
不器用な街 第六話 〜アキ〜
時が経つにつれて、キラキラしていたものがただの日常になるということは往々にしてある。それは良くも悪くも。ジェットコースターのような日々よりも、できれば安息の地がある方が望ましいけれど、平坦なところにずっと立っていると時折予期せぬ出来事や非日常が欲しくなる。
そうは言っても、カスタマートラブルという予期せぬ事態は願い下げだし、残業という非日常も全くもって待ち望んでいなかった。いや、残業はもうどちらかというと日常になりつつあるか。特別じゃない残業なんて、一番よろしくない終わってる日常。
早番の日は、目覚ましを止めるところから重労働手当をつけた上で勤務開始として欲しい。スヌーズ機能を一度も発動させずにシャワーまで立ち上がれたら金一封でもいい。それくらいのご褒美があれば、早番も少しは楽しみになるのに。
同じ労働時間でも夜型人間にはただでさえ朝がつらい上、今日は始発で出勤して16時までのシフトのはずが、結局終わったのが18時。
退勤直前にちょっとしたトラブルがあって、その引き継ぎや日報をなんだかんだと済ませていたらこんな時間になってしまった。
いつもの早番であればスーパーに寄って直帰、遅番終わりならたまにギャレットに寄るけど、19時前かぁ。この時間にギャレットはちょっと早すぎるんだよなぁ...。
営業時間的にはもうオープンしてる。でもあそこのバーは早い時間は結構学生が多かったりするから、それがあまり好きじゃない。いつも話すようなこの街に棲みつく酒飲みのメンツは、もう少し深い時間に集まってくるのだ。
でも明日は幸い遅番だし、いつもより頑張った今日の体にはご褒美が必要だ。ぶちぶち言ってても仕方がないので、この時間ならあそこに行ってみよう。
しばらく行ってなかったやきとん屋さん。そこのニラを豚バラで巻いた豚ニラ串と、留学生のバイト君が作るバングラデシュのおつまみがお気に入りなのだ。
駅に着いてしばらく歩くと、少し日が落ちて薄暗くなった小道にぽわっと光る一角が現れる。
店先には、少し黄ばんだ乳白色の行灯看板。内側の蛍光灯が白く滲んで、黒い筆文字で書かれた店名がぼんやりと浮かび上がっている。やきとん夜須。
常連さんたちが「やす」「やす」と呼ぶので、てっきり大将の名前の一部か何かで、ひらがなかカタカナ表記かと思っていたけど、夜須と書くらしい。
何度も訪れたことがあるはずなのに、見えてないものってたくさんあるもんだ。
店の前に着くと夜須の名物アルバイト、ラー君が元気な挨拶と共に迎えてくれた。
「あ〜姉さん久しぶりダナ〜。ちょとお待ちクダサーイ、今みなさんちょと詰めてもらう」
あら、そんなに混んでるんだ。
確かに今ちょうどピークの時間だったかも。そう思いながら店内をひょいっと覗くと、カウンターの一番奥に意外な人物が立っていた。思わず、お?と目が止まる。
あれは...ギャレットでよく一緒に飲むミサキが、最近気になっているという「トオルさん」では?
「あーいいよラー君、大丈夫!奥の人知り合いだから横入れてもらう」
へぇ、こういう店にも来るんだ。
「炭焼きの匂いが服につくから行かない」みたいなタイプかなと勝手に想像していた。店内に入って勢いで彼の横に歩いていってみる。
これは、今日の中ではちょっと面白い「予期せぬ出来事」かもしれない。アキ姉さん、ミサキのために一肌脱いじゃいましょうか。
「こんばんは、横いいです?あ、あたしのこと、誰かわかりますか?」
半ば強引にカウンターの隣に行くと、彼は少し戸惑いながらも自分の皿やグラスを端に寄せてスペースを空けてくれた。
「あー、えーとギャレットで...」
「そうですそうです、すいません急にお邪魔して!あたしアキって言います。トオルさんですよね?」
「あ、はい」
"ミサキからよく聞いてます"というのは、言うか悩んで言わなかった。
彼にそう伝えても、あまりいいようには捉えてくれないような気がしたから。大将に挨拶して生ビールを頼みながら、手探りでカウンター下のフックにバッグを引っ掛ける。
「いらっしゃい。生ビールね。今日は豚ニラ、あと2本」
オーダーを聞きながら、大将が静かに言った。
いつも頼むものを覚えてくれているのが嬉しい。「じゃあ豚ニラ1本!」と急いで注文。すると、トオルさんが「じゃあ僕もそれ、1本お願いします」と言った。最後の2本に乗っかってくるとは、なんとなくこれも意外。
「はーい姉さん、生ビールデース!それから今日はナスのボルタですね〜」
「うわぁナスかぁ。ごめん、あたしナス苦手なんだ」
「あぁ〜姉さんベグンやだね〜残念けどね〜。じゃあボルタなしダナ?」
「うん、今日はパス。ごめんね、ありがと」
「全然ダイジョブ〜。ナスじゃないの時ね〜」
ベグンってナスのことかな。急に現地語っぽいワードが出てきてなんとなく想像する。幼い頃食べられなかった野菜も、大人になったら大体美味しいと思えるようになったけど、ナスだけは今でも食べられない。あのトロトロした食感がどうにも苦手なのだ。
ふと隣を見ると、彼のテーブルの前にはボルタが盛られていたであろう小皿が見えた。
「ボルタ、食べました?」
「あ、はい」
「美味しいですよね〜あたしナスがダメなんで今日はパスしたけど、いつも絶対頼みます」
「トマトのボルタも、美味しいですよね」
「ね〜!あれは家でも作ってアテにしたいくらい!」
会話を聞いてラー君が嬉しそうにボルタの材料とレシピを教えてくれる。
玉ねぎに青唐辛子、塩、そして何より大事なのがマスタードオイルだと熱弁しかけたところで、「ほら、テーブルさん会計」と大将の鋭い声が通った。
あわててお会計に走るラー君。
急に静かになって、二人して豚バラ串を手に取った。食べながら、無言の時が流れる。
いや…これ、なかなか手強いな。自分が乗り込んできたんだから、あたしから話しかけるべきなのかもしれないけど、少しくらいそっちから話広げてくれてもよくない…?ミサキはこの人の、どこにあんなにときめいてるんだろう…。
いやいや、よく知らない人を悪く言っちゃいけない。それにこっちは普段、文化や言語が違うインバウンドのお客様とだってにこやかにコミュニケーションを取っている会話のプロ。曲がりなりにも五つ星ホテルのフロントスタッフだ。ここはあたしからいこう。
「まさか夜須で会うなんてびっくり。ここ、アットホームだし美味しいですよね!よく来るんですか?」
「そうですね、まぁ時々…」
ひ、広がらないな…。こういう時はとりあえず目についたものから話題を挙げていくしかない。そう思って、ふとトオルさんのテーブル下の荷物掛けを見ると、見覚えのある袋が下がっていた。
「え...ブルームーン...?」
そこに話題を広げるつもりは毛頭なかった。でもあまりに予想外なものが目に入って来て、気づいた時には思わず口走っていた。
「あぁ、レコード屋の袋です。ここに来る前に寄ってて。知ってますか?」
知ってるも何も、そのショップバッグに印刷されている月は、あたしが撮ったものだ。昔あいつと見た皆既月食。びっくりするくらい綺麗に撮れた写真を、店の名前にちなんで青く加工した。本当は青く見えないはずの、偽物のブルームーン。今はもう一枚も持っていないけど、当時はなんでもかんでもそれに入れて、家のそこら中に置いてあった。
「あーすいません...知らない、ですよね」
トオルさんの声ではっと思い出から引き戻される。いけない、せっかく会話を続けてくれたのに、意識が月まで飛んでいた。
「ごめんなさいシカトして!ちょっとびっくりしちゃって。ブルームーン、知ってます。駅前の通りから脇に入ったビルの1階ですよね」
「そうですそうです。レコード、聞くんですか?」
こうなったらもう仕方がない。別に隠す理由も必要もないし。小さく息を吐いてから、努めて明るく、何事もないように口を開いた。
「いや〜実は、あそこ一人でやってる髭面のやついるじゃないですか。あれ、あたしの元ダンナなんです」
「えっ...」
「久しぶりにそのショップバッグ見たから、思わずさっきフリーズしちゃいました。あはは」
「あー、なるほど...。なんか、すいません」
「いえいえ!びっくりしただけで、超円満離婚だし今も全然仲良いし、そんな気使わないでください」
あぁ、ミサキ、ごめん。
いい感じに二人を繋げられるかもなんて思ってたのに、完全に自爆した。
元ダンナなんです、なんて聞かされたら、そりゃ何を話していいかわからないよね。トオルさんは明らかに「もうあんまり下手なこと聞かない方がいいかな」ってオーラを放ってる。
あたしはレコードの話もできないし、別れたあいつの話をトオルさんとしても仕方ないだろうし、やっちゃったなぁ...。
予想通りトオルさんは、それから二、三世間話を交わしたものの、触らぬ神に祟りなしじゃないけど、そこから特に会話を広げようとはせず、ウーロンハイを飲み干すとお会計をして帰ってしまった。
「じゃあ、おやすみなさい。大将、ごちそうさまでした」
「また〜おやすみなさーい!」
うーむ。ラー君の言葉を借りるとするならば「残念けどね〜。"また"はなしダナ?」って感じかしら。
それにしてもトオルよ、あたしもあたしで地雷まがいなものを踏ませてしまったのは悪かったけど、あまりにも人に興味なさすぎでは?
これが現代の付き合い方なのかなぁなんて考えながら、豚ニラ串の次に注文したハツの最後の一切れを口に入れる。会話に必死になりながらも、いつの間にかするすると生ビールを飲み終えていた。
メニューとしばしにらめっこしてから、意を決してラー君を呼ぶ。
「ハーイ姉さん!」
「ラー君、ホッピーセットと豚トマト串。あと、やっぱりナスのボルタちょうだい」
「あ〜やっぱり食べたいになったね〜。じゃあナスのところ、ちょといないにするか?」
「大丈夫、食べてみる」
「オーーーケイ。ダイジョブ、絶対おいしだから〜」
ラー君がエールを送るようにあたしの両肩をゆさゆさと揺らしてから厨房に行く。
罰ゲームというわけではない。でも、なんとなく反省のような気持ちで、苦手なものを食べてみようと思った。食わず嫌いもよくないし、偏見もよくない。
ナスと同じように、私はトオルさんに対してどこかマイナスなフィルターをかけて接していたかもしれない。だからこそ、自分の過去の話に変に言い淀んでしまったり、うまく会話が広げられなかったのかも。
あいつと結婚してて、そして離婚したことなんて、この街で長い付き合いの人たちはほとんどの人が知っているなんでもない話だったのに。
「そんな、無理して食べなくたっていいって」
店がほどほどに空いて、焼き場が落ち着いてきた大将がカウンター越しにホッピーセットを渡しながら珍しく声をかけてくれた。
「あ、いや、そういうわけでは...やっぱりボルタ食べたいなぁって...」
「あの兄ちゃんは、うち来てもいつも静かだしすっと帰るんだ。アキちゃんは別に何も悪いこと言ってねぇよ」
大将は、何かを見透かしたようにそう言った。
いつも寡黙に串を焼いているけど、ちゃんとさっきの会話を聞いていたようだ。
ラー君が持って来てくれたボルタには、容赦無くナスが入っていた。
そりゃそうだ。これだけ混ぜ合わさっているんだから、取り除くのは難しいだろう。それでもラー君は、気を使って少しでもナスの少ないところを取ってくれたのかもしれない。
久しぶりに食べるナスは相変わらず特有の食感だったけれど、青唐辛子の刺激とマスタードオイルの心地よく鼻に抜ける香りのおかげか、想像していたナスとはほんの少しだけ違う味わいを知った。