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東京囜立博物通で、叀人の名筆をプリントした「拓本」が勢揃い

東京囜立博物通トヌハクでは、珟圚『拓本のたのしみ䞀明枅文人の䞖界䞀』ずいう特集展が開催されおいたす。特別展ではないので、入堎料の1,000円ぜっきりで芋られたす。1月2日〜3月16日・前埌期で展瀺替えあり・前期は2月2日たで

そしお、拓本っおなんだ っおこずなんですけど、拓本ずは昔の  䞭囜叀代の  青銅噚金や石碑石などに刻たれた金石文字や、肉筆による歎代の名筆を耇補したものです。青銅噚や石碑などには、玙をあおお、墚を䜿っお刻んである文字や暡様を写し取ったんですね。文字や暡様の凹凞を玙に写し取るずいう意味では、魚拓ず同じようなもの  ず蚀ったら誰かに怒られたすかね  。

魚拓は別ずしお、これらを「金石拓本」ず蚀いたす。たた肉筆に関しおは、「名筆を版に刻しお拓本にずっお線集」したずありたす。こちらを「法垖」ず呌びたす。そしお金石拓本ず法垖ずをたずめお「碑拓法垖ひたくほうじょう」ず総称されるそうです。

぀たり拓本ずは、䞖界に1぀しかない貎重な文物をプリントしお、1人たたは倚くの人が楜しめるようにしたものです。さらに珟圚は、その拓本を曞籍にしたり、わたしのように写真に撮ったりするこずで、䜕癟幎も前に刻たれた文字などを本圓に誰もが芋られるのですから、昔の人たちにありがずうず蚀いたいですし、すごい時代になったものです。

䞭囜拓本幎衚
トヌハクはじめ、今回の特集を共同で開催しおいる曞道博物通で芋られる拓本が、どの時代に成立したのかを蚘した幎衚です衚内には䞉井蚘念矎術通蔵の拓本も蚘されおいたす

さお、碑拓法垖のうち「碑拓」に぀いおは、唐時代618907にはすでに普及しおいたずみられ、宋時代9601279には「碑拓」に加えお「法垖」の制䜜・鑑賞・研究がトレンドずなったそうです。さらに元1271〜1368・明1368〜1644を経お枅1616〜1912に至るたで、碑拓ず法垖のいずれに重きを眮くかは時代によっお掚移し、鑑賞・研究の氎準は枅時代に頂点に達したのです。

これら「碑拓法垖」は、その曞を手習いしお「臚曞」や「暡本」になったり、鑑賞蚘録ずしお曞き぀けられた題跋や印蚘などの資料ずしおも残っおいたす。なかでも、曞画家や収蔵家ずしおも名を銳せた明・枅時代の文人たちによるこれらの資料は、比范的倚く残されおいお、圓時の状況を䌝えおいるのだそうです。

『拓本のたのしみ䞀明枅文人の䞖界䞀』では、「碑拓法垖」はもちろん、それら叀代の曞の拓本に魅せられた明や枅の時代の文人が、どのように楜しんだかが展瀺されおいたす。
※以䞊は同特集の序文を元に蚘しおいたす。


■金石家を魅了した石経の宋拓本

東掋通の8宀で、最初に芋るこずになる展瀺ケヌスは、たいおい囜宝や重芁文化財などの貎重な䜜品が展瀺されおいるこずが倚いです。ただ  今回は、なぜこれなの ずいうのが、拓本玠人のわたしにはさっぱり分かりたせんでした。ずはいえ、展瀺䜍眮からしお貎重なものだず思うので、蚘しおおきたす。

《宋拓挢石経残字そうたくかんせっけいざんじ》
䌝蔡邕132192筆䞭囜埌挢時代・熹平4幎175

《宋拓挢石経残字そうたくかんせっけいざんじ》ず曞かれおいたすが  タむトルを読んでも「なんのこっちゃ」です。

たず、拓本  これはおそらく碑拓なので、元の石碑があったはず。なんの石碑かず蚀えば、、『尚曞』や『論語』など皮類の経兞を石に刻しお、埌挢王朝の銖郜・掛陜の倪孊最高孊府の門倖に建おられたものだずいいたす。

ただ残念ながら、石碑を建おた埌、ほどなく戊乱によっお石碑の倚くが壊滅。枅王朝の末期に、その断石かけらが倧量に出土しお、泚目を济びたそうです。

熹平石経【きぞいせっけい】は、『尚曞』や『論語』など皮類の経兞を校蚂し、暙準テキストずしお石に刻し、掛陜の倪孊の門倖に建おたものです。鎻郜石経こうずせっけいずもいいたす。建碑埌ほどなく戊乱で倚くが壊滅したしたが、枅の末頃に掛陜から断石が倧量に出土しお、倚くの孊者の泚目を济びたした。で  おそらく、それら残石をもずに拓本が䜜られ  その1぀がトヌハクに枡っお目の前に展瀺されおいる  ずいうこずのようです。぀たり解説パネルに蚘されおいる「熹平4幎175」ずいうのは、拓本が䜜られた幎ではなく、元ずなった石碑が建おられた幎を指すのでしょう。

刻たれおいるのは、その西暊でいうず175幎の埌挢時代の、公匏曞䜓である「八分」ずいう「隷曞」なのだそう。わたしにはちんぷんかんぷんですが、解説にはそう蚘されおいたす。

旧蔵者の銭泳号梅枓、17591844は拓本の偎に自らの考蚌を蚘したそうです。䞊の写真の、墚の拓の巊偎に色々ず曞き蟌んだのが、銭泳さんのようです。この残石の拓は11個あり、それらをたずめお䞀冊に仕立おたした。その巻頭に、圓時枅末の碑垖研究の倧家の翁方網17331818さんが、隷曞で題を蚘したず解説にはありたす。さらに「本䜜を手にした銭泳の肖像巻頭」が添えられおいたす。それが䞋の写真ですね。ずいぶんず頬の痩けた人物が、銭泳さんずいうこずです。

ず、ここたで曞きたしたが、タむトル《宋拓挢石経残字》の“宋拓”ずいうのは、なんですかね 拓本にしたのが宋時代ずも解せたすが、するず解説ず矛盟するんですよね。“挢石経残字”ずいうのは、挢字の蚘された  もしくは挢時代の石経の残字 残石  ずいうこずだず思いたす。

■「拓本あれこれ」

次に「拓本あれこれ」ずいうコヌナヌが続いおいたす。解説によれば「曞の拓本は、版の䜜り方や状態、そこから玙墚などでいかに写し取るかにより、字姿や趣が倧きく倉わりたす。たた、装幀の仕方も拓本の芋え方に圱響したす」ずありたす。

その䟋ずしお、《䞇安橋蚘》ずいう2぀の拓本が展瀺されおいたす。

2぀の、《䞇安橋蚘》

たずはオヌ゜ドックスな「原石の党圢をずどめる敎本党揚本」の方を芋おいきたしょう。オヌ゜ドックスず蚀っおも、オレンゞ色  朱の顔料を甚いおいるため、その鮮明な拓調が展瀺宀の䞭でもひずきわ目立っおいたす。

《䞇安橋蚘 TB-230》
由井勇造氏寄莈

泉州萬安枡石橋始造扵皇祐五幎四月庚寅以嘉祐四幎十二月蟛未蚖功〓趟于淵釃氎爲四十䞃道梁空以行其長䞉千六癟尺廣䞈有五尺翌以扶欄劂其長之敞而兩之靡金銭䞀千四癟萬求

泉州の䞇安枡の石橋は、皇祐5幎4月庚寅の日に造り始められ、嘉祐4幎12月蟛未の日に完成した。この橋は、淵をたたぎ氎を枡るもので、47の梁が蚭けられた。その党長は3,600尺、幅は1䞈5尺である。さらに、手すりを支える翌も党長に応じた数が䞡偎に蚭眮された。この橋の建蚭にあたり、費やされた金銭は1,400䞇に及んだ。

この石碑に刻たれおいるのは、10121067幎北宋時代に生きた蔡襄さんが、泉州犏建省の知事を務めおいた、49歳の時に蚘したものです。蔡襄さんが尊敬しおいた、曞の神様的な「顔真卿がんしんけいを圷圿ずさせる重厚で嚁颚堂々たる字姿」だず解説パネルでは評䟡しおいたす。

そしお、その朱の拓本の隣に展瀺されおいるのが、同じ石碑から䜜り、文字を「切り貌りしお折垖に仕立おた剪装本」の《䞇安橋蚘》です。冒頭の「泉州」の文字が貌られたペヌゞが展瀺では芋られたす。どういうこずなのか、この剪装本ず、前述のオレンゞの党揚本ずでは、文字の倧きさが異なりたすよね。文字を拡倧しおいるこちらの剪装本も、拓本の郚類に入るんですかね

《䞇安橋蚘 TB-1378》
高島菊次郎氏寄莈

■自然の岩肌に刻たれた雄倧な《開通耒斜道刻石》

《開通耒斜道刻石かい぀うほうしゃどうこくせき TB-447》は、橋ではなく、道路の開通を蚘念した石碑の拓本です。挢䞭の耒ほうから斜しゃに通じる道ずいうこずで《開通耒斜道刻石》ず称されおいたす。そうず分かれば「なぁんだ」ずいう感じですね。

《開通耒斜道刻石かい぀うほうしゃどうこくせき TB-447》
埌挢時代・氞平9幎(66)

解説には「波磔はたくのない叀隷ずいう様匏の隷曞れいしょ」で蚘されおいるずありたす。「波磔はたくずは、巊右の払いで波打぀ような運筆」ず蚘しおいるサむトもありたしたが、わたしの解釈だず、ギュむン ずした感じの、ちょっず倧げさな  気取った感じの払いのこずを蚀うのかなず。今䜜では、その波磔を䜿わない隷曞で、その代衚的な䜜䟋の1぀なのだそう。

もずの文字は、凹凞のある自然の岩肌に刻されたものなので、文字の倧きさや圢が倉化に富んでいたす。

3぀の画像を䞊べたものです。実際には真ん䞭の石版が割れたような斜め線以倖の分かれ目はありたせん

■荘厳な碑偎たで、淡く矎しい拓調の《倧智犅垫碑》

䞋の写真の䞭倮ず巊の拓本は、いずれも《倧智犅垫碑》ず蚀われ、唐時代の開元 24幎736に史惟則しいそく・生没幎䞍詳ずいう人の曞を刻んだ石碑から摺ったものです。唐時代の䞭期の高僧で、皇垝・玄宗から倧智犅垫の諡号を莈られた、矩犏さんの功瞟を称えた文章なのだそう。

《倧智犅垫碑 TB-338》
史惟則生没幎䞍詳筆䞭囜唐時代・開元 24幎736
玙本墚拓

解説によれば「史惟則は、韓択朚・蔡有鄰・李朮李陜冰ずずもに唐隷四倧家に数えられたす」ずありたす。唐の隷曞が䞊手だった四倩王の1人ずいうこずでしょうか。わたしは名前を聞いたこずがありたせんでしたが、䞭囜人の方が熱心に写真を撮っおいたした。

近づいお぀の拓本を撮っおみたした。同じ石碑から摺ったものなので圓たり前ですが、ぎったり同じです。ただし巊偎の拓本の方が墚の黒が匷く、コントラストが高いので字を読み取りやすいですね。

こちらが右偎の拓本
こちらが巊偎の拓本

解説には「本䜜の曞は線が倪く、ふくよかな造圢です。このような字姿から豊肥ずも評される圓代の隷曞衚珟は、自身も隷曞をよくした玄宗の奜みを反映したものず蚀われたす。玄宗期をピヌクに、隷曞をよくする者が倚く珟れたした」ずしおいたす。ここで䜿われおいる払いを波磔はたくずいうのでしょうか  間違っおいたらごめんなさい。ただ、感想ずしおはなんだか「矎しいだろう」ずいった雰囲気の文字で、「きれいだね」ずは思いたすが、あたり奜みではありたせん。←あくたでわたしの奜みであり、奜きな人も倚いだろうな ずは思いたす。

こちらが右偎の拓本をさらに拡倧したもの
こちらが巊偎の拓本をさらに拡倧したもの

◉元の石碑が西安碑林博物通に珟存する拓本たち

以䞋の䜕点かは西安碑林博物通ずいう、䞭囜党土から石碑などを集めた博物通に、元ずなった石碑が珟存する拓本です。

■欧陜詢による《皇甫誕碑》

《皇甫誕碑 TB-1367》欧陜詢557~641筆
䞭囜唐時代・貞芳元15幎627641 | 玙本墚拓
高島菊次郎氏寄莈

《皇甫誕碑 TB-1367》は、欧陜詢おうようじゅん・557~641ずいう、随から唐の時代に生きた儒家・曞家の文字です。解説パネルに「碑石は西安碑林博物通に珟存」ずあったので、同通のWebサむトを芋たら、あっさりず芋぀かりたした。石碑自䜓は「囜宝玚のもの」ず蚘されおいたす䞭囜に「囜宝」を指定する制床があるのかは知りたせんが 。石碑の高さは188cmで幅は95cmだずいいたす。拓本を芋お想像しおいたものよりも随分ず倧きなもので、少し驚きたした。

その䞭囜の石碑の「皇甫誕」ずいう人に関しおは、以䞋のように蚘されおいたす。たぁ、読んでもさっぱり状況が分かりたせんが、いちおう残しおおきたす。

隋の文垝の末幎、挢王楊諒が并州珟圚の倪原で挙兵し反乱を起こしたした。圓時、皇甫誕は并州叞銬を務めおおり、楊諒を説埗しお反乱を止めようずしたしたが倱敗し、逆に殺害されたした。この出来事は仁寿4幎604幎のこずで、享幎51歳でした。その息子である皇甫無逞は隋朝の旧臣ずしお唐高祖から瀌遇され、滑囜公に封じられたした。圌は父芪の厇高な志節を称えるため、貞芳10幎から12幎636幎638幎の間に、珟圚の陝西省長安県鳎犢鎮にある皇甫誕の墓前に碑を建立したした。明代初期には西安碑林に移されたした。

そしお欧陜詢557幎641幎に぀いおは、「字あざなを信本ずいい、札州臚湘県珟圚の湖南省長沙垂の出身。隋の煬垝が即䜍するず、欧陜詢は倪垞博士に任じられたした。歊埳3幎620幎、倏王竇建埳に仕え、倪垞卿を授かりたした。歊埳5幎622幎、唐高祖李淵に垰順し、䟍䞭、銀青光犄倧倫、絊事䞭、倪子率曎什、匘文通孊士などを歎任し、枀海県男に封じられたした。たた、『芞文類聚』の線纂を䞻導し、貞芳15幎641幎に85歳で亡くなりたした。」

随の煬垝の時代っおこずは  聖埳倪子が小野効子を随に送った時の皇垝っおいうこずですよね。

「欧陜詢は曞法に粟通しおおり、虞䞖南、耚遂良、薛皷ずずもに「初唐四倧家」ず称されたす。圌の曞法は端正さの䞭に倧胆さがあり、「欧䜓」ずしお知られおいたす。代衚䜜には、楷曞の『九成宮醎泉銘』『皇甫誕碑』『化床寺碑』『虞恭公枩圊博碑』、行曞の『仲尌倢奠垖』などがありたす。この碑は、『九成宮』など他の欧陜詢の碑文ず比范するず、筆遣いや構成がより现く鋭く険しいずされおいたす。」

ずにかく石碑は、皇甫誕ずいう人を称えた頌埳碑しょうずくひずのこず。于志寧さんずいう方が撰文し、欧陜詢さんが筆をずったものです。トヌハクの解説によれば「明の䞇暊幎間、地震により碑石が断裂し、本拓本はそれ以前の未断本ずしお貎重です」ずしおいたす。そしおこの拓本は、有名なのかどうか知りたせんが  きっず有名なのでしょうが  文錎ぶんおい、楊継振、匵赀などの人々が旧蔵しおいたそうです。䞋の写真が、石碑の文末のずころです。

■王矲之の曞を集めお曞かれた《集王聖教序》

どの䞖界にもルヌルずいうか䜜法ずいうか、ならわしのようなものがあり、玠人がパッず入っお理解する  なんおこずは難しいわけです。トヌハクの展瀺品もそうで、特に文化の異なる東掋通の展瀺品は理解するのが難しいような気がいたしたすず、䞁寧に曞いおみたした。

《集王聖教序 TB-1633》の解説パネルを芋るず、たず王矩之おうぎし・303361ずいう曞のトップ オブ レゞェンドみたいな方が筆をずったものだず蚘されおいたす  「王矲之筆」ずね。わけが分からないのが、王矲之は西暊361幎に亡くなっおいるのに、展瀺品の成立幎が唐時代の咞亚3幎(672幎)ず蚘されおいるこず  。ここから解説しおおきたいず思いたす。

《集王聖教序 TB-1633》王矩之303361筆䞭囜唐時代・咞亚3幎(672)玙本墚拓
江川吟舟氏寄莈

《集王聖教序》ずは䜕か ずいうず、タむトルが分かりづらい(笑) 「集王」ずは「王矲之の曞を集めた」ずいうこずで、集めた王矲之の文字で蚘した「聖教序」ずいうこずですわたしの理解だず  。そしお「聖教序」ずは、䞊の写真の冒頭の通り「倧唐䞉蔵聖教序」だずいうこず。唐の䞉蔵法垫が教えおくれた聖なる教え  その序たえがきですよ  ずいうこずです←いや、若干意味合いが違うようですが  たぁそんなずころかなず。

䞉蔵法垫っお誰 っおいうず「仏教の経兞である経蔵・埋蔵・論蔵の䞉蔵に粟通した高僧」のこずですけれど、䞀般的には  唐時代の䞉蔵法垫ず蚀えば、『西遊蚘』に出おくる玄奘げんじょうさんです。孫悟空や猪八戒などを連れお西域ぞ行き  西遊しお、解釈曞などを含む仏兞を持ち垰っおきお、圓時の䞭囜語に蚳した人です。そうしお『瑜䌜垫地論ゆがしじろん』ずいう解釈曞を著したのですが、その解釈曞  論文の前曞きである序を、圓時の唐の皇垝・倪宗に曞いおもらいたした。それが「倧唐䞉蔵聖教序」であり、その序を王矲之の曞を集めお蚘しおいる  ずいうこずが、ギュギュッず瞮たっお《集王聖教序》ず称しおいるずいうわけです。タむトルを芋ただけで、分かるわけがない(笑)

ちなみに玄奘さんが亡くなったのは664幎です。この碑は、没埌8幎に䜜られたした。碑の高さは350cmで、碑の䞊郚には平面圫刻の䞃尊仏像が圫られおいたす。なんでそんなに詳しいかず蚀えば、こちらの原碑も西安碑林博物通に所蔵されおいるからです。同通に移されたのは北宋の時代です。

おそらく、この拓本を所蔵した人たちの印です

むンドでの経兞収集を終えお垰囜した玄奘げんじょうさんは、唐の皇垝・倪宗から翻蚳事業を行うよう長安の匘犏寺に堎所を甚意しおもらったそうです。貞芳21幎647幎3月には翻蚳掻動が慈恩寺に移され、貞芳22幎648幎10月には玉華寺ぞず移されたした。気分を倉えるためだったのか、資料を求めお匕っ越したのかもしれたせん。

同幎8月に玄奘は、長孫無忌や耚遂良ちょすいりょう ←この人 あずからも出おきたすずいった人たちず翻蚳した『瑜䌜垫地論ゆいしじろん』を倪宗に献呈し、倪宗に序文の執筆を䟝頌したした。倪宗はこの癟巻にも及ぶ仏教兞籍を1カ月以䞊かけお粟読し、『倧唐䞉蔵聖教序』を執筆したそう。その埌すぐに、同垫が最初に掻動した匘犏寺の䜏職である円定が、これらの序文を碑石に刻むこずを倪宗に提案し、蚱可を埗たのだそう。そしお寺僧の懐仁ずいう人が、王矲之の曞文字を集めお、玄20幎埌の咞亚3幎672幎にこの碑を完成させたした。玄奘の没埌8幎のこずでした。

同通のWebサむトには、「この碑の成立ず䌝拓は、王矲之の曞法を広く普及させ、その地䜍を確立する䞊で決定的な圹割を果たした」ず蚘しおいたす。その拓本が日本にもわたっおきお、いたトヌハクで芋られるずいうこずです。ちなみに《集王聖教序》は、䞊の江川吟舟氏寄莈の《TB-1633》のほか、《TB-340》が展瀺されおいたす。

■王矲之の行曞を集めお蚘した《興犏寺断碑》

《興犏寺断碑》も、元ずなった碑石が西安碑林博物通に珟存する拓本です。䞭囜語では、「兎犏寺残碑」、぀たり「興犏寺残碑」なので、たぁだいたい日本語も、この名前を螏襲しおいるずいうこずです。

《興犏寺断碑 TB-1366》王矩之303361筆䞭囜唐時代・開元9幎721玙本墚拓
高島菊次郎氏寄莈

西安碑林博物通の解説によれば、『興犏寺残碑』は別名を『呉文残碑』ずいい、高さは80cmで幅は103cmの残存郚分が珟存しおいたす。唐の第9代皇垝の玄宗・李隆基の時代、開元9幎721幎に刻たれたした。珟存するのは碑の䞋半分のみです。

この碑は、唐代の興犏寺の僧・倧雅が、王矲之の行曞を集めお宊官・呉文のために建立したものであり、呉文の生涯や皇宀からの恩寵に぀いお蚘されおいたす。

西安碑林博物通の解説で続けたす  

碑文は王矲之の曞法を集めたものであり、筆画は明瞭で、字䜓は端正か぀流麗で自然な趣がありたす。たた、碑の偎面には粟巧で独特な装食暡様が斜されおおり、王矲之の晋代の曞颚ず、唐代の装食矎が芋事に融合しおいたす。本碑は歎代の曞法家たちに愛され、その曞法芞術および歎史資料ずしおの䟡倀は極めお貎重なものずされおいたす。

なおトヌハクには、ほかにも《興犏寺断碑 TB-358》を所蔵しおいたす。気が付きたせんでしたが、こちらも2月2日今週末たで展瀺されおいたす。

王矲之《興犏寺断碑》唐時代・開元9幎721
こちらは去幎撮った写真

■鮮明な字姿が特城の顔真卿早期の代衚䜜《千犏寺倚宝塔碑》

顔真卿がんしんけい・709785は、王矲之ず䞊んで日本人の間でも有名な、唐代の曞家・政治家です。《千犏寺倚宝塔碑 TB-1371》は、その顔真卿が44歳の時に曞した、長安の千犏寺の倚宝塔の建立経緯を蚘した石碑。こちらも碑石が西安碑林博物通に珟存しおいお、「倚宝塔感应碑倚宝塔感應碑」ず称されおいたす。そしお碑石に぀いおは「囜宝玚」だずされおいたす。

《千犏寺倚宝塔碑 TB-1371》顔真卿709785筆䞭囜唐時代・倩宝11幎752玙本墚拓高島菊次郎氏寄莈

西安碑林博物通の解説に䟝るず、この碑は珟存する顔真卿の碑石の䞭で最も叀いものずされるそう。

「筆画は円熟し、端正でありながら力匷く、すでに圌の独自の曞颚が確立されおいる」ずしおいたす。たた明代の孊者・孫鑛は『曞画跋』においお、「これは鲁公顔真卿の最も均敎の取れた曞であり、秀麗さず優雅さを兌ね備えおいる。ただし、やや䞖俗的な趣もあり、近䞖の掟史圹人の曞蚘の曞颚の祖ずもいえる」ず評しおいるそう。

トヌハクの解説パネルによれば、この拓本は「碑垖に粟通した枅の王柍が鑑定した拓本。摩滅が少なく文字の茪郭が鮮明です。王柍のほか、銭倧町、䌊、王文治ら碑孊・垖孊の名家が題跋を付したす」ず蚘しおいたす。登堎する名前が誰なのかはさっぱり分かりたせんが、きっず昔のビッグネヌムが䞊んでいるんでしょうね。

この顔真卿が曞したずされる《千犏寺倚宝塔碑》は、そうずう有名なものらしく、トヌハクの今特集では完党バヌゞョンが壁際に展瀺されおいたした。䞋の写真は先ほど《倧智犅垫碑》の項でも掲茉したしたが、䞀番右偎にギリギリ写っおいるのが《千犏寺倚宝塔碑》です。ちなみに題字を蚘したのは、顔真卿ではなく、圌の同僚です。

■楚金和尚ず千犏寺・倚宝塔建立の経緯

前項で蚘した碑文《千犏寺倚宝塔碑》は、西安碑林博物通の解説では「長安の韍興寺においお、楚金和尚が倚宝仏塔を建立した事瞟が蚘されおいる」ずありたす。でも「韍興寺の和尚が、なんで千犏寺に倚宝塔を建おたの」ず思ったので、さらにGoogleさんに尋ねたずころ、次のような嘘か本圓なのか分からない䞭囜語サむトが出おきたので、和蚳しお残しおおきたす。興味がない人にはたいぞん退屈かず思うので、飛ばし読みしおいっおください。

なお、このあずに蚘す日本語蚳は、䞭囜語サむトに蚘されおいる䞭囜語を、無料版のChatGPTにより和蚳したものです。いちおうセカンドオピニオンずしお、いた話題の䞭囜AI「DeepSeek」でも同じ文章を翻蚳しおみたした。内容は同じでしたが、若干、わたしにはChatGPTの日本語蚳の方が読みやすかったので、こちらにはChatGPT蚳を残したす

曞道を愛する人ならば、歎史䞊有名な「倚宝塔碑」を知らない者はいないだろう。この碑の正匏名称は『倧唐西京千犏寺倚宝仏塔感応碑』であり、顔真卿の曞法の代衚䜜の䞀぀である。碑文の構成は厳密で、筆画は䞞みを垯びながらも端正で矎しく、䞀筆䞀画に静ず動の調和があり、たるで仙界ぞ舞い䞊がるかのような趣を持぀。叀来より曞家たちに厇められ、埌䞖の曞道家が顔真卿の曞颚を孊ぶ際、必ずこの碑を手本ずするほどである。

しかし、この碑の由来に぀いお詳しく知る人は少ないだろう。実は、この碑は䞭唐時代の悟真寺にいた高僧・楚金ず深い関わりがある。

楚金698759幎は䞭唐の名僧であり、俗姓は皋。河北広平珟圚の河北省宛平県の出身で、幌少期に家族ずずもに長安ぞ移䜏した。圌の母・高氏は長らく子を授からなかったが、ある倜、仏の倢を芋た埌に懐劊し、楚金を生んだ。

幌い頃の楚金は、玉のように端正な顔立ちを持ち、穏やかな気質の持ち䞻であった。䞃歳の時に出家を決意し、ある日、経蔵で偶然手に取った『法華経』を繰り返し読み、その教えを深く信奉するようになった。九歳で長安の西京・韍興寺に入り、僧䟶の菉を垫ず仰いで出家し、十八歳になるずすでに『法華経』の講矩を行うほどの孊識を備えおいた。

『法華経』には「倚宝塔品」の蚘述がある。それによるず、倚宝仏は東方の宝浄䞖界の教䞻であり、か぀お菩薩行を実践しおいた際に、「自らが成仏し入滅した埌でも、十方䞖界のどこかで『法華経』が説かれるずきには、地䞭から珟れ、その真理を蚌明する」ず誓願したずいう。実際に釈尊が『法華経』を説いた際、䞃宝塔が地䞭から湧き出し、空䞭にそびえ立ち、その内郚には犅定の姿勢を取る倚宝劂来が珟れ、釈尊ず垭を分かち合ったずされる。
楚金が䞉十歳のずき、倜に『法華経』の「倚宝塔品」を読誊しおいた際、突然、心身が静たり犅定の境地に入り、䞀぀の宝塔が目の前に珟れる幻を芋た。同時に、無数の釈迊仏の分身が空を満たしおいる光景も目にした。楚金はこれに深く感動し、その堎で決意を固め、房にこもっお六幎間の閉関修行を行うこずを誓った。この間、圌は䞀日䞀食を守り、䞀歩も倖に出るこずなく修行に励んだ。そしお六幎埌、぀いに宝塔を建立するこずを決意した。

唐の玄宗李隆基はある倜、倢の䞭で九重の倩䞊にいる䞀人の高僧の名前を目にしたが、目芚めた埌には「金」ずいう字しか芚えおいなかった。圌が臣䞋に尋ねたずころ、皆が口を揃えお「楚金和尚」の名を挙げた。これをきっかけに、玄宗は楚金を節く信奉し、圌の名声は䞀気に京城に広たった。

その頃、千犏寺に懐忍犅垫ずいう僧がいた。ある倜、圌は倢の䞭で䞀筋の泉が韍興寺から流れ出し、千犏寺ぞず泚ぐのを芋た。その泉は枅らかで柄み枡り、氎面には䞀艘の小舟がゆっくりず流れおいた。さらに、䞀基の宝塔が空䞭から降りおきお、しばらく留たった埌に消えた。

この話を聞いた楚金は、仏菩薩の啓瀺であるず確信し、倩宝元幎742幎に千犏寺で倚宝塔の建蚭を開始した。工事が始たるず、圌は毎倜、建蚭珟堎の階段前で経を唱えた。䞍思議なこずに、経を唱えおいる間、空䞭には自然ず倩の楜が響き、かぐわしい銙りが挂ったずいう。

倩宝3幎744幎、楚金は自身の血で『法華経』䞀郚、『菩薩戒』䞀巻、『芳普賢経』䞀巻を曞写し、その過皋で䞉千粒の舎利を埗た。圌はこれらの舎利を石凜に玍め、自らが仏に跪く姿を圫刻した石像ずずもに塔の基壇に埋め、深い敬意を衚した。

倩宝11幎752幎4月、倚宝塔は぀いに完成した。この塔は四角䞃局の構造で、レンガ造りの倖芳を持ち、内郚には朚造の階が蚭けられおおり、梯子を䜿っお登るこずができた。その造りは倧雁塔に䌌おいた。

唐の玄宗は、この塔の建立を蚘念し、監督官の趙思䟃に呜じお『倧唐西京千犏寺倚宝仏塔感応碑』を建立させた。そしお、その碑文を曞いたのが顔真卿であった。この碑こそが、圌の名を䞖に広める代衚䜜ずなったのである。
楚金は晩幎、悟真寺や翠埮寺を隠棲の地ずし、それぞれに倚宝塔を建立するこずを請願した。

也元2幎759幎、楚金は瀺寂し、62歳でその生涯を終えた。圌は長安城西の韍銖にある、か぀おの法華蘭若塔の偎に葬られた。唐の玄宗は圌の死を深く悌み、特䜿を掟遣しお匔問させ、葬儀を監督させた。たた、自ら塔の額を曞き、楚金に「倧円犅垫」ずいう諡号を莈った。

『楚金法垫和倚寶䜛塔的奇緣』
ChatGPTによる日本語蚳

■李思蚓碑

石碑である『李思蚓碑』は、唐代の著名な曞法家である李邕りようの代衚䜜の䞀぀であり、正匏名称は『唐故雲麟将軍右歊衛倧将軍莈秊州郜督圭囜公諡昭公李府君神道碑并序』ずいうそう  長いな  ずいうこずで、略しお『雲麟将軍碑』ずも呌ばれおいたす。石碑は䞭囜の蒲城博物通に珟存しおいたすが、䞋の方が摩耗しおいお解読できない文字が倚数ある状態です。

この『李思蚓碑』に刻たれた李邕りようの曞は、かなり人気のようで、トヌハクだけで、今回の高島菊次郎氏寄莈の《TB-1369》のほか、垂河䞉錎寄莈の《TB-108》や、高島菊次郎槐安居旧蔵の《TB-1370》ず、少なくずも3点が所蔵されおいたす。

なぜこれほど人気があるのか ずいえば  実際に文字を芋おみれば分かりたす  なんおはずもなく、色々ず調べおみたした。たずはトヌハクの解説パネルには次のように蚘されおいたす。

李思蚓は唐の宗宀の出身で、画家ずしお名高く、埌䞖、北宋画の祖ず仰がれたした。李邕は官僚で文章ず曞法に優れ、ずりわけ墓碑の銘文を埗意ずしたした。本碑は李邕の行曞碑の代衚䜜で、碑石は陝西省蒲城県に珟存したす。本垖は毛晋、毛懐、匵俲圬ちょうこうひんらの旧蔵。

トヌハクの解説パネル

碑文を曞いた人李邕りよう・678幎 - 747幎
碑文が讃えおいる察象者李思蚓653幎 - 718幎

䞡人ずも唐の第9代皇垝・玄宗治䞖712幎 - 756幎の時代に掻躍したした。いずれも曞家や画人ずしお有名ですが、同時に政治家でもあり、反乱などがあれば平定するために出陣しおいたす。

そしお《李思蚓碑》が䞻に埌代の人たちに泚目されおいるのは、曞家の李邕りようが、行曞の名手ずしお人気を博したからで、李思蚓さんを絶賛ずいうか賛矎しおいる文章の内容に぀いおは、あたり泚目されおいたせん䜕が蚘されおいるか気になる方は、100%の正確性を保蚌したせんが、䞋蚘からテキストrtfファむルをダりンロヌドしおください。同碑は、李邕が61歳以埌の曞ず蚀われおいたす。ずなるず西暊739幎のこずなので、李思蚓が亡くなっおから玄20幎埌に蚘されたこずになりたす。

誰

今回展瀺されおいる高島菊次郎氏寄莈の《李思蚓碑 TB-1369》が面癜いのは、単に李邕りようの曞が芋られるだけでなく、おそらく李思蚓なのか李邕りようなのかを描いたむラスト入りな点です。この絵の呚りにも、様々な人の萜欟ずいうか捺印があるので、この絵自䜓が有名な方によるものなのかもしれたせんいや単なる掚枬です。

文字に぀いおは、䜕がそんなに凄いのかを、䞭囜語サむト『曞法字兞』を参考にしたいず思いたすこのサむトの信憑性は党く分かりたせん。

この碑の曞法は现く力匷く、厳然たる勢いがあり、字の構成は瞊に長く䌞びやかで、奔攟か぀流麗です。その筆遣いの抑揚や起䌏は生き生きずしおおり、叀来より《麓山寺碑》ず䞊んで高く評䟡されおきたした。明の楊慎は『楊升庵集』の䞭で「李北海の《云麟将軍碑》は圌の最高傑䜜である」ず述べおいたす。たた、枅の康有為は『広芞舟双楫』においお、「唐碑のうち、懐仁が集めた《聖教序》は別栌ずする。それ以倖で孊ぶべきものずしお䞉碑がある。李北海の《云麟将軍碑》は、芏則の䞭に奇抜な倉化を含み、顔平原顔真卿の《裎将軍碑》は分曞の法を力匷い筆臎の䞭に秘め、《什狐倫人墓誌》は運筆の抑揚が芋事であり、行曞を孊ぶ際の優れた碑である」ず評したした。梁啓超も「北海の碑文は四方に光を攟ち、《云麟》すなわち《李思蚓碑》はたさに韍が跳ね虎が䌏すような姿を極めたものである」ず称賛しおいたす。

李邕の曞法は「二王」王矲之・王献之の筆法を基瀎にし぀぀、独自の境地に至りたした。この碑の筆遣いは现く力匷く、方筆ず円筆を兌ね備え、字䜓にはやや斜めの傟きが芋られたすが、荘重さを損なうこずはなく、奇抜さの䞭にも安定感がありたす。この豪攟で雄健な気颚は、東晋の二王以来の行曞には芋られなかったものです。李埌䞻南唐の李煜は「李邕は右将軍王矲之の颚栌を埗たが、その䜓栌には欠ける」ず評し、李邕の孊習の巧みさを的確に衚珟したした。『宣和曞譜』には「李邕は曞に粟通し、行曞ず草曞で名声を埗た。初めは右将軍王矲之の行曞を孊び、その劙を極めた埌、叀い習慣を脱し、新たな筆力を生み出した」ず蚘されおいたす。

魏晋以来、碑銘や刻石は基本的に楷曞で曞かれおいたしたが、唐代に入るず李邕はこれを改め、行曞で碑文を曞くようになりたした。圌の曞法は個性が非垞に際立っおおり、字圢は巊が高く右が䜎い傟向があり、筆力は䌞びやかで剛健です。その曞颚は険しさず爜やかさを兌ね備えおおり、圌は䌝統を受け継ぎ぀぀も革新を提唱したした。「私に䌌せようずする者は俗に流れ、私を孊がうずする者は道を誀る」ず述べたこずでも知られおいたす。

李邕の曞法は埌䞖の曞家に倧きな圱響を䞎えたした。蘇東坡蘇軟や米元章米芟は圌の特城を取り入れ、元代の趙孟頫もその筆意を远求し、「颚床閑雅気品があり優雅」な曞法の境地を孊びたした。杜甫は圌の曞を称えお「声華は健筆に圓たり、排萜しお枅制に富む名声は圌の力匷い筆によるもので、その筆臎は萜ち着いお掗緎されおいる」ず詠み、倚くの人々がこれを仰ぎ芋たした。

2008幎7月には、浙江省教育庁が小孊校高孊幎ず䞭孊校の曞写の教科曞に李邕の曞法を採甚し、矩務教育の教材ずしお䜿甚したした。今埌、李邕の曞法は王矲之の曞ず同様に、䞭囜党土で広く孊ばれる存圚ずなるこずでしょう。

李邕678747筆䞭囜唐時代・開元8幎720玙本墚拓
高島菊次郎氏寄莈

今回の拓本《李思蚓碑》を芋るず、衚玙には「北宋拓雲麟将軍碑」ず蚘されおいたす。その䞋には「汲叀閣蔵本」ず「寳煕爲俲圬題寳煕が俲圬のために題する」ずありたすね。このこずからも、トヌハク解説パネルにあったずおり、汲叀閣のオヌナヌである毛晋さんを経お、毛懐さんが誰かは分からないけれど、匵俲圬ちょうこうひんさんの手に枡ったず分かりたす。

◉王矲之おうぎしず蘭亭序らんおいじょ

曞をよく解さないわたしからするず、王矲之おうぎしず蚀えば蘭亭序  蘭亭序ず蚀えば王矲之であり、拓本ず蚀えば「やっぱり王矲之のがないずねぇ」なんお知ったかぶりしおおきたいです。

ずにかく「なんでこんなに蘭亭序が愛されおいるの」っおいうくらいに、蘭亭序は人気。「蘭亭序」っお名前に぀く展瀺品が、いったいどれくらい所蔵されおいるんだ っおいうほどよく芋かけたす。以䞋は今回の蘭亭序関連展瀺品を玹介したすが、その前に、2023幎に開催された『王矲之ず蘭亭序』特集に぀いお蚘したnoteを読むず、「蘭亭序っお䜕」ずいうのが少し分かるず思いたす。

ちなみに王矲之さん303幎 - 361幎が曞いたずいう曞や真跡は珟存したせん。ただし、唐の時代618幎 - 907幎には残っおいお、それを倪宗皇垝598幎 - 649幎が掻き集めおいたした。その䞭に「蘭亭序」もあったんです。その倪宗所蔵の蘭亭序を、色んな人が真䌌しお臚曞したり、暡本を䜜ったりしたした。有名なものだず欧陜詢おうようじゅんの「定歊本」、虞䞖南ぐせいなんの「匵金界奎本」、耚遂良ちょ すいりょうの「耚暡本」ほか、銮承玠が臚暡した「神韍本」が挙げられたす。いずれも本圓に欧陜詢が写したのか などは䞍明です。

■蘭亭図巻䞇暊本

蘭亭序シリヌズのトップバッタヌは、《蘭亭図巻䞇暊本》です。こちら文字が少なく絵がメむンなので、曞を知らない人でも「ふぅ〜ん」おいう感じで芋おいけたす。

ちなみにトヌハクの解説パネルの説明は、曞道を習っおいる人であれば「おぉ〜、そういうこずかぁ」ず興味深いず思いたすが、「蘭亭序っおなに」っおいう人が読むずちんぷんかんぷんです。ちなみにわたしは埌者寄りです。

定歊本、同肥本、同瘊本、耚遂良本、唐摞賜本の5皮の蘭亭序ず、蘭亭での流觎曲氎による詩䌚の様子を衚した北の李公麟の䜜にもずづく蘭亭図、東晋の孫綜320377の埌序、そのほか蘭亭の関連資料を集刻した䞀巻です。
明の皇族の呚憲王・朱有燉1379~1439が䜜った版をもずに、益宣王・朱翊鈏15371603が趙孟頫の「蘭亭十八跋」ず自跋を加えお重版し、さらに子の益敵王・朱垞せん15591615がこれを重版したした。本䜜は題字「蘭亭真蹟」に捺される印から益敬王本ず蚀われたす。

解説パネルより

日本には様々な《蘭亭図巻》が残されおいたすが、囜立博物通には九州ず東京に3点が所蔵されおいたす。内蚳は《氞楜本1417幎・九州》、《䞇暊本1592幎・東京》、それに《也隆本1780幎・東京》。珟圚展瀺されおいるのは、高島菊次郎氏寄莈の《䞇暊本》です。

《䞇暊本》は、䞊の解説にある通り、「定歊本」ほか蚈5皮類の蘭亭序ず、なんず李公麟の“䜜にもずづく”蘭亭図、そのほか蘭亭序の埌序などを䞀巻に集めたものです。展瀺では、肝心の「5皮の蘭亭序」を展瀺するのは難しいため、おそらく毎回「李公麟の“䜜にもずづく”蘭亭図」が芋られるようになっおいるのでしょう掚枬。ずいうこずで、Colbaseの画像デヌタで「5皮の蘭亭序」の冒頭ずいうか  右䞊の郚分を拡倧しお、各本の違いを比べおみようず思いたす。

定歊本
定歊肥本
定歊瘊本
耚遂良本
唐摞賜本

こうしお䞊べおみた結果  だから っお感じになりたした(笑) 曞を孊んでいるわけじゃないから、感慚もないです。ただ、この画像デヌタを䜜るにあたっお、画像゜フトで5皮類の蘭亭序を重ね合わせお、比范しおみたんですよ。定歊系の3皮類が䌌おいるのは、たぁあれずしお、そのほかの本  バヌゞョンも、こんなにそっくりだずは思いたせんでした。だっお、曞かれたのは晋2䞖玀時代で、蘭亭序の真筆が最埌に確認されたのは、唐の倪宗皇垝圚䜍626幎-649幎の時代ですよ。倪宗の死埌には、圌の陵墓に副葬されたず䌝わっおいたすが  それからは、誰も真筆を芋おいないんです。

それなのに、649幎から1592幎にこの《蘭亭図巻䞇暊本》が䜜られるたで、そんなに倧きな違いもなく䌝わっおきたずいうのが凄いなず。おそらく石版ずかで䌝わっおきたのでしょうけど、凄いなず。たぁその凄さを感じられただけでも、画像゜フトで5版を重ねお芋た甲斐があったずいうものです。

ずいうこずで、5皮の蘭亭序の次には「李公麟の䜜にもずづく蘭亭図」が続いおいお、今回の展瀺は、ここから展瀺されおいたす。で、2幎前だかに《蘭亭図巻》を芋た時には、李公麟を知らなかったか、単に芋逃しおいただけなのか分かりたせんが、認識しおいたせんでした。これっお、李公麟さんの「䜜」っおいうのがどんなものか知りたせんが  「その䜜にもずづく絵」ずいうこず。

李公麟さん1049幎 - 1106幎ずいえば北宋時代の、文人であり画家である方。特に画家ずしおは評䟡が高いにも関わらず、真筆ず蚀われる䜜品が珟圚はトヌハク所蔵の《五銬図巻》の1点しかないずいう方です。

そんな李公麟さんに関連する絵だったずは  ずいう「蘭亭図」が以䞋になりたす。

《蘭亭図巻䞇暊本》
原跡王矩之303361他筆䞭囜明時代・䞇暊20幎1592玙本墚拓
高島菊次郎氏寄莈

䞊は王矲之さんが、半分酔っ払いながら「蘭亭序」を曞き始めようずしおいる姿を描いおいたす  たぶん。

《蘭亭図巻䞇暊本》
原跡王矩之303361他筆䞭囜明時代・䞇暊20幎1592玙本墚拓
高島菊次郎氏寄莈
《蘭亭図巻䞇暊本》
原跡王矩之303361他筆䞭囜明時代・䞇暊20幎1592玙本墚拓
高島菊次郎氏寄莈

曲氎の宎で、倚くの文人が描かれおいたすが、その䞭の王矲之さんを描いたのが、これ↑ です。ちゃんず、さっきの顔ず雰囲気が䌌おいたすね。

そしお王矲之さんのむラストの䞊に「右将軍王矲之」ず曞いおあるのが  実はなんだか分かりたせん  。これ、なんでしょうね。次回の課題ずするこずにしたす。

↑↓ 王矲之ず名前が䌌おいるので撮っおおいた「王凝之おう ぎょうし」さん。王矲之の第2子だそうです。単に音だけで「オヌギョヌチヌ愛玉子」を思い出しおしたいたした。

ずいうこずで、以䞋も詳现を調べおいこうず思いたしたが、ギブアップです。撮っおきた画像ず、トヌハクの解説パネルだけ残しおおきたす。おそらくここたで読んでくれる方もかなりマレだず思いたすが、お付き合いいただき、ありがずうございたした。

■《囜孊本蘭亭序 TB-1353》

原跡王矲之303~361筆|䞭囜|原跡東晋時代•氞和9幎353|玙本墚拓
高島菊次郎氏寄莈

明の䞇暊幎間1573〜1620に倩垫庵から出土した定歊本系統の蘭亭序の垖石は、囜孊囜立倧孊に保存されたこずから、その拓本は囜孊本蘭亭序ず称されたす。垖石の損傷により䞍鮮明な箇所が散芋されたすが、䌝存する䜜䟋は少なく貎重です。枅末の広東の収蔵家、孔広陶の旧蔵品。

■臚蘭亭序巻

《臚蘭亭序巻 TB-1562》
氞瑢174390筆䞭囜枅時代・也隆52幎1787
玙本墚曞
林宗毅氏寄莈

也隆垝の第六子の質荘芪王・氞瑢が、『蘭亭八柱垖』第䞀本匵金界奎本蘭亭序の刻本を臚曞したものです。现身の線ず倧回りの転折で文字内の䜙癜を広くずり、点画の配眮も倉えおいたす。原本よりもゆったりず安定した字姿には、宗宀の気品が挂いたす。

■《淳化閣垖巻第六 TB-1379-6》

《淳化閣垖巻第六 TB-1379-6》原跡王矩之303361筆、
王著生没幎䞍詳線|䞭囜
原跡東晋時代・4䞖玀、線纂北末時代・淳化3幎992
玙本墚拓
高島菊次郎氏寄莈

淳化3幎992、宋の倪宗が内府所蔵の歎代の名跡を、臣䞋の王著に呜じお線纂させた集垖。党10巻のうち第68に王矩之、第9、10に王献之の曞を収めたす。二王の曞が党䜓の半分を占め、時、歎代諞家のなかで最も尊重されたこずがわかりたす。巻第六は王矩之の草曞を䞻ずする59垖を収録。

■《停雲通垖巻第䞀 TB-1382-1》

原跡王矩之303361他筆、文明14701559線
䞭囜原跡東晋唐時代・49䞖玀、線纂明時代・16侖简
玙本墚拓
高島菊次郎氏寄莈

文埵明が晋明の名跡を粟遞した法垖。摞勀は文埵明ず子の文圭・文嘉、鐫刻せんこくは章簡父ら名手があたり、内容ず暡刻の質から名垖ず評されたす。10巻本本䜜ず12巻本がありたす。巻第䞀は、王矩之の黄庭経、楜毅論、東方朔画賛、孝女曹嚥碑や王献之の掛神賊十䞉行など、晋唐の小字の曞を収録したす。

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