
【谷の巡礼】㉒証文録 第6条「サブプライムローン譚――谷の没落録」
~大渓谷の没落録~
むかしむかし、
あるところに、
それはそれは、
深い闇に包まれる谷がありましたとさ。
その谷では、
人が消えてもなお、
証文だけは、
生き続けておりました。
谷を流れる銭は、
もはや、
田畑から生まれるものではなく、
誰かが未来に支払うはずだった、
“約束”そのものでありました。
~証文の山~
月賦相談所の若旦那は、
積み上がった証文の山を眺めながら、
満足げに笑っておりました。

~証文の宝箱~

やがて、
月賦相談所は、
その証文の札を束ね、
『決して壊れぬ安全な宝箱』として、
遠くの国々へ売り歩いたのでした。

「この箱を持っていれば、
働かずとも毎月、
谷の民から、
銭が転がり込んでくるのです」
若旦那の甘い言葉に誘われ、
海の向こうの異国の商人や、
大都の目の肥えた大旦那までもが、
我先にとその宝箱を買い求めました。
~谷の黄金の宴~
宝箱は飛ぶように売れ、
引き換えに、
谷は、
見たこともないほどの黄金で、
溢れかえったのです。
谷は、
熱狂に包まれ始めました。
昨日まで、
朝な夕な畑を耕していた者たちでさえ、
いつしか、
土から実る作物より、
明日さらに値上がる土地の話を、
誇らしげに語るようになっておりました。
「来年には、倍になるばい!」
「銭など、
未来の約束を切り売りすれば
いくらでも湧いてくるたい!」
人々は競うように、
身の丈に合わぬ豪奢な絹をまとい、
夜な夜な、
漆の杯で、
上等な清酒を酌み交わしました。

そんな谷の熱に絆され、
お上お墨付きの『証文』で、
身の丈に合わぬ御殿を建てる者も、
引きも切らずに現れました。
誰もが、
この黄金の宴が、
永遠に続くと、
信じて疑わなかったのです。

かくして、
実体のない『約束の紙切れ』は、
世界中の銭を動かす呪符となり、
谷の者たちは、
誰も彼もが、
明日にはさらに値が上がると、
疑いもしなくなっておりました。
――そう、
あの大地の歪みが、
この美しい谷のすべてを
狂わせてしまうまでは。
~谷の地割れ~
谷の大地が、
ごごご……と、
小さく軋んだのでございます。
最初は、
誰も気にも留めませんでした。
「谷の土地は、黄金ばい」
「この黄金が、泥になるはずがなか」
皆、そう笑っておりました。

~売地札の根元~
けれども。
谷のあちこちに刻まれた、
小さなひび割れは、
やがて、
まるで蜘蛛の巣が這うように、
地の底で、
静かに繋がっていったのです。

~宝箱の悲鳴~
そして、ある朝。
誰かが、こう叫びました。
「土地が売れん!」
その瞬間でございました。
昨日まで、
黄金と呼ばれていた谷の土地は、
瞬く間に、
誰も見向きもしない泥屑へと成り果て、
積み上げられていた『約束の宝箱』もまた、
音を立てて崩れ始めたのでございます。
~宝箱の終焉~
昨日まで、
『決して壊れぬ安全な宝箱』として、
世界中でもてはやされていた札束は、
ある日を境に、
誰も値を付けようとしなくなりました。
海の向こうの商人たちは、
宝箱を抱えたまま、
青ざめた顔で叫びました。
「この箱には、
いったい誰の約束が詰まっておるのだ!」

しかし、
誰にも分かりません。
なぜならその箱は、
あまりにも、
幾重にも証文を束ねすぎて、
もはや、
誰の約束で出来ているのかさえ、
分からなくなっていたからです。
商人たちは、
互いに、
銭を貸すことを恐れ始めました。
「あの者の持つ箱も、
腐っておるのではないか」
「この札も、
明日には、
紙屑になるのではないか」
そう疑い始めた瞬間から、
世界の血の巡りは、
冬の川のごとく、
ぴたりと、
凍りついてしまったのでございます。
~谷の夢の跡~
身の丈に合わぬ家を売り歩き、
『決して壊れぬ安全な宝箱』を
遠い国々へまで広めていた、
あの『月賦相談所』は――
ある朝、
いつの間にか、
固く戸を閉ざしておりました。

若旦那の姿は、
どこにも見当たりません。
ただ、
路地に散らばった証文ばかりが、
朽ちた提灯とともに、
誰にも顧みられず、
足元へ、
踏み捨てられておりました。
あの箱の中から現れたのは、
宝ではなく、
返されぬ『約束の山』でございました。
黄金の宴も久しからず、
ただ、谷の夜の夢のごとし。
約束の宝箱もつひには散りゆく、
ひとへに風の前の塵に同じ。

――されど、
谷の夢は尽きませんでした。
約束の宝箱が砕け散っても、
人々は学びません。
なぜなら、
夢はいつも
形を変えてやって来るからでございます。
