
ケトルの水を、満たす夫。
夫は、寝る前に、明日着る服を枕元に置いて寝る。
最初に見たとき、僕は驚いた。
枕元に服。
まるで明日の自分への供え物である。
Tシャツ、ズボン、靴下。きれいに重ねられている。
朝になったら、それを上から順番に身につければいい。人生の段取りが、布になって可視化されている。
すごい。
僕の場合、明日の朝の自分は、だいたい放置である。
「まあ、なんとかするでしょう」と思って寝る。
なんとかしない。
朝の僕は、昨日の僕が思っているより、はるかに弱い。眠いし、寒いし、不機嫌で、できれば社会に出たくない。靴下を探すだけで、すでに一仕事である。
もしかすると、夫は、未来の自分をあまり信用していないのかもしれない。
信用していないからこそ、先に助けておく。
これは、かなり高度な優しさである。セルフ介護だ。
夫は、週末になるとタイムスケジュールを必ず組む。
朝食。
掃除。
散歩。
ギリシャ語の勉強。
昼食。
ラテン語の勉強。
買い物。
読書。
修道院かと思う。
週末とは、もっとだらしなく溶けるものではないのか。ソファでスマホを見ていたら昼になり、昼ごはんを食べたら眠くなり、気づけば夕方で、急に人生を反省しながら洗濯機を回す。そういう、ぬるい沼みたいな時間ではないのか。
しかし夫の週末には、ギリシャ語がある。ラテン語もある。
古い。
そもそも言語のラインナップが、古すぎる。
こちとら、英語の公共料金メールを読むだけで、脳が一度閉店するというのに、夫は土曜日の午後に古代へ行く。
そういえば、夫は平日の夜には、三十分、日本語も勉強する。
仕事が終わって、ごはんを食べて、猫を撫でて、そして日本語学習ノートを開く。
「は」と「が」。
「行く」と「来る」。
「大丈夫」と言いながら、ぜんぜん大丈夫じゃない日本人。
日本語、普通に性格が悪い。
それでも夫は、毎日少しずつやる。
僕なら三日目くらいで、「言語とは何か」みたいな方向に逃げる。そして、勉強しない理由を、思想っぽく飾る。
夫は飾らない。ただ、やる。
この「ただ、やる」が、僕には本当に難しい。
夫は、ケトルの水を使ったら、必ず満タンにして戻す。
これも地味にすごい。
お湯を沸かそうと思うと、いつもすでに、水が満タンで入っている。
当たり前のようだが、当たり前ではない。少なくとも、僕にとっては当たり前ではない。
僕はケトルの水を使い切ったあと、空のまま戻してしまう。悪気はない。ただ、次に使う人の存在が、その瞬間だけ世界から消えている。
ひどい。かなりひどい。
一方、夫は、水を入れて戻す。
未来のために、ケトルを満たしておく。
大きな愛の言葉より、満タンのケトル。
いや、愛の言葉もほしいけど。
それはそれとして。
夫は、買い物リストも共有してくる。
クラウドである。
牛乳。
卵。
猫のウェットフード。
トイレットペーパー。
洗剤。
ある日、僕のスマホに、静かに「キッチンペーパー」が現れる。
生活がクラウド化されている。
逃げ場がない。
一方、僕はスーパーで「なんか必要なものあった気がする」と思いながら歩き、だいたい必要ではないものを買って帰るタイプである。
必要なものは忘れる。
いらないものは買う。
そして家に帰って、キッチンペーパーがないことに気づく。
夫は、その未来を知っている。
だから先に書く。
僕という人間のうっかりを、システムで包囲してくる。
ありがたい。
ありがたいのだが、たまに自分が、家庭内の小規模な業務改善の対象になっている気もする。
夫は、旅行の前になると、旅のしおりを作る。
旅のしおり。
大人になってから、まさかその言葉と再会するとは思わなかった。
しかも、かなり本格的である。
飛行機の時間。
午前・午後のプラン。
ホテルの住所。
レストラン候補。
移動手段。
予約番号。
緊急連絡先。
修学旅行である。
あとは表紙に「楽しいギリシャ旅行」と丸文字で書けば完成する。右下に謎のイルカとか描けば、完全に中学生の林間学校である。
僕は旅行前、だいたい「まあ、行けばなんとかなる」と思っている。
ならない。
空港で焦る。
駅で迷う。
ホテルの住所を探す。
充電が切れそうになって、泣きそうになる。
その横で夫は、旅のしおりを開く。
勝てない。
人は、旅先でこそ本性が出るという。
僕の本性は、Wi-Fiを探す人である。
夫の本性は、旅のしおりを開く人である。
夫は、図書館に行くと、たまに落ち込む。
本棚を見て、「自分はまだ何も知らない」と嘆く。
僕は図書館に行くと、だいたい「静かでいいな」と思う。
そして、読んでいない本の近くにいるだけで、なんとなく賢くなった気になる。
図書館浴である。
知性の森林浴。
しかし夫は、本棚を見て、自分の無知を思い出す。
世界の広さに、ちゃんとへこむ。
知らないことを、知らないと感じられる。
これは、すごいことだと思う。
僕はすぐに自分を守る。
まあ全部読む必要はないし。
人には向き不向きがあるし。
知識だけが人生じゃないし。
言い訳だけは、すぐに全集になる。
夫は、へこむ。
へこんで、また勉強する。
僕は、そういうところをかなり尊敬している。
かなり尊敬しているのだが。
夫はたまに、トイレを流し忘れる。
これがいい。
いや、よくはない。
よくはないのだが、いい。
寝る前に服を置き、週末に古代語を学び、毎晩日本語を勉強し、ケトルの水を満たし、愛猫に毎朝やさしく「おはよう」と言い、旅行のしおりを作り、買い物リストを共有し、図書館で自分の無知にへこむ。
そんな人が、トイレを流し忘れる。
彼も歴とした人間である。
そこに少し救われる。
完璧すぎる人と暮らすのは、たぶん少し息が詰まる。
でも、ケトルの水を満たす人が、たまにトイレを流し忘れる。
そのくらいが、ちょうどいい。
いや、流してはほしい。
そこは、普通に流してほしい。
夜、寝室に行くと、夫の枕元には、もう明日の服が置いてあった。
Tシャツ。
ズボン。
靴下。
きちんと重ねられている。
その横で、僕の枕元には、スマホと、読みかけの本と、なぜか片方だけの靴下がある。
差がすごい。
夫は、未来の自分に服を用意して眠る。
僕は、未来の自分に謎を残して眠る。
それでも朝になると、ケトルには水が入っている。
愛猫は「おはよう」と言われている。
買い物リストには、いつの間にか牛乳が追加されている。
そして僕は、片方の靴下を探しながら、少しだけ思う。
この人の誠実さに、僕のだらしなさは、毎日ちょっとずつ助けられている。
たぶん愛情というのは、もっと大げさな言葉で語られることが多い。
運命とか。
理解者とか。
唯一無二とか。
でも我が家においては、それはたいてい、満タンのケトルの形をしている。
あるいは、枕元に畳まれた明日の服の形か。
そして、たまに流されていないトイレの形でもある。
いや。
それは、愛情ではない。
ただの流し忘れである。いい加減トイレの流し忘れはどうにかしていただきたい。