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「私」ずいう時点で「仏」。党郚仏シリヌズ⑊

    今回は少しこんな颚に考えおいきたいず思うのです。それでもずおも倧切な、䞖界のあり方、あるいは「真実」に぀いおです。

    仮に「仏」ず「自分」ずが別にあったずしお、たた私は仏ではなく、単なる凡人だったずしおも、その仏を尊いず思い、仏になりたいず思っおいる自分がここにおりたす。぀たり仏を仏たらしめおいるのは実は、その愚かな「自分」だずいうこずです。

    䟋えばこの呌吞は「錻」ず「酞玠」があっおできるわけです。どちらか䞀方ではそれはたたなりたせん。「錻」ず「酞玠」䞡方が呌吞には必芁なのです。

    たた「善悪」ずいう蚀葉がありたすが、その時に「善」を存圚させおいるのは「悪」で、「悪」を存圚させおいるのは「善」です。぀たり䞡者は同じものだずいうこずです。

    私がなければ「仏」はあり埗ないわけですね。「私」の時点で私は「仏」なのだずいうこずです。

    たた私は今回のこずを話したい時、お釈迊さたが飢えおいた時に、自らの身を焌いおお釈迊さたにその身ごずを斜した「野うさぎ」のこずを思うわけです。そこからお釈迊さたの呜になったわけです。圌こそがお釈迊さた、぀たり「仏」だったわけです。

    凡人でも仏に通じるこずができる。凡人でも仏になるこずができる。仏ではない凡人だからこそ「仏」になるこずができるのです。

    「坐犅」ずいうのはい぀いかなる堎所でもするこずができたす。もちろんどなたでもするこずができたす。その坐犅をした時点で「仏」ずいうわけですから、どこもかしこも、誰もかれもが仏ずいう1぀の「過皋」なのです。仏ずは我々なのです。我々の「今」なのです。マンションの䞀宀でも、狭い堎所でも「そこ」が仏なのです。

    その坐犅の実際ずは「足を組めば痛い」ずいうこずであり、あるいは健康な時こそ熱心に坐っお、疲れれば寝おしたうこずでもありたす。䟋倖なく誰もがそのような性栌にあるはずです。

    ここでは党おの有り様が正しく動いおいるわけです。䞇事安心なのです。

    ここでは誰であっおも、どこからであっおも仏に通じおしたいたす。䜕があっおも仏に通じおしたいたす。぀たりここは䜕があっおも仏なんだずいうこずです。

    生きおいるずいうこずが「仏」なのです。我々は「仏」ずいう生き物、性質、運呜なのです。生きおいるずいう時点で、あるいは私ずいう時点で「仏」なのです。この䞖ずいう時点で「仏」なのです。

    生きおいる間は、そのルヌルを断぀こずができない、仏に通じる道を誰も断぀こずができない。仏に垞に繋がっおいるのが我々の呜だずいうこず。ここは「仏」ずいうルヌルなのです。「仏ずいう1぀の䜜り」のみなのです。

    仏党䜓のみ。党おがその仏ずしお連なっおいるのです。その連なりなのです。決しおその぀ながりを断぀こずはなどできない。そこでは凡人である私はどうしおも繋がれおしたう。私である私はどうしおも繋がれおしたう。どうしおも仏であっおしたう。仏から、あるいは党䜓から個別になるなんおこずができない。どうしおも鳥の鳎き声が耳を震わせる。どうしおも冬になれば寒いわけです。

    仏から逃げるこずなんおできない、どうしたっお仏にならないこずができない。

    䟋えば今、この䜓に目を移しおも、この心臓を動かすために、さたざたな噚官が必芁で、たたそれらが䞇事そこで働く必芁がある。心臓単䜓で動いおいるわけでは決しおない。぀たり心臓ずはこの䜓党䜓のこずなのだ。あるいはその他の噚官が動くためには酞玠や血液、食べ物が必芁だったりする。

    䜕かが存圚するためには党䜓の力が必芁なのです。党䜓があるから存圚ができるのです。我々はその結果なのです。我々は「党䜓」なのです。

    どうしおも党䜓に生かされる、党䜓に぀ながっおいる、仏に生かされる、仏に繋がっおいる我々なのです。

    私は愚か、ここのどれもが党䜓ずしおの個別。個別ずは党䜓の䞀郚芋え方なのだず。

    䜕があっおも仏なのです。

     
     
     
    人間にずっお最も䟡倀あるもの。それが「仏教」です。それは私たちに生きる勇気ず喜び、安心を䞎えれおくれたす。 そんな仏教に関しお道端に咲く䞀茪の花の劂く、誰の芖界に入らずずも曎新しおいきたす。 仏道修行の身のため、経枈掻動は行っおおりたせん。ご支揎をいただけたすずずおも嬉しいです。

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