
桑田とMattより、似てる。
うちの旦那(イギリス人)は、言葉が大好きな人だ。
英語は母国語なのでもちろん、日本語、イタリア語、フランス語、それからラテン語にギリシャ語まで、ぺらぺらとは言わないまでも、まあまあな顔して話す。僕なんて、日本語と、片言の英語と、酔ったときの長崎弁くらいしか持ち合わせていない。
頭の中に言語を何個も並べられる人というのは、大きめの図書館ばりに、いろんな言葉の本棚みたいなのが脳の中にギチギチに詰まっているんだろうなと思う。
そんな彼と一緒に暮らし早八年くらい、家での会話は、なんやかんや九割九分、日本語だ。
国際結婚と聞くと、英語混じりのお洒落な食卓を想像する人もいるかもしれないが、現実のうちの食卓では「醤油とって」「あー、それ昨日の残りね」「ねー、お味噌汁は右に置いてってば」みたいな、しょうもない日本語で埋まっている。
ただこれが、本当に、助かっている。
外国の人と暮らすというのは、想像以上に、ぜんぶが翻訳作業になる。疲れて帰ってきて、言いたいことを一回頭の中で英語に組み立て直して、相手の顔色を見て、伝わらなかったらもう一回言い換えて。そういう、ささやかだけど終わらない作業が、毎日、延々と続く。
それが、家に帰れば日本語でいい。これは、靴を脱いでいい、と言われているのに、近い。
ただ、だ。
「言葉が通じる」と「話が通じる」は、似ているようで、まるで違うのである。
僕がずっと、彼に対して感心していることの一つが、彼が日本語の単語を知っていることじゃない。彼が、日本語の「おかしみ」を、わかることの方だ。
言葉というのは、辞書に載っている意味だけでできているわけじゃない。
その裏に、笑っていい場所と、笑っちゃいけない場所があって、どこで力を抜いて、どこで間を置くか、みたいな、目に見えない地図がある。その地図は、単語帳には載っていない。たいてい、その国で長いこと暮らして、しょうもないテレビをだらだら観たり、暑いね寒いねみたいな、なんら生産性のない会話などを他者と交えて、やっと、なんとなく、体に入る。
日本語は特に母国語でない人からしたらその地図が難解な気がする。
たとえば彼が使っていた日本語教科書には、
「I will go to the park.」の言い方で
「私は公園に行きます。」とあった。
「私は公園に行きます。」
なんて全部をちゃんという日本人なんているのだろうか?
大抵は、どこにいくの?に対して
「公園ー」である。
こんな具合に、正しい日本語と使う日本語っていうのは結構な乖離が各所にあるものだ。
だからこそ、彼が、その難解な地図を僕が思っている以上に読み解く時、僕は不意打ちみたいに驚かされる。
この間も、そうだった。
二人で、『コンフィデンスマン』の映画を観ていた。
詐欺師を演じる長澤まさみが、資産家を騙すために、にわか仕立ての親子を演じる、という場面があった。
どう見ても似ていない二人が、無理やり親子のふりをする。
別の詐欺師がそれに対して「似てねぇよ」と突っ込むのだが、長澤まさみが、こう返す。
「いや、桑田とMattよりは似ている。」
僕は、ふっと笑った。日本で育った人間なら、説明されなくても、あの親子の顔が、勝手に頭に浮かぶ。そういう種類の冗談だ。
問題は、隣だった。
隣で、旦那が、爆笑していた。
僕が笑ったのと、ほとんど同じ間で、同じツボで、腹を抱えて笑っていたのだ。
これには、ちょっと、感動してしまった。だって、この手の冗談は、いちばん説明したら冷めるやつだ。
「桑田さんという有名な野球選手がいてね、その息子のMattが、お父さんと全然似てないったらないんだから。」
なんて説明しようもんなら、笑いは、煮こごりみたいに固まって、二度と動かない。
なのに彼は、説明なんて一文字もいらないところで、勝手に、ちゃんと、笑った。あの一行の裏にある、日本人が共有しているニヤニヤを、彼はひとりで全部、受け取っていた。
そして、これだけじゃない。
この間なんて、二人でクレヨンしんちゃんを観ていた。
(うちの旦那は、しんちゃんも、ちびまる子ちゃんも、あたしンチもわりと履修済みである。というか、させた。)
ネネちゃんという女の子が、友達から名前を呼び捨てにされて、こう怒る場面があった。
「私を“ネネ”って呼んでいいのは、パパとママと豊臣秀吉だけよ!」
豊臣秀吉の正室の名前が、寧々(ネネ)、なのである。
子供向けアニメの、女の子のなにげない一言に、
(そもそも子供もわからんやろ、このジョークは。)
こんな歴史のいたずらをこっそり仕込んでいる日本アニメも、大概だと思うが、それを、地球の反対側の別の島国出身の男が、字幕もない、リアルタイムで拾って、げらげら笑っているのは、もっと、大概だ。
桑田とMattは、まあ、芸能人を知っていれば、わかる。
でも、ネネと秀吉は、アニメと、歴史の、二つを同時に握っていないと、笑えない。
彼は、その二つを、ちゃんと握っていた。
言葉や単語を覚えられる人は、たくさんいる。
でも、その言葉や単語の、笑っていい場所まで覚えられる人は、そんなに多くはない。
思うのだが、人と本当に一緒にいるって、たぶん、こういうことなのだ。
挨拶ができるとか、買い物ができるとか、道を聞けるとか、そういう「平熱の言葉」が通じるのは、まあ、勉強すれば、わりと誰でもたどり着く。
難しいのは、感情が、平熱を超えたときだ。
腹を抱えて笑うとき。本気でムカついて喧嘩するとき。たまらなく悲しい時。
理屈じゃなくて、感情が沸点を超えてしまった、その瞬間に、相手と同じ言葉の、同じ温度の上に、ちゃんと一緒に立てるかどうか。
笑いのツボが、ちゃんと同じ場所にあること。
怒るとき、同じ国の作法でちゃんと怒れること。
悲しい時、同じ文化の立ち位置で寄り添ってくれること。
それはもう、言語が通じる、というより、生きてきた地面が、どこかで地続きになっている、ということだ。育った国も、話してきた言葉も、触れてきた文化も、まるきり違うはずなのに、彼とは、その地面が、ちゃんと繋がっているんだなと感動したネネちゃん案件だった。
これは、なかなか、得難いことだと思う。
と、ここまで、しみじみ書いておいて、最近、ひとつ、まずいなこりゃってことに気づいた。
このあいだ、AIに何かを質問していたときのことだ。
「お手数ですが」とか「教えていただけますか」とか、僕は、やけに、丁寧にお願いをしていた。
そして、その同じ口で、隣の旦那には「ねぇ、それとって」「いや、ちがう、そっちだってば。」と、絵に描いたような、雑な言葉を投げていた。
世界中の言葉を操る、あの言語オタクの彼に、である。
AIには丁寧語で、最愛の人にはまあお下品な言葉。
これは、いかがなものか。
今日くらいは、醤油を、「お手数ですが、お醤油、とっていただけませんでしょうか」と、頼んでみようかと思う。
たぶん、めちゃくちゃ気持ち悪がられるけれど。