
「91歳の母が80年間忘れられなかった女性──そうさんは、どこへ帰ったのだろう」
人生に迷ったときに、
少し立ち止まれる場所でありたい。
**静かに強く生きるためのnote**
私が実家に帰ると、母と二人でお茶を飲みながら、何時間も話をする。
と言っても、話すのはほとんど母だ。
私は、もっぱら聞き役に徹している。
母は、待っていましたと言わんばかりの勢いで話し始める。
私は、ただ聞いているわけではない。
声の張り方。
言葉の選び方。
記憶の順序。
話のつながり。
91歳になった母の「今」を見ている。
私にとって、それはとても貴重な時間だ。
話の内容は実にさまざまだ。
大笑いすることもある。
耳が痛いこともある。
そんな中で聞いた、一人の女性の話が、どうしても頭から離れない。
母は泣きながら話した。
私も涙が止まらなかった。
そして、その話は何日経っても、私の心から消えなかった。
おそらく80年近く前の話。
一人の女性が、確かに生きていた。
そのことを、一人でも多くの人に知ってほしい。
消えかけている母の記憶とともに、ここに残しておきたいと思う。
先日、実家に帰った時のことだった。
亡くなった父の実家は農家で、今はいとこが跡を継いでいる。
その日の話は、嫁の苦労話から始まった。
「長いこと我慢したけど、やっと家のことを任されるようになったねぇ」
そんな話をしていた時、母がぽつりと言った。
「昔はね、嫁には何もなかったんよ。全部、長男のものやった」
そこから、母の幼い頃の記憶が始まった。
母は、大分県速見郡日出町の村で育った。
その村に、山師の後妻として嫁いできた女性がいた。
名前を、そうさんといった。
そうさんは、おとなしく、控えめで、働き者で、そして優しい人だったそうだ。
山師も、その母親も、そうさんを大切にしていた。
母親はいつも「そう、そう」と呼び、可愛がっていたという。
「芋を炊いて、子どもたちに食べさせてやれ」
そう言われると、そうさんは大きな鍋で芋を炊き、
「芋が炊けたぞー」
と、遊んでいる子どもたちに振る舞ってくれた。
庭のみかんが実ると、たくさん取ってきて、縁側で一緒に食べた。
山師の二号さんとも並んで田植えをするほど、人のいい人だった。
だから、みんな、そうさんが大好きだった。
普段は質素な身なりで、黙々と働いていた。
けれど、たまに山師と出かける時は違った。
山師の母親が、前妻の残した上等な着物をそうさんに着せる。
髪を結い、かんざしを挿し、紅を少しだけさす。
それだけで、見違えるほど美しくなった。
顔立ちの整ったそうさんは、それはそれは綺麗だったそうだ。
上等な着物は、歩くたびに、
しゃなり、しゃなり、
と、上品な衣擦れの音を立てた。
山師は振り返っては、そうさんと笑みを交わし、誇らしげに歩いていったという。
ところが、その幸せは突然終わった。
山師が亡くなったのだ。
東京の銀行に勤めていた長男は戻れず、代わりに長男の嫁が、大阪商人を何人も連れてやって来た。
何日もかけて、山の財産整理が行われた。
その間、そうさんは、一人で食事を作り、泊まり込んだ商人たちの世話を続けた。
当たり前のように。
いつものように。
文句ひとつ言わずに。
そして、すべての整理が終わった時、告げられた。
山師の母親は親族に引き取られる。
そうさんは、里に帰れ、と。
しかし、そうさんは何十年も里に帰っていなかった。
里がどうなっているのかも分からない。
帰るための峠道が、まだ残っているのかどうかさえ分からない。
幼かった母は、自分の母親に必死に頼んだそうだ。
「どうにかして。うちに置いてあげて」
けれど返ってきたのは、
「家族じゃないから、それはできんのよ」
という言葉だった。
そうさんは何も悪いことをしていない。
けれど、その時代は、長男の権利が絶対だった。
幼い少女の願いは、届かなかった。
そして、そうさんが帰る日が来た。
そうさんは、きれいな着物を着ていた。
髪を結い、かんざしを挿し、小さな荷物を持っていた。
「それでは、さようなら」
短い言葉を残して、そうさんは峠へ向かった。
子どもたちは走った。
「そうさん!」
「そうさん!」
そうさんも、振り返って手を振ってくれた。
そして、その姿は、峠の向こうへ消えていった。
母は、91歳になった今でも、その日のことを鮮明に覚えている。
衣擦れの音までも。
私にも、その光景が目に浮かんだ。
そして母は、小さな声で言った。
「でもねぇ、そうさんには、帰るところなんかなかったんよ。きっと山の奥で死ぬつもりで帰って行ったんよ」
母の目から、大粒の涙がぽとぽとと落ちた。
私は、何も言えなかった。
数日後、再び実家を訪れた時、私は母に言った。
「そうさんね、きっと里に帰れたと思うよ。村の人たちが、『よく帰ってきた』って迎えてくれたと思う」
母は、私がそうさんの話を覚えていたことに驚き、少し嬉しそうに笑った。
「そうさんの話、よく覚えとったね」
そして、小さく言った。
「そうやね。里に帰ったね」
けれど、その言葉には、どこか力がなかった。
私は、そうさんが生き延びた未来を想像できる。
けれど母は、そうは思えなかった。
80年前の少女が見た現実は、それほどまでに厳しかったのだ。
なぜ、この話がこんなにも頭から離れないのだろう。
なぜ、91歳を過ぎた母が、80年経った今でも忘れられないのだろう。
私は幼い頃から、母にこう言われて育った。
「人が見ていても、見ていなくても、ちゃんとしなくちゃいけないよ。神さまは見ているからね」
今になって思う。
母は、人生の理不尽さも、願っても叶わないことも、嫌というほど経験してきた。
それでもなお、人として真っ直ぐに生きることを諦めなかった。
そうさんのことを80年間忘れられなかったのも、きっとそのためなのだろう。
母の人生を知れば知るほど、私は母が愛おしくてならない。
母が、なぜこれほどまでに理不尽な別れを忘れられないのか。
それは、母自身もまた、幼い頃から数え切れないほどの別れを見てきたからなのかもしれない。
母の母、つまり私が会ったことのない祖母も、戦争で息子を失った。
特攻隊として出征した兄の話を、母から聞いたことがある。
出征の前夜は、お祝いだったという。
祖母は気丈な人だった。
人前で涙を見せることはなかった。
けれど母は、幼いながらも知っていた。
兄が乗る飛行機には、帰りの燃料が積まれていないことを。
それが、どういうことなのかを。
だからこそ、賑やかな席の向こうにある、大人たちの悲しみを感じ取っていたのかもしれない。
祖母は軍用機が空を飛ぶと、畑仕事の手を止め、軍用機に向かって手を合わせていたという。
その目には涙が溢れていた。
母は幼いながらも、その姿を見てはいけないと思ったという。
だから、反対を向いて、自分も泣いていたそうだ。
激動の時代を生き抜いた母。
親も、兄弟も、夫も、今はもう誰もいない。
私は、母には、無念のうちに世を去った兄の分まで、元気に、幸せに、長生きしてほしいと思っている。
もしかしたら、母は91歳になった今もなお、80年前のあの日、峠へ向かうそうさんの後ろ姿を見送り続けているのかもしれない。
そして、母が見てきた時代と、母が抱え続けてきた記憶を、少しでもこの先に残したい。
そして私もまた、母から受け取ったその記憶を、これから先も忘れることはできないのだと思う。
もし、この話を読んで何か心に残るものがありましたら、感じたことをお聞かせいただけると嬉しいです。