
【谷の巡礼】⑲証文録 第3条「残クレマイホーム譚」
~残価の家~
むかしむかし、
あるところに、
それはそれは、
深い闇に包まれる谷がありましたとさ。
その谷の緑豊かな丘には、
身の丈に合わぬ
御殿を建てた男がおりました。
しかし、
男は、
あれほどの御殿を構えながらも、
一銭の負い目も感じることなく、
毎夜、
漆の杯で、
上等な清酒を頂きながら、
笑って暮らしておりました。
なぜなら、
お上の役人が、
こう耳打ちしてくれたからでありました。
~役人の甘言~
お役人は、言いました。
「数十年後、
この家は、
お上が決めた価値で、
きちんと引き取りましょう」
「この御殿の価値は、
お上自らが定めたもの。
ゆえに、揺らぐことはありません」
「そなたは今、
わずかな月賦だけを、
月々納めてくださればよい」
「それだけで、
この御殿はあなたのものです」
そう言って、
鼻息も荒く、
役人が誇らしげに掲げたのは、
妙に立派な『残価ノ証文』だったのです。

~御殿の酔い~
格子戸を繰れば、
谷を吹き抜ける風が心地よく頬を撫で、
青畳の香る広間に、
家を支える見事な総檜の大黒柱。
そして何より、
この地で、
一番の格式を誇る
“お上お墨付き”の我が家。
男は、
同世代の友人たちが、
狭い長屋でちびちびと貯金をし、
泥だらけになって働いているのを横目に、
“お上お墨付き”の
我が家での暮らしを
謳歌しました。
「歳ばとったら、
お上がこの家ば、
“相応の価値”で買い取ってくれる」
「俺は、
その差額ば毎月払うだけで、
この玉座に座っておられるとたい」
「俺は、ばさらか幸運な男ばい」

〜お上の御神託〜
「おいおい、
そげな美味い話があるわけなかろうもん」
そういって、
忠告するものもおりました。
しかし、
男は聞く耳を持ちません。
「お上の言葉ば疑うとか」
「お上が保証した価値の、
揺らぐはずなかろうもん」
そう言って、
鼻の先で笑いました。

もちろん、
“お上お墨付き”の我が家を持つものは、
この男だけではありません。
「これからは“所有”じゃなか、
“賢い利用”の時代ばい」
「価値が“保証”されとるけん、
実質、損はないばい」
絆された村人は、
身の丈に合わぬ豪邸を、
我も我もと手に入れていきました。
――そう、
あの未曾有の流行り病が、
この美しい谷のすべてを
狂わせてしまうまでは。
~谷の流行り病~
ある年の冬のこと。
谷は、
流行り病で侵されました。
流行り病は、
人々の命だけでなく、
谷の活気をも
根こそぎ奪い去っていきました。
買い手も売り手も消え失せ、
かつて黄金の価値を誇った谷の土地は、
またたく間に誰も見向きもしない、
寂れた荒れ地へと
成り果ててしまったのです。

――そんな中、
あの男の“約束の時”が、
刻々と迫っておりました。
~残価の時~
約束の時が訪れ、
白髪の老人となった男の前へ、
あの役人が再び姿を現しました。
男は安堵して、
「さあ、
この家ば、
お上の決めた価値で引き取ってくれんね」
と微笑みます。
しかし、
役人は冷たい目で、
男を見下ろしました。
「引き取る? バカを言え」
「この家がある谷は、
いまや病で廃れ果てた土地。
今、この家に、
当時の価値など一文もありはしない」
「住み続けたくば、
残りの銭を、
今すぐ一括で払え。
さもなくば、
着の身着のままで
出ていってもらおう」
冷酷な役人の声が、
老いた男の耳の奥で、
かつて聞いた甘言と、
重なって響いておりました。
貯えなど、
日々の贅沢と月々の支払いで、
残っているはずもありません。
~黄昏の帰路~
男は、
荷車ひとつ引きながら、
かつて見下していた長屋の前を、
ただ黙って通り過ぎていきました。
長屋の者たちも、
何ひとつ、
言葉は掛けません。
ただ、
荷車の軋む音だけが、
黄昏の谷へ、
ぎい、ぎい、と、
響いておりました。

――豪奢な御殿も久しからず。
ただ黄昏の夢のごとし。
――やがて、
人生の帳が静かに下り始める頃。
若き日に建てた家だけが、
谷の夕陽を受けながら、
黙ってそこに残っておりました。
村人たちは、
その家に語りかけます。
「最後くらいは、
わしを助けてくれんね」
そして谷には、
また新しい証文が現れるのでございます。
次なる証文録。
