
【谷の巡礼】㉓証文録 第7条「サブリース譚」
~谷の逢魔~
むかしむかし、
あるところに、
それはそれは、
深い闇に包まれる谷がありましたとさ。
この谷では、
夢の宝箱で世界を躍らせ、
黄金の宴に沸いたのは、
遠い記憶となり果てておりました。
若い衆は、
谷の厳しい暮らしに倦み、
「いつしか、
この谷底の暮らしから抜け出して、
空に近い丘の都で平穏に暮らしたい」
そう願って暮らしておりました。

~空谷跫音~
空に近い都の灯が、
いつもより遠く、
滲んで見える逢魔が時。
遠くから、
からん、からんと、
馬具の鳴る音が
響いてきたのでございます。
そこに現れたのは、
黄金に輝く馬車に乗った、
小奇麗な、
それでいて、
少し風変わりな商人でした。
「やあ、谷の若者たち。
谷の底で、
いつまで空を仰いでいるのかね?」
~黄金の馬車~
「この黄金の馬車を、
あなたの名義で手に入れなさい」
「旅人たちに貸し出せば、
彼らが払う運賃で、
あなたの懐は、
生涯潤い続ける」
「なにより、
馬車の代金は、
私どもが、
責任をもって保証しよう」
~又貸ノ証文~
そう言って、
商人は静かに微笑み、
懐から、
妙に立派な『又貸ノ証文』を
取り出したのでございます。

若い衆は、
その言葉の意味こそ、
よく理解できませんでした。
けれども、
その証文に宿るかすかな灯火が、
深い谷底の夜を終わらせ、
空に近い都へと連れ去ってくれる、
夜明けの道しるべに
見えてしまったのでございます。
若い衆の谷底に沈んでいた気持ちは、
そっと、
谷の空へ解けていきました。
「ありがたか。これはよか話ばい」
「未来ば豊かにする、よか智慧ばい」
「空に近い都の暮らしの、
手に入るかもしれんばい!」
そうして、
希望をのせた黄金の馬車に心躍らせ、
『又貸ノ証文』に
判を突いたのでございます。
――まだ見ぬ谷空の都を夢見て。
~解けた道しるべ~
気がつけば、
空に近い都の灯すら見えぬ深い闇。
真夜中の鐘が、
十二度、
谷に、重く鳴り響く頃――。
商人の姿は、
どこにも見当たりませんでした。
若い衆は、
慌てて、
黄金の馬車へ駆け寄りました。
けれども。
そこにあったのは、
旅人を乗せるための
立派な馬車などではなく、
金泥と薄板で飾り立てられた、
見せかけだけの、
空っぽの馬車だったのです。
~空谷の残骸~
若い衆は、
「旅人は来る」
そう信じて、
雨の日も、
風の日も、
馬車を磨き続けました。
けれども、
待てど暮らせど、
旅人は現れませんでした。
旅人たちは、
誰ひとり、
その馬車へ、
乗ろうとはしませんでした。
雨に打たれれば、
塗り固められた飾りは剥がれ落ち、
谷風が吹くたび、
軋んだ車輪が、
ぎい、ぎい、と、
夜道に乾いた音を
響かせたのでございます。
~進退維谷~
それでも。
『又貸ノ証文』に
刻まれた約束だけは、
決して消えることなく、
若い衆を、
深い谷へ、
繋ぎ止めるのでございました。
今夜も、
谷のどこかで、
空っぽの馬車が、
ぎい、ぎい、と、
冷たい風に震えております。

――谷極まれば闇となる。
――もっとも。
谷の住人というものは、
皆それぞれに、
絵空事を描いておるのでございます。
そして巡礼者もまた、
そのひとりなのでございます。
