
はい、解散。
先日、危ないところだった。
仕事関係の集まりで、二十代前半の子と話していたときのことだ。その子が「電話、こわいんですよね。かける前に台本作っちゃいます」と言った。
その瞬間、僕の喉の奥から、あるフレーズが、するすると出かかった。
「Z世代だね。」
出る直前で、飲み込んだ。ごくり、と音がした気がする。危なかった。本当に、危なかった。あと〇・五秒、飲み込むのが遅れていたら、僕は、あの言葉を、言う側の人間になっていた。
あの言葉、である。
僕らが、さんざん、言われてきた、あれ。
「ゆとりだね。」
思い出してほしい。いや、同世代は、思い出したくもないだろうが、思い出してほしい。
僕らは、ゆとり世代である。
社会に出た瞬間から、額に、見えないシールを貼られていた。「ゆとり」と書かれたシールだ。剥がそうとしても、剥がれない。何かあるたびに、上の世代が、そのシールを、指さしてきた。
敬語を間違えれば「ゆとりだから」。
飲み会を断れば「ゆとりだから」。
定時で帰れば「ゆとりだから」。
逆に頑張っても「ゆとりのわりに、やるじゃん」。
やるじゃん、じゃないのよ。
こっちは個人として頑張ったのに、手柄は「ゆとりのわりに」に吸収される。失敗は世代のせい、成功は世代のわりに。どっちに転んでも、僕個人は、いない。
しかも、である。ゆとり教育を、僕らは、頼んでいない。
土曜日を休みにしたのは、僕らではない。円周率を「およそ3」にしようとしたのも、僕らではない。大人たちが勝手に制度を作って、その制度で育てられて、育った結果を「これだから」と、制度を作った側の世代に言われる。
作ったの、そっちなんですけど。
あれは、レシピを考えた人が、できあがった料理に、いや、やばいでしょこの料理って、文句を言っている、世にも珍しい光景であった。
あの頃、僕は、心に誓っていたはずなのだ。
自分が上の世代になっても、絶対に、下の世代を、世代でくくらない。
「これだから最近の若いやつは」を、言う大人にだけは絶対なるまい。
固く、誓った。
誓ったはずなのに、である。
三十を過ぎたある日、後輩の話を聞いていて、喉の奥から
「Z世代だね。」が、するすると、出かかった。
誓いから、わずか十数年。
人間の誓いの賞味期限は、ヨーグルトと、そんなに変わらないのかもしれない。
しかも、たちが悪いことに、言いかけた瞬間の僕は、ちょっと、気持ちよかったのだ。
これが、こわい。
「これだから〇〇は」という言葉には、麻薬的な効能がある。まず、考えなくていい。目の前の相手を、個人として理解する手間が、世代という大きな袋に放り込むだけで、省略できる。まことに楽である。
そして、言った瞬間、自分が、上に立てる。
「最近の若いやつは」と言うとき、人は自動的に「わかっている側」「ちゃんとしている側」に、着席できる。しかも椅子代は、無料である。相手を袋に入れるだけで、こちらには玉座がついてくる。
あの言葉を僕らに浴びせてきた先輩たちも、たぶん、悪人だったわけではない。ただ、無料の玉座に、座っていただけなのだ。
そして今、僕の前にも、同じ玉座が、そっと、差し出されている。
「どうぞ、あなたの番です」と。
世代批判は、順番待ちの、椅子取りゲームだったのである。
だいたい、冷静に考えてほしい。
「電話がこわいから台本を作る」。
僕も、作っている。
三十三歳、ゆとり世代。
いまだに、電話の前に、部屋を一周して、言うことを、頭でリハーサルしている。国際電話なんて、リハーサル二回である。
つまり、僕がZ世代に言いかけた文句は、僕自身の生態と、完全に一致していた。
危うく、鏡に向かって、説教するところだった。
しかも、僕らが「ゆとりは」と言われた内容も、思い返せば、だいたい、いつの時代の若者にも当てはまることばかりだった。
敬語が怪しい。打たれ弱い。すぐ辞める。
全部、新人という生き物の、普遍的な仕様である。平安時代の日記にも「最近の若い者は」と書いてあるらしい。
千年、人類は、同じ文句を、順送りにしている。
若者の中身は、どの時代もたいして変わっていないのだろう。
変わるのは、文句のラベルだけだ。
新人類、ゆとり、さとり、Z。ラベルの在庫だけが、豊富である。
というわけで、僕は、あの日の自分に、新しいルールを課した。
「Z世代は」と言いかけたら、まず、主語を、自分に、差し替えてみる。
「Z世代は、電話がこわい」→「僕も、電話がこわい」。
成立する。
はい、解散。
「Z世代は、すぐ検索する」→「僕も、すぐ検索する」。
なんなら昨日、「みょうが 切り方」を検索した。三十三年、生きてきて、である。
はい、解散。
「Z世代は、打たれ弱い」→「僕も、打たれ弱い」。
自分の作品に辛口コメントが一件つくと、半日、引きずる男である。
はい、解散、解散。
今のところ、差し替えて成立しなかった文句が、一個もない。
つまり僕は、Z世代に言いたいことなど、何もなかったのだ。あったのは、無料の玉座に座りたい気持ちだけだった。
とはいえ、この誓いも、賞味期限つきである。
十数年後、僕は四十を超えて、次の世代、アルファ世代とかに向かって、また何か、言いかけるのだろう。喉の奥から、するすると。
そのときのために、この文章を、ここに書いて残しておく。
言いかけたら思い出せ。お前も、部屋を一周してから電話をかけていた男だぞ、と。
……と、ここまで書いて、読み返して、気づいた。
この文章、ぜんぶ、上の世代への文句である。
「これだから、昭和の先輩たちは」。
主語を差し替えてこなかったのは、僕のほうだった。
玉座は、無料どころではない。気づいたら、座っていた。
しかも、書き終わる直前まで、座り心地に、気づいてすらいなかった。
立つ。立たねば。
はい、今、立ちました。