族、社員、そして会社を守る責任だった。私はその頃まだ、その責任の重さを本当の意味では理解していなかった。
第二章 第二話 韓国生活が人生最大の転機
あらすじ
韓国への留学は、大城賢治(仮名)の人生を大きく変えた一年だった。語学を学ぶために渡った韓国だったが、本当に得たものは韓国語だけではない。異文化の中で暮らし、多様な価値観を受け入れる力を身につけたことが、その後の海外事業や外国人雇用、経営哲学の原点となっていく。
今思えば、私の韓国留学生活は人生最大の転機だった。それまで私は家族と離れて暮らしたことがなく、海外生活も初めてだった。韓国語はまったく話せず、日本語で言えば『あいうえお』から学び始めるような状態で延世大学語学堂へ入学した。
最初に住んだのは、日本人留学生向けの下宿だった。食事も洗濯も下宿のおばさんが世話をしてくれ、生活には不自由がなかった。しかし、学校と下宿を往復するだけの毎日では、本当に韓国語を身につけることはできないという焦りを感じ始めていた。
そんなある日、同じクラスにいた東大出身の友人が私に『このままだと駄目になる。その下宿を出なさい。』と助言してくれた。その一言が私の人生を変えた。私は思い切って日本人ばかりの環境を離れ、韓国人学生が暮らす下宿へ移った。
そこには延世大学や近くの名門大学へ通う学生たちが暮らしていた。彼らは私を同胞として温かく迎え入れ、夜になると食事や酒を囲みながら社会や人生について熱く語り合っていた。私は言葉が十分に分からないまま、その輪の中で毎日を過ごした。
三か月ほど経つ頃、それまで雑音のように聞こえていた韓国語が少しずつ意味を持って聞こえるようになった。私は午後の時間も無駄にしたくなかったため、市内の英会話学校へ通い始めた。英語を学ぶことが目的だったが、日本語を学ぶ韓国人学生たちと自然に交流が生まれ、友人が増えていった。
午前中は韓国語を学び、午後からは韓国人の友人たちと韓国語だけで生活する。週末は山登りやハイキングへ出掛け、韓国の文化や考え方を肌で感じながら過ごした。
当時は毎日が楽しいという気持ちしかなかった。しかし今振り返ると、あの一年間で本当に学んだものは韓国語ではなく、異文化を理解する力だった。当時の日本は世界第二位の経済大国であり、多くの日本人にとって異文化を深く理解する必要性は高くなかった。しかし私は韓国で、価値観や仕事観、人との距離感が違う世界に身を置き、『違い』を受け入れることの大切さを学んだ。
この経験は、その後韓国企業で働き、中国やベトナムへ挑戦し、多国籍の仲間と共に働く現在の経営の原点となっている。韓国留学は、語学留学ではなく、世界で生きるための人間学を学んだ一年だったのである。
第二章 第三話 一本の電話
あらすじ
韓国留学と韓国企業での勤務を経て、海外で生きていく夢を描いていた大城賢治(仮名)。しかし一本の電話が、その人生を大きく変える。父は『戻ってこい』とは言わなかった。それでも長男である賢治には、その沈黙の奥にある父の苦しみが痛いほど伝わってきた。
韓国留学を終えた私は、念願だった韓国の貿易会社へ入社した。海外との取引に携わり、語学を生かしながら働く毎日は充実していた。将来は世界を舞台に仕事をしたいという夢が、少しずつ現実になり始めていた。
そんなある日、大阪にいる父から一本の電話が入った。父は普段から多くを語る人ではなかった。その日も長い説明はなかった。『会社が少し苦しいんや。』ただ、それだけだった。
父は最後まで『戻ってこい』とは言わなかった。しかし、その短い言葉の裏には、会社の現実と父自身の苦悩が詰まっていた。私は長男だった。幼い頃から、いつかは家業を継ぐのだろうと漠然と思っていた。その『いつか』が、突然目の前に現れたのである。
私は東京での仕事が好きだった。海外と関わる仕事は刺激に満ち、まだ学びたいことも数多くあった。同期の仲間にも恵まれ、結婚も控えていた。会社を辞める理由はどこにもなかった。
しかし一方で、私を大学まで通わせ、韓国留学という挑戦を支えてくれたのは父と母だった。その恩を思うと、会社が危機にある時に自分だけ夢を追い続けることはできなかった。
何日も悩んだ末、私は帰る決意をした。東京で築き始めたキャリアを手放し、大阪へ戻る。それは夢を諦める決断ではなく、新しい使命を引き受ける決断だった。
帰郷した私を待っていたのは、売上約四億円に対して六億三千万円の負債という厳しい現実だった。しかし不思議と絶望だけではなかった。『必ず立て直す。』その思いが、私の中で静かに芽生えていた。
今振り返ると、あの一本の電話は人生を変えた電話だった。あの日の決断がなければ、フレコンバッグ事業も、海外事業も、現在の会社も存在しなかった。人生は、自分で選んだ道よりも、自分に託された道によって大きく成長することがある。そのことを私は父から学んだ。
第二章 第四話 会社へ戻った日
あらすじ
東京での商社勤務を辞め、大城賢治(仮名)は家業へ戻る決断をする。そこで目にしたのは、想像していた会社とはまったく違う現実だった。六億三千万円の負債、古い事務所、現場中心の会社。しかし父は息子に『新しい仕事をつくれ』と未来を託す。
東京での仕事を辞め、大阪へ戻った私は、いよいよ家業へ入ることになった。海外で仕事を続けたいという思いはあったが、それ以上に家族と会社を守りたいという気持ちが強くなっていた。
初めて経営者の立場で会社を見た時、私は大きな衝撃を受けた。売上は約四億円、従業員は七名。事務所には木製の机が並び、パソコンは一台もない。現場では大型トラックが出入りし、鉄スクラップを積み下ろす音が一日中響いていた。
財務内容を知るにつれ、その現実はさらに重くのしかかった。会社には六億三千万円の借入金があり、年間の金利だけでも大きな負担となっていた。利益を出しても借金は減らず、経営は極めて厳しい状況だった。
そんな私に父は意外な言葉を掛けた。『お前はスクラップをしなくてもいい。新しい仕事をつくれ。』父は私を現場へ縛り付けるのではなく、新しい未来を切り拓く役割を与えてくれたのである。
会社の片隅に用意された小さなプレハブ事務所。それが私の新しい挑戦の出発点だった。作業着ではなくスーツを着て市場を歩き、新しい商材を探し、貿易会社で学んだ経験を生かせる仕事を必死に考えた。
もちろん順風満帆ではなかった。新しい事業への挑戦は失敗の連続だった。それでも私は諦めなかった。父もまた、失敗を責めることはなく、『次を考えよう』と背中を押してくれた。
やがて中古フレコンバッグとの出会いが訪れる。この小さな出会いが、会社の未来を大きく変える第一歩になるとは、その時は誰も想像していなかった。
今振り返ると、会社へ戻った日は、借金を背負った日ではなく、経営者としての人生が始まった日だった。父から受け継いだのは会社だけではない。挑戦する勇気と、未来を信じる心だった。
第二章 第五話 結婚と六億三千万円の借金
あらすじ
人生で最も幸せな出来事である結婚と、会社存続の危機が同時に訪れた。大城賢治(仮名)は妻との新しい人生を歩み始める一方で、父とともに六億三千万円の負債という現実に向き合う。家族への責任と会社への責任。その狭間で揺れながらも、再建への道を歩み始める。
東京の韓国系貿易会社で働いていた私は、同期入社の女性と結婚を約束していた。海外で働く夢を抱きながら充実した毎日を送っていたが、その頃、大阪では父が人生最大の経営危機に直面していた。
会社はバブル崩壊の影響で六億三千万円という巨額の負債を抱えていた。父は苦しい胸の内を多く語る人ではなかったが、その表情から状況の深刻さは十分に伝わってきた。
私は何度も自問した。『この状況で結婚して本当にいいのだろうか。』『彼女を苦労の中へ巻き込んでしまうのではないか。』しかし、結婚を目前に控えた妻へ会社の財務状況を打ち明けることはできなかった。今振り返ると、本当に申し訳なかったと思っている。
結婚式の日、周囲は祝福に包まれていた。しかし私の心には、誰にも言えない重い荷物があった。それは六億三千万円という借金ではなく、『必ず会社を立て直す』という覚悟だった。
結婚後、私は東京を離れ、大阪で父とともに会社再建へ歩み始めた。新規事業への挑戦と並行して、不良債権処理という厳しい現実とも向き合うことになる。整理回収機構との交渉、弁護士や税理士との打ち合わせは何年も続いた。
毎月のように弁護士から『破産も選択肢です』と言われた。それでも私は不思議と諦める気持ちにはならなかった。父とともに汗を流し、新しい事業を育て、お客様と向き合う時間だけは未来への希望を感じることができた。
振り返れば、会社を再建できたのは私一人の力ではない。父の覚悟、社員の努力、仲間の支え、そして何も知らずに私を信じ続けてくれた妻の存在があったからこそ、今日がある。
私はこの経験を通して学んだ。経営とは利益を追うことだけではない。家族、社員、取引先、すべての人との信頼を守り続けることこそが、本当の経営なのだと。