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《記憶の女神》第三話|青の色

    シャッ、シャーーーーッ

    キャンバスを筆が走る音が聞こえる。
    自分の背丈よりも大きいキャンバスに向かう少年が、色を重ねていく。
    少年の背中には汗が滲み、滴る汗に構わず筆を運び続ける。

    窓の向こうの群青色の空には、真っ白な入道雲が空高く立ち昇っている。

    シャッ、シャッ、シャッ
    その背中からは生き生きとした躍動感が溢れている。

    「今日は来てくださってありがとうございます〜。はぁ〜暑い暑い。さぁ、どうぞ中に入って、掛けてくださいね〜。」
    後ろから間延びした声がかかり、カナコは、はっと我に帰る。
    “創作室”のプレートが掲げられた扉の前で、いつの間にか、少年の後ろ姿に見惚れていた。

    「遠いところわざわざ来てくださって、ありがとうございます〜。」
    振り返ると、そこには世話好きそうな女性が、冷えた麦茶の入ったグラスを盆に乗せて立っている。
    氷がカランと涼しそうな音を立てる。
    「どうしてもナギ君が、先生に見せたい絵があるって言って、珍しく言うもんだから…」

    ここは都心の一等地に建つ児童養護施設。

    カナコは、この世話好きそうな女性こと、笹川からの緊急の呼び出しの電話があり、急遽、スケジュールを全て変更してやって来たのだ。

    「いえいえ、ご連絡いただいてありがとうございます。手術前ですから、心配事が出て来ても不思議ではないですよ。」

    カナコが言うや否や
    「先生、違うよ。」
    キャンバスに向かっていた少年が振り返って、真剣な瞳で言った。
    その額からが汗が流れ、頬は紅潮していた。

    「これ。」
    少年の背丈よりも高いキャンバスには、多彩な青にグラデーションされた、繊細かつ大胆な一つの絵があった。

    祈りの手のような、あるいは、朝露に濡れた今にも咲きそうな朝顔の蕾のような。

    「ナギ君たら、昨日からずーっと創作室に籠りきりでねぇ、この絵を描いているんですよ。」
    笹川が目を細めて言う。
    「…以前の絵の雰囲気とは全く違う」
    カナコは誰に言うでもなくつぶやいた。
    すかさず笹川は嬉しそうな声で応えた。
    「ほんとに、まるで“普通の子”になったみたいねぇ」
    その“普通”という言葉に、カナコの胸の奥がふっとかすかに波立った。
    でも、その違和感を追いかける暇もなく、ナギの絵に目が引き戻される。

    (この構図……こんなに大胆な絵を描けるようになるなんて。
    そして、空色、藍色、瑠璃色、露草色…
    こんなにもたくさんの青の色を、繊細に描き分けている… )

    カナコは初めてナギと出会った頃の絵を思い出していた。

    当時中学生のナギは、ある企業が主導する小児向け記憶移植術の臨床研究の候補者として登録され、カナコは彼の主担当として選任されたのであった。
    そして、カナコにとっては研究所で働きはじめてから初めての小児患者の症例でもあった。

    「ナギ君、はじまして。桜木カナコと言います。ナギ君の好きなことを教えてくれるかな。」
    ナギとの初めての面談で、カナコは言った。
    「・・・絵」
    投げやりで、不機嫌そうな声で、ナギは言った。
    「絵が好きなんだね。見せてくれるかな」
    そういって、カナコは紙とペンをナギの前に差し出した。

    ナギは乱暴にペンを取り、白い紙の右端に小さな棒人間の絵を描いた。
    その絵から伝わってきたのは、無力感、絶望感、そして大人への不信感。

    カナコは、ナギとの面談前に児童相談所の担当者から、彼の成育歴についての簡単な説明を受けていた。
    ナギは何度も警察に補導される非行少年で、その原因は、複雑な家庭環境と幼い頃に受けた暴力によるものだという。母親は幼いナギを残して消息を経っており、父親は薬物依存症で刑務所で服役中で、親戚を転々としてきたらしい。

    (そんなナギが、今やこれほどの絵を描くほどになるとは…)

    ナギは再びキャンバスの方を向いて、静かに口を開いた。
    「今までずっと、自分の気持ちを誰かに伝えるなんて、意味ないと思ってた。
    大人なんか、いつも自分のことばっか。
    何かあれば言い訳ばっかで。
    全然信用できないって…」
    カナコは静かにその言葉の裏にある、心の深い傷を思った。そして、静かに次の言葉を待った。

    「でも、先生と話したりして、少しずつ、考えが変わった。
    自分の気持ちを表に出しても、受け取ってもらえるんだ、まともに扱ってもらえるんだって。そんなふうに、思えるようになってきた。」
    そしてナギはカナコの方に向き直って言った。
    「それで初めて、自分の思いを伝えたい。
    絵を、見てもらいたい、そう思ったんです。
    今、僕がここにいることを、誰かに伝えたくて。」
    少年の瞳には、これまで見たことのない強い意志が宿っていた。

    「手術をして、地獄みたいな過去は消して、新しい自分を始めたい。
    それは僕のためだけじゃく、僕みたいな子ども達にも、希望があるよって、伝えていきたいから…」
    カナコは、ナギの心からの声に、震えた。
    そして、その言葉を自分に伝えてくれたことに、胸が熱くなった。

    「ナギくん…伝えてくれて、ありがとう。」
    カナコが微笑むと、ナギははにかんで耳の後ろを掻いた。

    カナコは、ナギの閉じていた心が開いていく瞬間に立ち会えたことに、強い喜びを感じた。

    (ここまでの心的回復が認められたのは、心理的な療養が功を奏していることは間違いない。
    ただ、何よりも、これから受けようとしている記憶移植術に対して、彼自身が希望を見出しているんだ…)

    そして同時に、ふっとある考えがよぎった。
    (でも…この選択は、本当に正しいものなのだろうか…)

    カナコは、ナギの手術の対するある懸念を思い出していた。

    それは先日の臨床研究チームのミーティングのこと。
    ナギのプロジェクトの計画は大詰めを迎えていた。
    モニターには、ナギの記憶領域データと、移植予定のメモリの波形データが映し出されている。
    「……とまぁ、波形もこの通りですし、基準値内ので問題ないでしょう。術後経過も、通常の想定内かと」
    担当医師と担当技術の淡々とした説明が続く中、カナコはモニターを見つめていた。
    (……ほんとに、問題ない…のかな?)
    ほんのわずかだが、カナコは違和感を感じていた。
    その波形の重なりは、過去に見た例と若干違う気がした。
    だが、数値上は基準値内に収まっており、誰一人として指摘する者はいない。

    (小児患者への記憶移植術は、ただでさえリスクが大きい。
    しかもナギ君の場合は思春期で、アイデンティティ形成に関わる重要な時期。
    思春期の記憶移植は、副反応が強く出る傾向があるという論文が発表されてた。
    ……それでも、これは“許容範囲”といえるのかな?)

    疑問はある。でも…確証はない。
    そして、何より、自分はまだ新人だった。
    同席しているのは、長年この技術に携わってきた医師たちや、名のある技術者たち。
    経験も実績も、はるかに自分を上回る人たちばかりだ。

    “自分には見えてない何か”があるのかもしれない。
    それに、経験のない自分が、この場を止めても良いのだろうか。
    そもそも、それを判断できる資格なんて、本当にあるのだろうか。

    そんな思いが、カナコの口を閉ざさせた。

    「…では、Case#0009については、このプランで確定します。以上」
    会議は終了して、各々席を立ち始める。
    その流れに逆らう者はいなかった。

    (…きっと、大丈夫だよね…)
    カナコはナギの背中を見つめる。

    ナギは再びキャンバスに向かい、筆を踊らせている。
    その姿は自信と希望に満ちていて、神々しくすらある。

    (…この記憶を変えてしまったら…ここまで回復してきた今、記憶を変えてしまったら…
    ナギは再び筆を取ろうとするだろうか…
    ナギの絵は、また見られるのだろうか…)

    「手術、やめよう…?」
    そう言いかけて――言えない。
    「先生、手術しないで」と言ってもらえたらどんなに楽だろう。

    ブブッ。その時、鞄の中のスマホが震えた。
    画面には、「MTP:Case#0009_社内承認完了」の通知。

    (あぁ…もう、後戻りはできない…)

    ナギが筆を止めて、こちらを振り返る。
    数秒間、目が合った。

    「どうしたの?先生」
    ナギが言う。
    「泣きそうな顔してるよ」

    ――本当に、これでいいの?
    心の中で、誰かが呟いた。

    小さく首をふった。
    カナコは、その声を聞かなかったことにした。

    「ううん…とっても素敵な絵だなって。完成がとても楽しみ。」
    そしてスマホを鞄に押し込み、無理に口角を上げて言った。

    「ではまた、手術当日に」
    ナギの目は――まっすぐに見ることはできなかった。

    部屋を出ると、入道雲が崩れ、灰色の雲が空を覆いはじめていた。
    遠くで雷鳴が鳴る。空気がざわめく。
    けたたましく蝉が鳴いている。

    カナコは振り返らずに歩き出した。
    足元には、先ほどまで照り返していた強い陽の光は、もうなかった。


    紅葉が色づきはじめた並木道。澄んだ空気のなか、季節にそぐわぬ汗が額に滲む。

    洒落た建物のあいだを抜け、秋色のファッションで行き交う人々の穏やかな表情を横目に、カナコの足取りだけが、急いていた。

    カナコは再び、都心の一等地にある児童養護施設へと向かっていた。

    きっかけは笹川からの一本の電話だった。

    ナギの手術は無事に成功をおさめ、術後の経過も安定していた。
    ところが最近、ナギから異常な言動が見え始めたという。手術から約3ヶ月が経っていた。

    カナコは懸念していたことが現実にならないことを祈りながら、その歩みを早めた。

    呼吸を整えながら、創作室を開ける。
    そこには、カーテンが閉め切られた暗い部屋の中に、ナギがしゃがんでいる。
    床にはバラバラに破かれたスケッチブックが散乱している。
    その一枚一枚が漆黒に塗りつぶされている。

    「青が…ないんだ…」
    ナギは怯えたように呟いた。
    その瞳は小刻みに震えている。
    「青がない…」

    「ナギくんの描く絵が怖いのよ…」
    笹川は不安そうに腕をさすりながら、カナコに言った。
    「青の絵の具をみせても、これじゃないって、すごい形相で…」
    笹川はナギの方を見た。その目には恐怖の色が浮かんでいた。

    カナコはすぐに笹川からナギの様子をヒアリングした。
    描く絵の雰囲気が変わってしまったのは、どうやら1週間前くらいからという。

    (MRSを発症しているのではないか…)
    カナコは直感的にそう思った。

    MRS(Memory Rejection Syndrome)――記憶移植に対する拒絶反応。

    それは、記憶移植術を受けた後に、稀に発症する副反応の一つ。
    外部から持ち込まれた「記憶」が、内なる自己と衝突し、現実と幻の境界が曖昧になり、引き起こされる反応。
    軽いものは頭痛、耳鳴りや眩暈といった症状から始まり、移植された記憶と本来の自己の記憶の整合性がとれず、「身に覚えのない記憶」への戸惑いが生じる。
    情緒不安定と誤解されやすいが、放置すると症状が進行し、徐々に自分の名前や年齢などの記憶が曖昧になり、幻聴や幻覚が生じる。

    以前読んだ論文の報告内容を、カナコは頭の中で暗唱した。
    (…まずい)

    そして、カナコは笹川に言った。
    「すぐに、検査しましょう」

    (つづく)


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    花波

     
     
    問いを育てる。 毎日が慌ただしく過ぎていく中で、忘れたくないことを、静かに蒔いていきます。 モヤモヤを耕して、問いの芽が少しずつ根を張るように。 灯火のようなことばが、誰かの暗がりを、ほんのり照らしますように。

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