
【谷の巡礼】②揺れる谷 前編「ボラティリティの谷」
むかしむかし、
あるところに、
天気の変わりやすい谷がありましたとさ。
その谷では、
朝には春のような陽気だった空が、
昼には雪となり、
夜には嵐となることもあるのでした。
谷へ入ったばかりの旅人たちは、
その空模様に、
毎度毎度、振り回されました。
晴れれば心躍ります。
「この谷は、楽園だ!」

雪が降れば震えます。
「この谷は、もう終わりだ……」

嵐が来れば、
荷物を捨て、
泣きながら、
谷を
飛び出していく者さえおりました。

~囲炉裏端の巡礼者~
谷の古びた茶屋には、
何十年も谷を歩き続けた、
老いた巡礼者がおりました。
旅人は尋ねました。
「おじいさん。
こんなに揺れる谷に、
なぜ居続けられるのですか」

巡礼者は、
囲炉裏の火へ薪をくべながら、
静かに笑いました。
「この谷は、
昔からよく揺れる谷だ」
「晴れたり、嵐になったり。
昔から忙しい谷でな」
「けれども、不思議なことに。
谷そのものは、
少しずつ、少しずつ、
前へ進んでおる」
旅人は首を傾げました。
「でも、
毎日こんなに上下していたら、
怖くて歩けません」
すると巡礼者は、
茶碗の水を、
わざと揺らして見せました。
水面は、
ぐらぐらと揺れ、
今にも零れ落ちそうでした。
けれど。
しばらくすると、
水は静かに落ち着きました。
巡礼者は言いました。
「揺れとは。
谷が、生きている証なんだよ」
「誰も見向きもせぬ谷は、
もう風すら吹かん」
「皆が欲を抱き、
皆が恐れ、
右へ左へ走り回るからこそ、
谷は揺れる」
「――それを都の学者は、
“ボラティリティ”と呼ぶそうだ」
若い旅人は、
難しい言葉に
目を丸くしました。
巡礼者は、
湯気の立つ茶を
差し出しました。
「大事なのはな。
揺れぬことではない」
囲炉裏の火が、
ぱちり、と鳴りました。
「揺れるたび、
地図まで捨ててしまわぬこと」
外では、
また風が吹いておりました。
谷の木々は、
大きく揺れておりました。
けれどその根は、
見えぬ土の中で、
静かに、
深く、
地面を掴んでいたのでした。
――ボラティリティ。
欲と恐れのあいだで、
揺れ続ける、
人の心そのもの。

この谷を生き抜くための、
もう一つの物語へ――
