
【谷の巡礼】⑳証文録 第4条「リバースモーゲージ譚」
~抵当の家~
むかしむかし、
あるところに、
それはそれは、
深い闇に包まれる谷がありましたとさ。
その谷の緑豊かな丘には、
先祖代々の立派な御殿に住む、
一人の老人がおりました。
老人は、
蓄えこそ少なかったものの、
毎夜、
漆の杯で上等な清酒を頂きながら、
笑って暮らしておりました。
なぜなら、
お上の役人が、
こう耳打ちしてくれたからでありました。
~役人の甘言~
「あなたが亡くなった後、
この家はお上がもらい受けましょう」
「その代わりに、
今あるこの家の価値を、
毎月、
銭に換えてあなたに差し上げます」
「あなたは死ぬまで、
この御殿で
美味い酒を飲んでいればよいのです」
そう言って、
鼻息も荒く、
役人が、
誇らしげに掲げたのは、
妙に立派な『六拾の逆さ証文』だったのです。

~御殿の酔い~
それからの、
老人の暮らしぶりといえば、
実に見事なものでありました。
老人は、
屋敷の底から
こんこんと、
湧き出る銭を使って、
望む限りの
贅沢を尽くしました。
同世代の友人たちが、
老いた体に、
鞭打って畑を耕し、
泥にまみれて働いているのを横目に、
老人は、
ふかふかの青畳の上で、
あぐらをかいて、
笑っておりました。
「俺は、
死んだあとに、
家ばお上にやる代わりに、
生きとるうちに、
毎月小遣いば貰いよるとたい」
「死んでしまえば、
この大黒柱も瓦も、
あの世にゃ持っていけんけんね」
「生きとるうちに、
美味か酒ば、
浴びるほど飲んだほうが勝ちたい」
「俺は、ばさらか賢か男ばい」

~谷の囁き~
「おいおい、
あそこの爺さんは、
あげん立派な御殿に住んどきながら、
毎月お上から、
たんまり銭ば貰いよるげなばい」
近所の長屋の老人たちは、
羨ましそうに、
あるいは、
妬ましそうに噂し合いました。
老いた体に鞭打って腰を曲げ、
冷たい泥にまみれて
小作仕事に励む彼らにとって、
毎夜、
漆の杯を傾けて笑うその姿は、
苦労とは、
無縁の者のように見えたのです。
「どうせ死んだら、
家も蔵も持って行けん。
ならば生きとるうちに、
よか暮らしば楽しんだほうが、
賢かというもんたい」

〜お上の御神託〜
谷の老人たちのざわめきを、
あの役人は、
見逃しませんでした。
「ええ、その通りです」
「これからは所有ではなく、
賢い利用の時代ですからね」
「老後の心配なんて、
もう一切なさらなくていいんです。
お上がお勧めする『六拾の逆さ証文』に
判をひとつ押すだけで、
死ぬまで、
優雅な暮らしを謳歌できますよ」
役人は、
仕立ての良い着物の袂を揺らし、
すれ違う老人たちに、
爽やかに優しく、
話しかけたのでした。
「お上のお墨付きなら、
間違いのあろうはずがなか」
絆された谷の老人たちは、
我も我もと、
先祖代々の愛おしい我が家を
“担保”に差し出し、
仰々しい、
『逆さ証文』に
血判を押していきました。
――そう誰もが、
温かな繭の中でぬくぬくと、
終わりを迎えられると、
信じて疑わなかったのです。
~長寿の谷~
月日は流れていきました。
しかし、
ふと気づくと、
長年連れ添った大黒柱は細くなり、
床下からは、
冷たい、冷たい、
隙間風が、
吹き抜けるようになりました。
さらに、
雨の夜には、
屋根からぽたり、ぽたりと
雫が落ちるようになりました。
それは、
自分の命を、
屋敷の木材と交換しているような、
奇妙な心地がするのでした。
けれども、
老人は、
そんな不安を見て見ぬふり。
あの日交わした逆さ証文の通り、
毎月届く銭で、
上等な清酒をすすり、
ぬくぬくと
平穏な日々を
重ねておりました。
やがて――
谷では、
最初に『逆さ証文』へ
判を押した者たちは、
姿を消しておりました。
しかし、
ただ一つ、
お上の算段と
違ったことがありました。
老人の命の灯りは、
思いのほか長うございました。
髪が白くなり、
腰が曲がり、
お迎えの刻限を
とうに過ぎても、
細々と、
しかし確実に、
いつまでも、
生きながらえていたのです。
~担保済の家~
やがて屋敷は、
根元まで溶けてしまいました。
それでも、
老人の命の灯りは消えません。
そこへ、
あの役人が、
ふたたび姿を現しました。
役人はにこやかに、
あの日交わした証文を広げて見せ、
穏やかにこう告げたのです。
「おめでとうございます、
ずいぶんと長生きをされましたね」
「ですが、お代が尽きました。
この屋敷から絞り出せる価値は、
もうすべて、
使い果たしてしまったのですよ」
「もし、
このままこの屋敷に住み続けたければ、
これまでに我々がお貸しした銭を、
今すぐ一括で返してください。
そうしていただければ、
どうぞいつまででも、
ここに住んでいて構いませんよ」
老人は震える声で縋り付きました。
「な、なんば言いよるとね……? 」
「死ぬまでここに居てよかち言うたろうが。
今すぐ一括で払えち言われても、
俺にゃ、
そんな銭のあろうはずがなか……!」
役人は、
フッと
優雅に微笑んで、
首を振りました。
「ええ、
払えないのであれば仕方ありません。
では、規約通り、
この屋敷から、
出て行っていただきましょうか」

~黄昏の帰路~
安住の地を、
すべてあぶく銭に変えてしまった老人は、
黄昏の谷に、
一人放り出されるのでした。
屋敷の跡地には、
小さな札だけが立ちました。
『担保済』
かつて、
先祖代々の暮らしがあった場所とは、
もう誰にも分かりませんでしたとさ。
めでたし、めでたし。

盛者必衰の理もまた、
証文の内にありました。
されど、
人の欲の尽きぬこともまた、
世の習い。
ひとつの屋敷が消えた後も、
谷から、
証文が消えることはありませんでした。
むしろ人々は、
さらに大きな夢を求めたのでございます。
その果てに現れたのが――
『伍拾年之証文』
でありました。
